三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「I,Daniel Blake」(邦題「わたしは、ダニエル・ブレイク」)

2017年04月23日 | 映画・舞台・コンサート

映画「I,Daniel Break」(邦題「わたしは、ダニエル・ブレイク」)を観た。
http://danielblake.jp/

 高校生の頃、民主主義の実体について議論したことがあった。ひねくれていた私は、民主主義でも専制政治でも何でも、政治は圧力関係と裏取引だと主張した。アドバイザーで参加していた教師は、そういう見方をしていたら永久に政治はよくならないことになる、そうではなくて、民主主義政治とは手続きなんだと言った。行政でも立法でも司法でも、民主主義は国民主権という基本の考え方によって、国民が不利を受けないように手続きを規定している、それが憲法なんだという説明だった。教師に相応しい理想主義的な考え方で、年齢を経ても前向きな考え方が出来るその教師に感心したことを覚えている。
 しかし現実は、高校生の私が主張し、いみじくも教師が指摘したように、政治は圧力関係と裏取引に終始していて、世界全体を見渡しても、永久に政治はよくならないように見える。政治家は常に新しい法規(法律、条令、規則、施行令など)を作るが、必ずしもすべての法規が憲法の精神に則っているとは限らない。しかも現代の政治家はほぼ御神輿で、法規の詳細を作成するのは役人だ。憲法に反しても役人の利益を優先する法規を作るようになるのは必然である。

 第二次大戦後のイギリスでは、有名な「ゆりかごから墓場まで」という福祉政策を実施し、その後深刻な財政難に陥った。サッチャーが登場して福祉を大幅に削減したが、医療関係者の大量流出を招いただけだった。現在に至るも、いまだにその状況から抜け出していない。イギリス国民は日本よりももっと病苦と貧困の苦痛に喘いでいるのだ。
 本作品はそういう状況下で生きる庶民の現実を具体的に描いている。福祉予算を切り詰めるために、給付の手続きを複雑にし、縦割りにした結果、主人公ダニエル・ブレイクは二つの給付手続きの狭間に陥って、万事窮してしまう。日本でいえば、身体を壊して仕事が出来なくなった人が、傷病手当の給付を受けようとして認められず、では失業給付を受けようとしても求職活動が不十分として認められない状況だ。
 不成文憲法の国イギリスでは、国家の舵取りに関わる重要法案以外は違憲立法の審査はない。福祉の実施に関わる細則は、役人のやりたい放題となる。
 福祉予算がないから給付のハードルを高くして給付が受けられないようにしている割に、福祉の役所は役人で溢れ、必要とは思われない警備員まで常駐させている。予算の原資は税金であり、もともと国民から役人が預かっているだけなのだが、どの国の役人も、税金を預かり金と思わず、自分たちの金だと勘違いしている。
 日本でも、小田原市の役人が「生活保護なめんな」とプリントされたジャンパーで保護申請者を10年間に亘って威圧していた事態が今年になって発覚したばかりだ。当然氷山の一角であり、全国で同じようなことが行なわれているのは火を見るよりも明らかである。役人はもともと国民の税金を預かっているだけなのに、それを給付してやるという尊大な態度を崩さない。給付を受ける側は、人間としての尊厳を蹂躙され、自信を失い、やがて生きる希望も失う。そんなことをしている役人には、きちんと給料が支払われる。同じ国民の税金からだ。税金で雇われた警備員が福祉事務所から無辜のダニエル・ブレイクを追い出す。大声を上げる体力もなければネットで訴えるスキルもなく、反対運動を始めるカネもコネもない。主人公は無力感に打ちひしがれる。
 しかし大抵の役人は、悪意ではなく法規に忠実であろうとして四角四面になり、結果として国民を苦しめているだけだ。そうならないようにするのが政治家で、政治家を選ぶのは有権者だ。巡り巡って国民を苦しめているのは国民自身であると考えれば、政治というものの救いようのなさに絶望感を覚える。

 主人公ダニエル・ブレイクを演じた役者はこの映画で初めて見たが、静かな怒りの表現と、出逢った母子に対する思いやりの表情はなかなかのもので、この主人公がまったくの善人で、しかし屈しない意志の持主であることを十分に観客に伝えていた。母親役のヘイリー・スクワイアーズは、子供を産んで微妙に崩れた身体の線と母としての強さ、女としての弱さをきわどく演じていて好感が持てた。ディラン役の子役が非常に達者で、不遇の生活環境で精神の成長に歪みが生じた子供を繊細に表現していた。この子役の感性は大したもので、うまくいけば個性派の俳優になれるだろう。

 感情移入し過ぎて役人が大嫌いになるのは言うに及ばず、憎悪や殺意さえ抱きかねない凄い映画である。カンヌでパルムドールを受賞したのも納得だ。こういう映画がちゃんと評価を得ているところに、まだ民主主義国としての救いがあるのかもしれない。