hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

天秤棒〜人形町ランチグルメ

2022-01-21 05:00:00 | グルメ
なぜか人形町・水天宮前界隈には坦々麺を出す店が多い。『ぴりり』『赤い鯨』『寿限無』『大申』、『麺や六』。とくに『麺や六』は初めは『博』だったが、『くにまつ』に変わり、今の方で3回目、しかしいずれも坦々麺専門店である。そんな激戦区に昨年末に殴り込みをかけてきたのが『天秤棒』。以前は焼鳥屋『丈参』という店だったが、夜だけの営業がたたり、昨年11月に閉店してしまった。

丈参を居抜きのまま坦々麺専門店にした店はカウンターのみ、11席しかないので混雑していて11時45分でも少し外で待たされた。

店に入り、メニューを見るが『元祖坦々麺』『やみつき坦々麺』の2種類があり、なんとなく今日は『やみつき坦々麺、パイコー乗せ』(1200円)にしてみる。値段は近所の寿限無とほぼ同一、やや高めかなあと思う。

意外にすぐに到着。麺の上の青梗菜と糸切り唐辛子が目に鮮やかである。パイコーはやや小さめ、脂の部分が少ない。味がよく染みていてなかなか美味い。

まずはスープを一口。辛味が調整できないタイプだが、あまり辛くない。上に刻んだピーナッツが乗っていてこれが香ばしい。麺は菅野製麺所特製でツルツルと喉越しがいい。辛味不足をラー油3杯入れて調節、ニンニクと唐辛子がよく効いていて辛くなるだけでなく旨味も優ってくる。

ライスはランチ時には一杯無料らしいが、メニューに記載がないのが残念。まあ、記載があっても遠慮しておくのだが。


とにかくお客さんが多く、殆どおっさん、中には若い人という感じ。肉汁餃子や鳥そばもあるようだが、注文する人はいなかった。ご馳走さまでした。
天秤棒
中央区日本橋人形町2ー25ー11
05058686228

カレンダー交換箱2022

2022-01-20 05:00:00 | 日記
久我山駅を使うようになってからもう20年以上が経過している。元々は地上駅で一度地下に階段で降り、さらに登ってホームに辿り着くという構造であったが、今の橋上駅となったのは2005年。まずは南口が2月に開業、さらに12月には北口も完成して今の型となった。

(地上駅だった頃、2004年)

改札口を出ると目の前には啓文堂書店、お隣には京王グループのコンビニがあったのだが、早朝深夜は閉店していて使い勝手が悪かった。それが先週セブンイレブンに模様替えして開店したのである。

久我山駅というか、久我山の名物は春になるとやってくるツバメ、南口に巣を作るのだが、ここ2年くらい見ていない。また、6月第1週の週末、玉川上水と神田川で行われる蛍まつり、12月に街中にイルミネーションを灯すピカピカまつりが2大イベントで地元商店街が頑張っているが、ここ2年ほど残念ながらコロナ禍で休止している。
今年は地元國學院久我山が年末〜年始にスポーツイベントで全国大会(サッカー、ラグビー、駅伝、バスケット等)に出場を応援するくらいである。

その中で地味だが40年続いているイベント、それが『カレンダー・手帳交換箱』である。

北口を出て左に曲がると畳屋さんがあるが、その前に12月下旬になると専用の箱が用意されて不要なカレンダーや手帳を入れておくと必要な人が持って行って利用するという単純な仕組みである。

実際に持って行く人がいるのかと思って見ていると駅の帰りに丁寧に見て必要な分を持っていくお婆さん、私がカレンダーを入れようとするとデスクカレンダーはあるかと聞いてきたお爺さん、前の日に入れると翌日には殆どなくなっている。



今の勤務先では結構カレンダーや手帳が余るため、せっかく頂いた物を有効に利用しようと持ってくることにしている。紙製とはいえ30ほどカレンダーや手帳を入れると重いが、物を大切にという先人の考えに共感して参加している。景気が悪くなるとカレンダーや手帳を止める企業が多いために心なしか最近は減った気がするが。
今日も私が持ってきたカレンダーを箱に移す際に、私と同じようにカレンダーを持ってくる若いサラリーマンがいてホッとした。少しでも役に立つことを期待して。

『創業の地』を歩く②〜飯田橋編②

2022-01-19 05:00:00 | 創業の地
『創業の地を歩く』その2。飯田橋1丁目の信号で反対側に渡る。



『台所町跡』という石碑があるが、江戸時代にこの辺りには台所衆と呼ばれた江戸城の料理を担う役人の組屋敷があり、台所町と称した。武鑑にはお台所頭・四百石・たい所町・鈴木喜左衛門と書かれている。

