2013.7.7(日)曇り、雨 飯盛山(8)は2013.4.22
南丹市八木町の南丹病院に歯科治療に通い始めて二ヶ月あまり、燃料費と片道一時間の通院時間を有効に活かそうとした試みが、京都帝釈天での盃状穴探しであった。結果、京都帝釈天の参道石灯籠と鳥羽の八幡神社鳥居石段と手水鉢に盃状穴を発見した。盃状穴はともかく、この地は歴史的にも地名の関係でも奥深いものを感じさせる。氷室の郷氷所(ひどころ)、日置(ひおき)、園部町の小山別所(現在はこの地名はない)、八木町船枝六ロ谷など探索したい地名が目白押しだと感じていた矢先に「飯の山の秘密」(岩田朱美著)に八木町美里の飯盛山西光密寺の記事を見つけた。
このことは少なからず衝撃であった。課題にしている地名は、引地、日置、別所、生守などであり、金属に関連するところが多い。それに偶然に調べ始めた盃状穴の存在地などを追っていると、ほとんどの場合飯盛山に突き当たるのだ。生守(いもり)は飯盛と同様だから当然としても、後の事柄は今のところなぜだか断言できない。
ただかすかな想像はすることが出来る。例えば別所は国分寺などを造営する際に金属製品を生産したり加工したりする工房のある地域を呼んだということが考えられる。飯盛山は国分寺などを作る際の測量に関係しているとされる。引地、日置なども測量に関連する地名だとすれば、つじつまは合ってくる。
2013.7.2訪問、唐風の山門を入ると最奥に本堂がある。
「飯の山の秘密」にある西光寺の記事は次の通りである。
平安京の西側、京都府八木にある飯盛山西光密寺は、奈良時代、聖武天皇の時に開基され、その裏山は、平安時代以降は、御所と鏡で通信した場所であったと伝承されている。御所を中心に平安京を東西に分けた時、西の境界になる場所だったので、西光寺と呼ばれたという。聖武天皇の時代に開基されたという事は、奈良の平城京時代からこの場所に飯盛山があって、後に平安京に遷都が行われた後に鏡通信の場になったという事だろうか。(以下略227ページ)つづく
【作業日誌 7/7】
河牟奈備神社草刈り
【今日のじょん】日に日に鹿の侵入が激しくなっている。侵入といっても法面を登っているだけで、何の被害もないのだから不思議である。以前には桜の幹を囓ったり、ツタの葉を食べたり、植木の被害もあったのだけど今は食が足りているのだろうか。それにしても法面を登って次にどこに向かってるのかわからない。そのまま奥に入っている様子もないし、登ってまた下りているとしか思えない。単に遊んでいるだけなのだろうか。もっと不思議なのは足跡ははっきりしているのだがじょんが知らんぷりしているのだ。写真では興味ありげに写しているのだが、実はあまり興味ないみたい。猿などには強烈に反応するんだが、、、、。