「ちょっとあんた、何、その手は?」
50代と思しきその母親は、嗄れた野太い声で怒鳴りました。その声は店中に響き渡り、言われたアルバイトの女子高生は震え上がって謝罪の言葉さえ出てきません。おばさんはさらに捲し立てます。
「あんた、謝ることもできないの! 店長呼んで!」
女の子は逃げるように奥に消えて、代わりに中年男性の店長がやって来ました。
「あの子はね、こっちが水を頼んだら、こうやって手の平を向けて、黙れと言わんばかりに私たちを制したんだよ。客に対して、そんな態度がある? あんた一体どういう教育をしてんのよ」と、平身低頭する店長に向かって捲し立てます。店長はひたすら謝罪して、ひとまずその場は治まりました。
アルバイトの女の子にどういう状況だったのか話を聞くと、別のお客さんの注文を聞いている最中に横のテーブルから大声で呼ばれたが、途中でそっちに行く訳にもいかないので、とりあえず聞こえたことを伝えようと思って手を上げたとのことでした。そのときの仕種が問題で、手を上げたときに一瞬でもそっちを見て会釈するとかすれば、このおばさんも声を荒げはしなかったのでしょうが、そちらを見もしないでただ真横に手を上げてしまったのでは、「わかったから少し待て」と、客を見下したような意思表示と受け取られても仕方ありません。
しかし怒る方も少しどうかしているのではないでしょうか。相手は高校生の女の子です。たとえば道を歩いているときに、そこらにいる子供たちからいきなり「バーカ、バーカ」と言われたら、大人はどのように反応するでしょうか。一番多いのは、何もしないという反応だと思います。心の中では人それぞれに、様々な思いがあるでしょう。バカな餓鬼どもだとか、親の顔が見たいとか、あるいは子供たちからバカ呼ばわりされるのは何か自分に原因があるのかもしれないと思う人もいるでしょう。いろんな思いがあるけれども、態度には出さない。子供相手に怒ったりするのは大人げないからです。それに一度振り上げた拳は簡単には下ろせません。振り上げてから立往生することを考えると、一時的には不愉快であっても我慢するのが得策です。感情を爆発させるとろくなことがありません。しかし中には、そんなことに考えが及ばず、相手が子供でもお構いなしに激しく怒る人もいます。このおばさんもそのひとりでした。プライドがほんのちょっとでも傷つけられたら、相手を殺してしまわんばかりに激しく怒る、不寛容な現代人の典型です。
さて、店内での騒ぎは一旦治まったものの、その後でもう一騒ぎありました。
おばさんたち一行が食事を済ませて店を出た時間に、件の女子高生アルバイトも仕事の時間を終えて従業員出入口から出て駅に向かって歩きはじめました。おばさんたちはその僅か後方にいます。女子高生はその存在に気付いているのかいないのか、携帯電話で友達相手に喋りはじめました。
「今日、変なおばさんに怒鳴られちゃった」から始まり、出来事の一部始終を自分の視点から話します。当然自分が善玉でおばさんたちが悪玉となります。後ろを歩くおばさんは、それがさっきの店のアルバイトだと最初から気付いていてずっと注視していましたから、話の内容を全部聞き取りました。おばさんにすれば、女子高生はすぐ後ろにいる自分たちに当然気がついていて、態と聞こえよがしに話しているとしか思えません。さぞかし頭に来たのでしょう、早速店に電話をかけてきて店長を呼び出し、怒りをぶちまけます。今度は店長がどんなに謝っても治まりがつかず、本人に直接謝罪させろの一点張りです。店長は事実を本人に確認してからまた連絡すると伝えてひとまずその場を治めました。
翌々日に出勤してきた女子高生に事情を尋ねると、あまりにも理不尽な怒鳴られ方だったので友達に一刻も早く人に話したかった、おばさんたちに気付いていたが、仕事を終えてタイムカードを押した後だから関係ないと思った、ということです。店長はおばさんに電話する約束をしているので、どのように話せばいいのか悩みます。
そして悩んだ末に、電話をかけました。アルバイトは女子高生で未成年であり、責任の大半は店長である自分にある、本人も反省しているし自分からも十分に言って聞かせるので、大目に見てやってほしいと言いました。しかし案の定、おばさんは治まりません。兎に角直接本人から謝罪させろだけを繰り返します。そうなると店長も引けなくなり、それはできませんと言い続けました。させろ、できませんの押し問答です。
とうとうおばさんは痺れを切らして、「あんたじゃ埒が開かない、本社に電話するから番号を教えなさい」と言いました。店長は番号を教え、そして私の所に電話がかかってきました。