ここから飯田橋駅に向かう。右手に東京大神宮の大きな石碑が見えて来る。その先に『國學院大学開校の地』の石碑もある。



ここに1882年に国学を学ぶ皇典講究所が設けられ、さらに1890年に山田顕義により國學院が開校した。その後、1923年5月に現在の渋谷区に移転した。



すぐそばに『東京府立四中発祥の地』。1882年に国学を研究する目的で開校、1888年に同じ地内に開設された補充中学が1901年東京府立第四中学校となったものである。1904年に市ヶ谷加賀町、戦後は新宿区戸山に移り、現在は戸山高校となっている。




『日本大学開校の地』もこのそばにあるが、実は國學院も日本大学も山田顕義により開学されたもの。國學院の1年前に日本法律学校として創立、1895年には三崎町に移転している。つまり國學院大学と日本大学の嚆矢をたどると同じものであり、その石碑が両大学によりそばに作られていた。

最後は『飯田橋』の石碑である。江戸時代には外濠の城壁に囲まれていて橋や道路はなかった。1868年に外堀を渡る木の橋が作られ、1881年には車が通れる橋、1890年には鉄橋となった。

飯田橋はあくまで橋の名前であり、地名ではなかった。甲武鉄道が開業した際の始発駅として『飯田町』駅が作られたのだが、関東大震災からの復興に際して1928年に近くにあった牛込駅と飯田町駅を統合して飯田橋駅が誕生。その後も長距離列車の始発駅として残されたが、1933年にこの機能を新宿駅に移譲、旅客扱いを廃止して貨物駅となり、1999年に駅も廃止された。

元々の地名は飯田町なのに後でできた飯田橋の方が地名となり、飯田町という地名は今はない。

これで一回り、しかし紹介した以外にも『日本赤十字社の跡』『新撰組屯所跡』『東京女子医大発祥の地』『甲武鉄道飯田町駅』という4つの石碑があるはずなのだが、地下鉄工事の関係からか今は指定された場所からは移転しているようである。

文明堂カフェ(再訪)〜日本橋ランチグルメ

2022-01-18 05:00:00 | グルメ
コロナ禍も2年近くなり、日本橋界隈でも閉店する店が出てきた。『美味い讃岐うどん』『四国の郷土料理を出す店』『炊き立ての美味いご飯を売りにする店』『人形町の美味い焼鳥屋』もなくなってしまった。やはり、コロナ禍で弁当にする人、在宅勤務の推進も影響があるのかもしれない。

その中でも老舗レストランは頑張っている。COREDO室町1階のにんべんは女性を中心にいつも混んでいるし、陳建一さんの四川飯店は麻婆豆腐を求めて並ぶ人がいる。目立たない場所にある『文明堂カフェ』のランチも盛況。

カステラを販売しているメインの入口から入ると奥に、一本裏の道を歩くとお馴染みの白いクマの人形が出ているのですぐに分かるのだが、私は調べて初めて知った。

以前にも紹介したことがあるが、こちらのランチは飲み物付きで1100円均一。いつもあるメニューが『ハヤシライス半熟卵乗せ』『スパイシーチキンカレー』『ランチサラダボール』の3種類。これに『今週のハンバーグ〜今週は照りマヨハンバーグ』『今日のパスタ〜菜の花のペペロンチーノ』から選択する。前回はハヤシライスだったので今回はチキンカレーを選択、アイス烏龍茶を選択した。



まずはアイス烏龍茶が到着、コースターには懐かしい『カステラ1番、電話は2番、3時のおやつは文明堂』のCMに出てくるクマの人形たちが描かれている。因みにこのカフェの電話番号も下4桁は0002である。

ランチは定番3種類から選ぶお客さんが殆ど、とくにハヤシかカレーで悩む。いずれもワンディッシュでサラダもたっぷりある。着いたカレーはそっちのけでまずはレタスメインのサラダをいただく。



チキンカレーはチキンの量が半端なく、大きな塊が5つはある。ご飯は型に入れたまもので成人男子にはやや少なめ。一方、ルーは十分ある。また小さな茶色のスパイスが付いてくるがこれを味変に掛けると香るスパイスに加え辛味も増す。



元々スパイシーなルーがさらに際立つ味わいに。ゆったりした席でゆっくりくつろぎながらカレーを時間を掛けて頂けるランチの穴場である。

ランチを食べた人の特権として200円足すと焼きたてカステラを1枚食べることも可能。ご馳走さまでした。
文明堂カフェ
中央区日本橋1ー13ー7
0332450002

