ブログのタイトルなんですが、実はブログの開設をパソコン上で申し込みながら咄嗟に思い出したものなんです。
以前、どこかの学校の文化祭か何かで「三無主義をぶっ飛ばせ」という一文がテーマになっているのを見かけました。その三無主義の「三無」の内容は、「無知、無関心、無感動」だったと記憶しております。この内容はその学校独自の解釈らしく、なかなか面白い発想だなと感じました。それを思い出したんですね。
三無主義の「三無」については諸説あるようで、無気力、無関心、無責任とするものが多いようですが、これといった定義はないみたいです。
いずれの場合にも当てはまるのが、とにかく三無主義はいけない、そこから何とかして脱却しなければならない、そのためにはどうすればいいのか、という方向にしか話が発展しない点です。
別に開き直っているわけではありませんが、三無主義のどこがいけないのか?
実はこれは、数年前に話題となった、「人を殺すのがどうしていけないのか?」というフレーズとも共通しておりまして、要するに、共同体が維持できなくなるから、というのが根本的な理由なわけです。
倫理とか道徳というのは庶民からは決して生まれない。時の支配者、治世者の側からの発想というか、必然的な考え方なんです。
歴史は昔から自転車操業ですからね、うまく回らなくなると倒れてしまう。だからうまく回らなくなるような考え方、行為なんかを道徳や倫理で、時には法律で禁じる必要があります。人を殺しちゃいけないよ、盗んじゃ駄目ですよ、汝姦淫するなかれ!!なんてね。最近では、愛国心、愛国心。
しかしその前提をもう一度疑ってみるというのはいかがですか?
曰く、どうして共同体が維持されなければならないのか?
別に日本に(あるいは別の国でも)生まれたくて生まれてきたわけじゃありませんよね? サルトルじゃないけど、人間はペーパーナイフじゃないんだから用途を考えて作り出されたわけじゃない。何かをしなければならないなんて、生まれたときは何も決まっていないし、誰が決めるものでもない。
将来大きくなったらお国のために命をかける立派な軍人になってほしい、なんて考える人もこのごろ増えてきているのかもしれませんが、それは多分、他人の子供のことで、自分の子供を戦地へ送り出したい親はあまりいない筈です。
教科書に「愛国心」の文字を入れる、その背景はどうも世の中がうまく回らず倒れてしまいそうな危惧を持っている治世者のあせりなのかもしれませんよ。
三無主義を礼賛する気は毛頭ありませんが、言下に否定するのもどうかと思います。少なくとも、今の時代は三無主義の時代です。
実はいつの時代も三無主義の時代でありました。
しかし徹底できない。何を? 三無主義をであります、上官殿。三無主義を徹底することはすぐさま餓死に繋がるわけで、衣食住に関しては誰もまったく無関心でいるわけにはいきません。
したがって、実は「三無主義」なんてのは実体がまるでない、流行語のひとつなんですね。「今の若者」とほぼ同じようなものです。
そういう傾向がある、そんなふうな感じがするということ、具体的には、関心が弱い、気力が感じられない、知識が不足している、情緒が乏しい、そういった外面の印象を「三無主義」という言葉でひとくくりにして、レッテル付けしているわけです。なんとも強引な話ですな。しかもレッテル付けしておいて、それを批判する、あるいは脱却を図るために会議をしたり指導したりする。どうにかして問題を作り出さずにいられない人がいるんですね。ご苦労様です。
一息ついて、読みかけのダビンチコードを読むことにします。昨日は一日かけて安田記念の反省をしましたので、今日は競馬はお休み。