三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

「死ねばいいのに」

2006年06月29日 | 政治・社会・会社

「死ねばいいのに」と、ダウンタウンデラックスで浜ちゃんがメールだのハガキだのを読んだあとに付け加えますが、この間一応廃案になった共謀罪がもし成立していたら、そして浜ちゃんの「死ねばいいのに」の対象が総理の小泉だったら、多分「不特定多数に対する共謀」なんて無理やりにこじつけた理由でこの法律が適用されていたかもしれませんね。対象が芸能人その他の有名人だったら無論冗談で済まされるでしょうけど。
 たとえばここで「小泉は売国奴で人間の屑だから死ねばいい」なんて書いたら、それこそそんな奴を共謀罪で引っ張りたい人が大勢、政府の中にいるということです。成立しなくて、本当によかった。

 しかしどうしてまた、他人に言うことを聞かせたい人が多いのでしょうか。誠にもって解せません。人に君が代を歌わせたがる、国旗を掲揚させたがる、愛国心を持たせたがる、おもに学生生徒児童がこういった人たちの犠牲になって(またはそんな自覚もなしに)、卒業式や入学式その他の儀式でそれはまあ朗々と歌っていますよね、君が代。もちろん君が代が悪いわけでも日の丸がいけないわけでもない。あれは単なるデザインと曲ですからね、だからゴーギャンもモーツァルトも悪くない。ただ、儀式のときはゴーギャンだけを飾れとか、音楽はモーツァルトだけに限るだとか言われると、それはないだろうと。つまり何にせよ、それを強制することがあまり肯定できるものではない、ということです。JRAはたとえ天皇賞の前でも普通のG1のファンファーレを陸上自衛隊が演奏しますが、あれがもし君が代だったら盛り上がらないだろうねえ。

 君が代も日の丸もそんなに古い歴史があるものでもないし、歴史の深浅に関係しないとしても、テレビで評論家たちや政治家たちが言うように「日本国民が儀式で歌いお辞儀して敬意を要するのは当然のこと」という教条の論拠が分かりません。そしてそれを子供たちに強制することも。

 強制といえば、社会に出て仕事をしていると子供たちどころの話ではないくらいにいろいろなことを強制させられますよね、中小企業の社長の中には従業員を殴るのが趣味なんじゃないかと思うくらい毎日毎日殴っている人がいます。パンのために仕方なく自由を投げ出さざるを得ない大多数の弱い人たちを相手に根拠のない教条を強制し、サービス残業をさせ、暴力行為を繰り返す鬼畜のような経営者。

 それと同じ線上にあるのが日の丸君が代を強制する人たちなんですね。こういう人たちを狼、虐げられる人々を羊と仮に呼びます。もし世の中全員が狼になったらどうなるか? それはホッブズのリバイアサンの世界で、万人の万人に対する闘いが起きて世界は大混乱になるでしょう。もちろんいっときだけの話です。世の中全員がやくざだったらどうなるか? 最初は混乱します。しかしそのうち、やくざの中でも弱い人と強い人がいて、狼と羊に二極化されるでしょう。羊はパンのために自由と人格を投げ出し、狼たちはその上前をはねるのを競い合うという図式はそこでもまた繰り返されます。
 羊たちに救いはありません。ただ、ときどき言いたくなりますよね、「死ねばいいのに」って。