『創業の地』を歩く①〜飯田橋編①

2022-01-17 05:00:00 | 創業の地
『創業の地を歩く』その1。2022年のスタートにあたり、新しい企画を立ち上げることにした。ブログを書いて9年間、主に東京の街を歩いてきたが、大学や企業の創業の地に出くわすこともしばしば。しかも、今存在している場所から離れた所が多いのである。そんな創業の地を歩いてみることにしたい。

第1回として飯田橋駅から九段に向かいながら創業の地の石碑を見ながら歩いて行く。ここは『歴史のプロムナード』という名前をつけて整備されているからである。

東京メトロ東西線飯田橋駅から地上に上がるとすぐ前に『東京農業大学開校の地』の石碑がある。東京農業大学は1925年榎本武揚により徳川育英会育英黌を設立したが、これが母体。

徳川育英会は旧幕臣の子女教育のために奨学金を拠出していたが、直接学校を作り、教育しようとしたものである。

ただ、この地にあったのは一年のみで農地確保のため文京区大塚窪町(現在の大塚2丁目)に移転、最終的に1946年3月に現在の場所に移転している。


次は飯田橋付近の地形図、1590年に徳川家康が入城した頃のものである。まだまた、海の面積が広い。

飯田橋2丁目信号付近には『徽章業発祥の地』、1885年に鈴木梅吉により日本帝国徽章商会が開業。

その後の徽章業各社はこの会社の流れを汲んだものであり、今も周辺に徽章業の店が多い。

『北辰社牧場跡』の石碑、こんな街の真ん中に牧場?と疑問に思うが、先ほどの農大開学同様に榎本武揚が自分の屋敷の中に牧場を作り、乳牛を30〜40頭飼育していたのである。

これは江戸が東京になり、旗本屋敷などが空き家になったため、住民が激減し、新たな産業振興が必要となった。オランダ留学の経験のある榎本は北辰社を設立、牧場や乳業工場を運営していたのである。



吉幾三の歌に『銀座でべこ飼うだ』というフレーズがあったが、『飯田橋で乳牛飼う』は普通にあったようだ。ただ、今はもちろん面影もないが。(以下、次回)

狛虎が4匹いる天現寺を訪れた

2022-01-16 05:00:00 | 日記
渋谷川に沿って恵比寿駅から天現寺橋を目指す。駒沢通りを歩くと渋谷川同様に少し右に曲がりながら天現寺橋の大きな歩道橋が見えてくる。



左側には大きな都営アパート、元はここに都電の広尾営業所(車庫)跡地に建設されたもの。

広尾車庫は1914年に開設、廃止前は7(四谷三丁目〜品川駅前)、8(中目黒〜築地)、33(四谷三丁目〜浜松町1丁目)、34(渋谷〜金杉橋)系統の運行を担当。

1969年10月に33、34系統の廃止とともに廃止された。
天現寺橋歩道橋を上り、向かい側に渡る。天現寺橋であるが、川は笄川と渋谷川の合流点にあり、道路は駒沢通りと外苑西通りの交差点と交通の要所にある。



歩道橋を降りるとすぐに山門があり、中に入る。右側には高いビル(天現寺スクエア)、左手の建物は手前が毘沙門堂(客殿)、奥に本堂がある。

由来は江戸時代中期の1719年に小日向御箪笥町にあった普明寺を引き継ぐ形で当地に移転、多聞山天現寺として新たな法幡を堅起することになった。ご本尊は高さ109cmの多聞天像(秘仏)である。その後、1845年の江戸大火で焼失、さらに1945年太平洋戦争に伴う空襲で再び焼失し、その後再興されている。(そのため、建築物は比較的新しい)

毘沙門天の使いは『虎』とされており、客殿、本堂共に前には一対の『狛虎』が睨みを効かせている。

(正面)
(横から)
まずは手前の客殿の狛虎は明和3年(1766年)製作で左右では随分意匠が異なり、右側の虎は顔だけは前を向いて睨む。

(正面)

(横から)
一方、左側の虎は前を向いて吼えているように見える。いずれも迫力がある顔つきである。

本殿の狛虎は左右対称のフォルムで向かい合っていて、特色として尻尾が長く、また胴の縦じまがはっきりと分かる。こちらは天保6年(1835年)の盂蘭盆会で御目見したものらしい。



この4匹の虎が睨みを効かせている天現寺は前庭も美しく、また日当たりも良いため、紅梅の蕾も膨らみかけていた。






上海四川料理 廣安〜恵比寿ランチグルメ

2022-01-15 05:00:00 | グルメ
風邪もようやく治りかかって来た。このところあっさりとしたものばかり食べていたこともあり、中華ランチの店を探して歩く。恵比寿駅から歩いて10分近くかかる恵比寿橋のたもとにある『廣安』という店を発見。

