2013.7.18(木)曇り 京都帝釈天(19)八幡・厄神社の盃状穴
手水鉢は遠目には新しそうなので覗く気もしなかったのだが、最後に少し見ておこうとばかりに覗いて驚いたのである。八木町鳥羽の八幡様同様、強烈な盃状穴が周囲に穿たれている。材質は花崗岩のようで、屋根付きの建物に収まっており、乾燥した場所にあるので苔など付いておらず新しそうに見えたのだろう。銘など入っておらず確かな年代はわからないが、少なくとも江戸時代のものだろう。
盃状穴の状態は縁の周囲に隙間なく穿たれており、直径は最大10cm程度、個数は28個である。
建物も敷石も新しいのに手水鉢だけが古いものだ。
考察
八幡、厄神社に盃状穴を発見したのは意外な結果であった。府道から見る限り、すっかり新しくなっているだろう神社に見えたからだ。訊ねてみると新しい設備の中にいくつか古いままのものが残り、その部分に盃状穴を発見した。
設備が新しくなった真の理由はわからないが、この地が垣内古墳という口丹波最大の前方後円墳であり、1972年に大規模な発掘調査が行われたこと、あるいは府道の整備によって神社自体も整備されたのではと考えられる。
いずれにしても多くの設備が更改されているのに、盃状穴のある鳥居の台石、手水鉢が旧のまま残されているのは如何なる事だろう。
当初その理由が盃状穴ではないかと考えた。そこに盃状穴が穿たれているので、その事由が何であるかわからなくても何か意味のあることとして残したのでは無いだろうかと考えたのである。しかしそのことを確認するのは難しいだろう、当時神社の設備更改に関与した神社の世話役に尋ねるしかないだろうし、そういう人物を探し出すのは相当困難だろう。
そんなときインターネットの神社に関するサイトで有力な情報を見つけた。「寛文6年(1666年)園部藩租小出吉親が鳥居を奉納」というものだ。慌てて判読できなかった鳥居の銘を写真で読み直す。「船井郡垣内村今林村氏神」の文字が読み取れる。おそらくその右に書かれた文が小出公の奉納に関わる文なのだろう。この件に関しては南丹市立博物館に問い合わせてみた。来週再度訪れるのでその際に回答があろうかと思うが、まず間違いないだろう。
右が八幡社、左が厄神社、何もかも新しいのに八幡の鳥居だけが昔のままだ。
この鳥居をよく見ると、盃状穴の台石の下にもう一つ新しい台石がある。発掘調査の際か何かに一度移動しているのではないだろうか。そういった際にただの古い鳥居であったならば更改されているのだろう。ところが小出公奉納の由緒ある鳥居なのでそのまま残したと考えるのが妥当であろう。
そうなると手水鉢が問題である。盃状穴研究者には貴重な代物だが一般的には何ともみっともない形状なのである。それが残されて丁寧に屋根付きの建物に存在しているということは相当の理由があろうかと思われる。つづく
【今日のじょん】爆発南瓜
中尾種苗の苗はなんでもよく育つが、特に南瓜は強烈である。一晩で1m以上蔓が伸び、小蔓がどうの剪定がどうのっていってる暇が無い。あれよあれよと言ってる間に畑を占領して、外にまで蔓を伸ばし、でかい実をつけている。実質支配という意味ではどこかの国によく似ている。我が家では爆発かぼちゃと呼んでいる。中尾種苗には悪いが、このかぼちゃ、ほとんどがじょんの食糧となっている。