『関東の城址巡り』⑪、久留里駅から久留里城址を目指す。距離は1kmほど、広々とした駐車場に車を停めてあとは上り坂を上がって行く。
城址と言わなければ単なる里山、しかし、切り通しのようになっていて城があった頃には木で橋を作ってあった『堀切』後が城を目指す道となっている。
駐車場は海抜55mに対し、資料館のある二の丸が標高128m、本丸は標高145mある。これに対して資料館までが380m、天守跡までが540mだから坂の勾配がきついのが良くわかる。カラスウリと共に楓の紅葉もやや盛りは過ぎたが赤く美しい。
資料館手前から右に道が分かれ、『薬師曲輪』からは眼下にかつての三の丸跡がよく見える。久留里城の広さが良くわかるポイントである。
久留里城は上総武田氏の祖となった武田信長が1455年に上総国守護代となり、1456年に築城したと言われている。その後、弱体化した武田氏に変わり、里見氏が戦国時代以降統治し、1535年には里見義堯が古い城の跡に久留里城を新たに築城した。ただ、1590年に里見氏が豊臣秀吉の不興を買い、所領は没収。
その後は徳川家の所領となり、江戸時代の一時期には土屋氏が改易になったが、復活し、明治5年まで城は残った。今の天守は1955年に天守台の隣に新たに作られたものだが、現在は2023年5月の地震の影響で瓦の一部が壊れたために天守の中には入れない。
資料館の前には新井白石の銅像があるが、これは幼少期〜青年期にかけ、土屋利直に仕えた頃にこの城で仕官していた。後に6代将軍徳川家宣に仕え、正徳の治と言われた優れた政治を行なった。
資料館の中には城郭の模型図をはじめ、甲冑、刀剣、調度品や絵馬、神楽道具など城ばかりではなく、地元の風習や信仰に関する資料が並べられている。1階には久留里城周辺を立体的に示した模型もあり、かなり大きな規模の城であったことがわかる。
資料館からじゃり道を登って行くと『男井戸、女井戸』と呼ばれた井戸がある。これは良弁により掘られたいう伝説もあるが、戦国時代に里見氏が北条氏に攻められた時もこの井戸のおかげで籠城できたと言われている。今は緋鯉が泳いでいた。
坂を登ると左側に再興された天守及び天守跡が現れる。この天守は1955年浜松城を手本に再興されたもので2層となっている。しかし、地震の被害を受け、中には入れず周りを歩くことしか出来なかった。隣の天守跡はほぼ天守と同じ大きさであり、ここからはかなり遠くまで臨むことができたのであろう。
天守まで息を切らせながら登り、帰りはゆっくりと坂を降りて駐車場に戻った。