今年はレベッカ・レイボーンとゲスの極みのボーカルにはじまり、桂文枝や円楽といった落語家に至るまで、様々な不倫報道があった。騒がれた人たちについてはまったく興味がないが、騒ぐ人たちがなぜ騒ぐのかがよくわからない。低俗マスコミがテレビで取り上げるから騒がれているような気がしているだけなのか。アンケートやインタビューなどを見ると、本人たちを責める回答が多く見受けられる。バッシングはまだ続いているようだ。
それぞれの当事者たちの対応について、レベッカが謝罪のときに嘘をついていたのは失敗だとか、円楽は堂々と認めたうえに落語家らしく洒落のめしてうまくやったとか、要するに、上手な謝罪のテクニックについてみたいな話があった。その一方で、いまだに不倫そのものを非難し続けている者たちもいる。レベッカがスカパーで復帰した途端に「地上波にはくるな!」といった批判がインターネット上に相次いだようだ。
そもそも、他人の不倫を咎め立てする動機は一体どういうものなのだろうか。そういう人間たちは、他人の不倫によって自分が一体どんな迷惑を被ったというのか。「騙された」という主張をする者もいるかもしれないが、それは子供の主張だ。そもそもテレビに出ている人たちの発言をそのまま信じるのは、成熟していない単純な子供の精神構造といってよい。「騙された」のは視聴者としての成熟度が不足しているから勝手に騙されただけであって、被害を受けた訳ではない。
もし仮にそういう低レベルの視聴者がいたとしても、彼らは怒りを覚えるか、失望するだけであって、批判や非難には至らない。批判したり非難したりするには、物事に対して客観的な見方ができる必要があるからだ。
ということは、他人の不倫を非難する人間は、他人を非難することが嬉しかったり気分が晴れたりするから非難するのだと考えられる。要するにハラスメントである。ハラスメントを行う人間の心理は、欲求不満を弱い相手にぶつけ、相手の人格が崩壊するのを見て満足したり、同様に非難している者たちやワイドショーマスコミなどから自分の主張が賛同を得ることで、承認欲求を満たすというものだ。非難する基準は自分の思想ではなく、非常に一般的な道徳や倫理である。道徳や倫理は世間的には守るべき規範であり、正義である。正義の味方の立場でものを言うのは簡単なことだし、精神的な負担もない。所謂正論というやつだ。正論を笠に着て弱い人間を非難するのがハラスメントである。
他人の不倫を非難する者たちは、不倫が悪だと信じて疑わない。そういう人間は絶対に不倫しないかというと、必ずしもそうとは言えない。罪悪感を感じながら不倫することになる。不倫を悪だと思わない人は、罪悪感なしに不倫をする。落語家の不倫はこちらか。
赤の他人の不倫が自分の迷惑にならないことを考えれば、他人の不倫を非難することが実は理不尽な行為であり、非道徳的であることを認識しなければならない。再度振り返って、不倫というものがどうして悪とされているかを考える必要がある。それは共同体の都合である。誰彼構わず自由に子供を作られると、共同体が個人を管理するのに都合が悪いのだ。だから結婚制度を定め、この子供は誰の子供という風に届出をさせ、親に義務を課して将来の労働力として管理をする。それが封建時代に家長制度と結びついて、亭主の権限を維持するために間男という言葉が生まれ、それを悪として三行半が書けるようになった。
江戸時代の行政による洗脳が現代まで続いている訳で、不倫という観念は比較的新しい考え方だ。相対化が可能なひとつの思想であって、絶対的な真理ではないのだ。にもかかわらず、不倫は悪だと盲目的に信じている日本国民のなんと多いことか。不倫が悪だという根拠は、共同体の都合以外には実は何もないのだ。自由な個人は自由に不倫をする。日本よりも個人の精神的自由度が高いとされるフランスでは、不倫が非難されることはない。
他人の不倫を非難する行為は、実はヘイトスピーチを行なう連中と同一なのである。彼らは外国人や来日二世三世を排斥しようとするが、その行為の正当性についてのエビデンスは何もない。共同体の都合を自分の主張と同一化しているだけだ。
正論を振りかざして他人を村八分にすることは道徳ではない。道徳は他人に何かを強制したり、従わない人間を非難したり排斥したりするものではなく、自分自身の行為に対する自省なのだ。自省も考察もなく、安易に他人を非難する精神性は、子供そのものである。いじめっ子の精神構造である。それが日本中に蔓延し、いまや猖獗を極めている。そのうち、日本人全員が何らかのハラスメントの加害者になる可能性がある。そして誰もがその被害者になる可能性がある。
もしかして、すでにそうなっているのかもしれない。