私はおばさんからひと通り話を聞いて、きちんと指導しますと約束しましたが、おばさんはまだ納得していない様子で、指導してどうなった教えてくれと言います。やむを得ないのでわかりましたと答えて電話を終えました。早速店舗に電話して店長に事実確認をしたら、前述のような状況だったという訳で、こういう場合は私でも店長と同じ対応しかできません。できるのはタイミングと話し方を工夫することだけです。
実は女子高生が説明した、「仕事を終えてタイムカードを押した後だから関係ないと思った」というのは実に的を得ていて、彼女が仕事の場所以外で何をしようが、私たちの会社は一切関係ありません。おばさんが彼女の言動について私たちに電話をしてくるのは、間違いなくお門違いです。しかしそのように説明したところでおばさんは治まりがつくはずもなく、そもそもはお宅の店で起きたことなんだからとか、なんだかんだ因縁をつけて来るに決まっています。
おばさんの家の電話しか聞いていないので、翌日以降、何度か家に連絡をしましたが、留守電でした。名前だけ言って、また電話すると入れておきます。これで電話をしたという事実は残ります。3日間ほどそれを続けて、あとは放っておきました。どうしても連絡が欲しいときはおばさんの方から連絡をしてくるでしょう。忘れてくれればそれで自然終結です。さらに4日ほど過ぎて、事件から1週間後の夕方、電話を取るとあの嗄れ声が聞こえてきました。私は、まだ執着していたのかと、そのしつこさと不寛容に半ばあきれながら話を聞きました。
おばさんの話は前と同じで、本人から直接謝罪させろの一点張りです。そこで私は少し作戦を変更することにしました。
「本人から謝罪させるためには、まだ未成年ですし、仕事場以外の場所での出来事ですから、保護者に許可を求める必要があります。具体的な内容をお話しして、お客様が本人からの謝罪を求めていると伝えるのですが、親御さんによってはそれを強要だと受け止めて強要罪で訴える、ということになる場合があると思います。いずれにしろ、お客様のお名前や連絡先、住所などは話をするときに親御さんに伝えなければなりませんが、それは別に構いませんね?」
「ああ、別に構わないよ」とおばさんは強気に言い張りますが、私はその声の中に微妙に怯んだ感情があるのを聞き取りました。ここで突き放してしまうと、女子高生の親がモンスターペアレントだったりした場合、今度はおばさんが窮地に陥ることになります。
「そうですか。それではわかりました。本人から親御さんに話をさせるか、または日時を決めて私どもから親御さんに話をして、お客様のお名前などもお伝えして、それからどのような結論になったかをご連絡するような段取りでよろしゅうございますか?」と、話を引き延ばします。
「そうね、そうしてもらおうかな」ほとんど声に元気がありません。
「わかりました、それではまだ住所をお聞きしていなかったので、お教えいただけますか?」最後のチャンスを与えます。
「・・・・・・」
沈黙がありました。終結は近そうです。
「やっぱり、待って。親御さんまで巻き込むのはどう考えても気の毒だから、今回は本人が本当に反省しているのか、もう一度店長に確認してもらって、店長から連絡がもらえればそれで納得することにするわ。私も親だから、そうします」
目論見通りになりそうです。しかしまだ気は抜けません。
「そうですか。わかりました。では店長に連絡をして、本人にもう一度確認した上でお客様に折り返しの連絡をさせます。この度はご迷惑をおかけし、大変申し訳ございません。また、何度もお電話を戴くなど、お手数もおかけいたしました。改めてお詫びを申し上げます」
「わかった、それじゃよろしく」
すぐに店長に電話をして、含み聞かせてからお客様に折り返しの電話をさせました。一件落着です。
おばさんのためにも、落とし所としてはよかったのではないかと思います。女子高生の親が本当にモンスターペアレントで、おばさんを強要罪で訴えるようなことになったら、私の会社も巻き込まれてしまいますし、長い間面倒が続くでしょう。おばさんも今回の件が少しは教訓になったのではないでしょうか。他人を許してやる方が、許さないよりもよほど楽なんですね。不寛容よりも寛容の方が生きていきやすい。他人との間に損得さえ考えなければ、寛容になるのは割と簡単です。にもかかわらずこれほど不寛容な人が多いのは、損得だけを基準にする今の社会が、構造的に不寛容を生み出す社会だからかもしれません。