あまり足回りのいい場所でもなく、しかも11時40分という時間にも拘らず席はほぼ満席。ようやくカウンターの最後の1席に案内してもらう。

ランチメニューは麺やチャーハンなど種類は多い。セットメニューはシュウマイ定食(大シュウマイ2、小鉢2、サラダ、スープ、デザート、900円)、ランチ(今週はトリ唐揚げ香味ソース、小鉢、サラダ、スープ、デザート、1000円)となっている。悩んだ末にランチにしてみる。



左隣の人はシュウマイ定食、右隣の人は麻婆豆腐とシュウマイ。特に麻婆豆腐が運ばれて来た際のスパイシーな香りには心動かされた。



まずは簡単なサラダ、キャベツを粗く切って煎ったじゃこを乗せ、ドレッシングをかけただけだが、香ばしいじゃこが味を美味くまとめている。次にスープ、単なる中華風卵スープだが出汁が少し違う。これは期待できると感じた。

小鉢(豆腐の中華ソースかけ)、鶏の香味ソースが登場。まずは大きめの唐揚げが6つも乗ったボリュームにビックリ。もちろん揚げたてでソースの味も甘すぎず旨い、気になる点はやや揚げ過ぎで硬めの仕上がりながら、上出来である。


ソースのかかった千切りレタスも美味い。小鉢も何気ない一品だが味がまるで変わり、いい箸休め。十分満腹となる。

最後に供されたデザートは杏仁豆腐、手作りだが、その味、舌触り、大したものである。他のメニューもぜひ食べてみたい興味深いレストランであった。ご馳走さまでした。


廣安
渋谷区広尾5ー23ー2
0362772623

切羽詰まって街角で『PCR検査を受けてきた』

2022-01-14 05:00:00 | 日記
2022年は年明けよりあまりついていない。これはオミクロン株の感染爆発によるところが大きい。昨年末に妻が孫のところに手伝いに行った時に孫たちから風邪をもらってきてしまい、正月3が日は体調が悪そうで咳が酷く、喉が痛そうである。

12月29日からは私も休暇だったが、特に年末年始の時期は夫婦2人で過ごす時間が長い。当然のことながら私も4日頃から体調が悪くなり、咳こむことが増えた。さらに7日には痰も出るようになった。3連休は土曜日午前を除きほぼ床の中で過ごし、連休明けの11日も咳が残っていて休暇にした。
困ったのは症状である。デルタ株は肺の奥にダメージを与えるのに対して、オミクロン株は喉や鼻、口という上層に症状が出る。つまり風邪、一般的な感冒と全く同じ症状なのだ。風邪で咳が止まらなくなり、痰が出て、しかも熱はない。これでは区の発熱デスクの管轄でもない。しかし、症状が多少治まり、仕事に出ようにも出にくい。通勤電車にも乗りにくいのである。
しかし、このままではキリがないため何とか12日中には決着をつけるべく民間のPCR検査を受けることにしたのである。

2年もコロナ禍が続く中で、民間のPCR検査場は充実している。ターミナル駅には殆どあり、スマホで必要事項をインプット、12日10時15分の検査を予約した。私が予約した施設はどうも安売り航空券の会社(エアトリ)が経営しているようである。

検査場は渋谷駅前、宮益坂の途中にある雑居ビルの1階を改造したもので狭いコンビニくらいのスペースに検査ブースが29もあり、すれ違えないほど。それでも検温の後、予約内容を確認。検査キットと誓約書をくれ、狭いブースに案内される。誓約書には『陽性』になった際にはかかりつけ医または自治体に連絡することを認めることに関するもの。
また、検査キットにはバーコードを貼って、円錐形のプラ容器に唾を入れるのだが、出そうで出ないのが唾。4ml入れるのには5分ほどかかる。目の前にレモンや梅干しの写真が貼ってあるのが面白い。

次はこれらを持参して会計するのだが、会計の列がすごい。作業7分、並ぶのが入場と会計合計で30分くらいかかる。さらに料金体系も面白い。PCR検査は3980円だが、当日に結果を知るためには追加料金が5980円必要。街角のPCR検査場を使うのは切羽詰まった人が多いことがよくわかる。

全て終了したのが10時50分、外に出ると最初に来た時より列が完全に伸びていた。
問題は結果の通知時間、先方は今日中としか言ってくれない。ようやくメールが来たのが19時43分、結果はもちろん陰性だからこんなブログが書けるのだが。それでもPCR検査はかなり使い勝手が良くなって来ていると感じた。

