映画「Trumbo」(放題トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」)を観た。
大昔に「ジョニーは戦場へ行った」という映画があり、自分では観ていないのだが、観に行った姉の話から、グロテスクな映画だという印象を受けていた。姉の話では、戦場で敵からの攻撃があるという情報が入ったとき、他の兵は逃げたのにジョニーは穴の中に隠れ、運悪く砲撃がその穴を直撃した、命は助かったが、四肢を失ってしまった、そして帰国したジョニーには悲惨な生活が待っていた、という内容の話だった。あくまで姉から聞いた話で、しかもたぶん40年以上前に聞いた話だから詳細は確かではない。しかし聞いた時の印象は強烈だった。その強烈な映画の監督、脚本、原作が今日見た映画の主人公ダルトン・トランボなのである。
アメリカはナショナリズムの精神構造を代表とする同調圧力の非常に強い国で、それは今も昔も変わらない。アメリカ人のナショナリズムこそ、世界を駄目にしてきた元凶なのだが、誰もそのことに触れない。ナショナリズムを否定するとアメリカでは生きていけなくなるからだ。アメリカだけではない、たいていの国で生きていけなくなる。
国家を第一義とするナショナリズムは、人間の自由と尊厳を大切にするヒューマニズムと正反対の思想である。ヒューマニズムの主張は尤もなのだが、ナショナリストからはエゴイストあるいはコミュニストと非難される。ヒューマニズムの主張は穏やかなのに対し、ナショナリズムの主張は攻撃的で高圧的で、時として暴力的である。そして大抵の場合国家権力を掌握しているのはナショナリストである。議論ではヒューマニストに敵わないが、権力を背景にした暴力で圧倒する。ヒューマニストは黙りこむことになる。
民衆はというと、世界を立体的に考えることができない多くの人々は、ヒューマニズムを理解することができず、ナショナリストの大義名分の圧力に抗うことができない。むしろナショナリズムの一員として全体に同調し、高揚する。肩を組んで「America the Beautiful」なんかを歌うのが幸せなのだ。
トランボはヒューマニストである。したがって、当然ながら反戦思想の持ち主だ。第二次大戦前後のアメリカでは反戦思想の政党はアメリカ共産党だけだったから、彼は共産党に入党する。そこにソ連との冷戦がはじまり、レッテル張りをするのが得意なナショナリストの格好の標的となってしまう。マッカーシーの赤狩りの餌食となったのだ。そしてトランボたちを攻撃している中にロナルド・レーガンやジョン・ウェインといった有名俳優もいたことが少なからずショックだった。
この映画は、酷い目に遭いながら、不屈の精神力で脚本を書き続けるトランボと彼を支える家族たちの苦闘の映画である。
トランボの生き方は見事だったが、映画はそれだけではなく、ナショナリズムの恐ろしさも端的に伝えている。
日本でヒューマニズムを守ってくれるのが日本国憲法の基本的人権という考え方で、この考え方があればこそ、我々は自由に発言でき、国家からの抑圧や強要、思想的弾圧を免れている。
憲法は基本的人権の尊重と平和主義、国民主権を三本柱として国家権力が国民を蹂躙し、生命、身体、財産および精神的な自由を奪うことを防いでいる。
ところが、この憲法のありようが悪いと主張する勢力がある。日本会議を中心とする、平面的な世界観の持ち主たちである。代表者は安倍晋三であり、小池百合子だ。
都知事選で小池百合子に投票することは、将来、自分の息子を戦場に送り込むことになる。保育所の敷地を増やして子供をたくさん面倒見れるようにしようとアピールしているのは、将来の特攻隊員を増産しようとしていることに他ならない。
にもかかわらず、参院選で安倍晋三の自民党が過半数を獲得したように、小池百合子が都知事になろうとしている。この国の国民や都民は、よほど自分たちを苦しめる政治家が好きなようだ。人権無視の戦争主義者でナショナリストの安倍が総理大臣で、ヘイトスピーチでおなじみの在特会に深く通じている小池百合子が都知事なんて世の中になったら、東京は自由な発言ができない息苦しい場所ばかりになるだろう。国の特定秘密保護法に倣って、さらにそれを強化した思想統制の条例をいくつも作るだろう。
小池百合子の厚化粧が気持ち悪いと発言したら、それだけで逮捕され、拷問を受けることになる。
東京都の有権者はヒューマニズムを理解し、基本的人権が尊重される政治を選択できるだろうか。見通しはかなり暗いだろう。