箱根駅伝ゴール地点を歩く

2022-01-13 05:00:00 | 日記
常盤橋公園を出てJRのガードの方に向かう。旧逓信博物館の後にはJPの巨大なビル、同様のサイズのビルが列を作っている。そして東京サンケイビルの隣は読売新聞東京本社ビルとなっている。

ここはいつも箱根駅伝の2日目(1月3日)にランナーが飛び込んできてガードをくぐり、ゴールを目指すが、そのゴール地点がまさにここにある。

ゴール地点を示すプレートがあるはずと周囲を探すが、中々見つからない。足元を丁寧に見てみると植栽と境、『絆』という題がつけられたランナーの像の右下、歴代優勝校が刻まれている石碑との間あたりに埋め込まれている。

せっかくだからと歴代優勝校を見てみると各校の黄金時代が見えてくる。創成期(大正〜昭和ヒトケタ)黄金時代を迎えたのが早稲田大学と明治大学、15年の間に早稲田大学が7回、明治大学が5回優勝している。(因みに明治大学が最後に優勝したのは昭和22年である。)

その後、日大が4連覇するなど中央大学と日本大学の2強時代が昭和43年頃まで続く。昭和44年からは日体大が5連勝、昭和61年からは順天堂大学が4連覇するなど黄金時代を築く大学が増えた。さらに優勝経験が全くない大東文化大、山梨学院大、神奈川大がそれぞれ一時代を作った。現在の強豪校が最初に優勝はしたのは平成12年の駒沢大学、平成22年の東洋大学、平成27年の青山学院大学が初優勝し、今の地位を確立。その中で連覇は少ないが常に優勝に近かったのが早稲田大学のようである。

挙げた大学以外で優勝経験があるのが東京高等師範(今の筑波大学)、慶應義塾、専修大学、亜細亜大学と98回もやっているのに優勝したことがあるのは17校しかないのである。(法政、国士舘、東京農業なども総合優勝はない)

(2018年1月2日六郷橋)

それでも最近の箱根駅伝には東京国際大学、中央学院大学、今年初出場の駿河台大学など新たな学校の参加も増えてきており、伝統校と言えどもおちおちしていられない。再来年には100回大会を迎え、参加校が増える見込みもある。勝手ながら我が母校慶應義塾の勇姿を見ることを期待して見たくなった。


旧常盤橋門跡と渋澤栄一の銅像を巡る

2022-01-12 05:00:00 | 日記
日本橋川に架かる橋を江戸橋、日本橋、西河岸川と遡り、外堀通りに架かっているのが一石橋である。



一石橋は江戸初期からある古い橋で、破損した際に北詰の本両替町の後藤庄三郎(金座当主)と南詰の呉服町の後藤縫殿助(江戸幕府御用呉服掛)により再建された。その際に後藤の読みが『五斗』、『五斗+五斗=一石』という洒落が効いたネーミングにより一石橋と名付けられた。



当時この辺りはかなりの繁華街で迷子もよく出たが、地元の町内で1857年に『満よひ子の志るべ=迷い子の標』という石柱が作られた。これは石柱の右側に『志らする方』、左側に『たづぬる方』と彫られていて左側に迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、これを見た通行人に重い当たりがある場合はその旨を書いた紙を貼り、知らせたのである。

橋の隣には三菱治所が開発した常盤橋タワー(地上40階、地下5階)が聳えている。高さが212m、この周辺には後3本、うち1本は高層ビルとなる予定である。


再び一石橋を渡り、向かい側に渡る。常盤橋のところで川は曲がり、橋がハの字になっている。(やや分かりにくいが関東大震災後に作られた車道が通っているのが『常盤橋』、常盤橋門に続く歩道の橋が『常磐橋』である)



その奥の常磐橋は今回整備されたもので向かいには日銀本店、また、今回の修復で渡場も新設されている。



橋を渡ると旧常盤橋門の石垣が残されている。八角形の大理石製の親柱や唐草意匠の手すり柵など豪華な細工が施されている。



常盤橋門は1629年に置かれた奥州街道につながる江戸五口の一つで門は1873年に撤去されたものの石垣の保存状態が良く、1928年に国史跡に指定された。



常磐橋は1590年に木橋として作られ、1877年に石橋に改架。近代的な石造橋の先駆けである。関東大震災、東日本大地震で被害を受け、ようやく昨年完成をみた。



また、常盤橋公園には渋澤栄一の銅像が建てられている。この像が初めて作られたのは1933年、公園と同時に完成した。



しかし、一旦は太平洋戦争の金属供出に伴い失われたが、1955年に再興された。因みに像が向いているのは旧第一国立銀行本店である。