三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

舞台「豊饒の海」

2018年12月04日 | 映画・舞台・コンサート

 新宿の紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAに舞台「豊饒の海」を観に行ってきた。
 http://www.parco-play.com/web/play/houjou/

 誰もが知る三島由紀夫の最後の小説で、4部作からなるこの大作を4部いっぺんに舞台に再現するという大胆な演出と脚本である。ストーリーテラーであり、ある意味主人公でもある本多繁邦を3人の俳優が演じる。
 4部作は本多繁邦の人生の春夏秋冬、つまり青春、朱夏、白秋、玄冬のそれぞれを、それぞれに相応しい世界観で描いてみせる。そこに本来の主人公松枝清顕の輪廻転生が重なり、物語は時間と空間を超えてどこまでも広がっていく。人間エネルギーのドラマツルギーは流石に三島由紀夫である。彼の思想に賛成できるところはひとつもないが、人間を描くという点では他に類を見ない作家のひとりである。
 役者陣の芝居も大変に素晴らしく、終幕時には感動してしまった。


映画「斬、」

2018年12月04日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「斬、」を観た。
 http://zan-movie.com/

 先ず最初の音で驚かされる。当方も少し飛び上がった。効果音は全編を通してかなり大きく、重低音である。大太鼓やバスの男声合唱もあり、作品に重々しさを与えていると同時に、観客にとっては重苦しさも感じさせる。狙い通りなのだろうか。台詞回しも大仰ではない平易な言い方が日常感を強調し、芝居がかった言い方よりもリアリティがある。これは塚本監督の意図であろう。
 テーマはわかりやすく、人を斬れるか斬れないかの分かれ目はどこにあるかということである。天下泰平の江戸時代にあって、人を斬る機会はあまりなかったはずだ。しかしそれでも武士は毎日稽古に励み、いざとなったときに戦えるように備えていた。今も昔も、人は他人に勝つために強くなりたいと思う生き物らしい。空手や柔道などの格闘技は、実際に人を相手に技を使うと傷害罪になってしまうにもかかわらず練習に励む人が多いのは、必ずしも大会で優勝するためばかりとは限らない。
 しかしそうやって練習を重ねても、実際に人を相手に刀で斬りつけたり、または人中(じんちゅう)みたいな顔の真ん中の急所に正拳を叩き込んだりすることができるようになる訳ではない。人を斬ったり殴ったりできるようになるには、精神的な堰を超えなければならないのだ。
 池松壮亮は、恒常性バイアスによってかろうじて守られている我々の日常が、如何に脆く崩れやすいものであるかを見せてくれるような俳優である。この作品はそういう点では彼にぴったりの映画である。腕は立つが人を斬ったことがない武士は、一生人を斬らないで生きていくか、どこかで一線を越えて人を斬るかのどちらかしかない。人を斬るためには、斬られた側の痛みとか、人生を終えることの後悔の念とか、そういった思念を全部捨て去らなければならない。甘っちょろい良心などは、ハナから捨て去るべきものだ。平穏無事を願う夢は失せなくてはならない。
 一切合財を捨てて人を斬ることができるかを、塚本監督は池松壮亮演じる都筑杢之進だけでなく、観客全員に問いかける。人を斬れない杢之進を、映画は必ずしも否定していない。原始時代の人間は、欲望と本能のままに人を殺していたはずだ。想像力や罪悪感が生じて人を殺しづらくなったのは、文明の証である。人を殺せないのが文明人であり、人を簡単に殺せるのは野蛮人に他ならない。
 理性ではそのように理解していても、人を殺したい衝動は誰しもが持っている。しかし殺したら自分もただでは済まない。その恐怖が衝動を押し留めているだけだ。デスノートのようなものがあって証拠が何も残らなかったら、誰もが自由に人を殺してしまうだろう。自分が殺したことを社会に知られることが恐ろしいのだ。
 世の中には、人を簡単に殴る人間がいる。そういう人間は人を殴れない人間よりもずっと、人殺しに近いだろう。この頃はスポーツの団体をはじめとしてそういう人間がコーチや監督の中に大量に存在していることが次々に明らかになっているが、スポーツ界だけではないだろう。政界にも財界にも、あるいは官僚の中にも、人を殴っても屁とも思わない人間がいて、そういう人間たちがそれぞれの共同体の中で監督やコーチの立場にあるとすれば、人を殴れない、人を斬れない人間たちは一生スポイルされたままである。
 どうだ、この辺で人を斬れるようになってみないか。塚本監督の皮肉な笑みが脳裏に浮かぶ。


映画「バルバラ セーヌの黒いバラ」

2018年12月04日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「バルバラ セーヌの黒いバラ」を観た。
 http://barbara-movie.com/

 本作品は映画を製作する中での人々の振る舞いをセンスよく描き出した映画である。シャンソン歌手というと金子由香利さんのコンサートには行ったことがある。歌は素晴らしいが話はいまいちだった。岸洋子はパソコンでしか歌を聴いたことがないが、低音で滑舌のいい歌声は聴いていて飽きることがない。ダミアはCDで聴いていた。クミコのコンサートには屡々出掛けている。
 しかしバルバラは聴いたことがない。この映画を観るまでは名前も知らなかった。大学でフランス語を習ったにもかかわらず、我ながら不勉強であった。
 バルバラを演じる女優ブリジットの役を演じたジャンヌ・バリバールもこの映画で初めて見た女優だが、歌も踊りも身のこなしも見事で、バルバラなりきろうとするブリジットの揺れ動く心が伝わってきた。バルバラの本人映像も交えながら、ときに怒りに身をまかせ、ときに音楽に酔いしれながら歌う姿は、パリの歌姫ならさもあらんと納得させてくれる。
 映画監督役の俳優は同時にこの映画の監督でもあるというややこしい役割だが、バルバラへの尋常でない愛着をうまく表現していて、映画を制作する人の情熱のありようがわかる。ブリジッドに振り回されることさえも楽しんでいるようで、ときにブリジッドのほうが監督のあまりの情熱のせいで逆に熱が冷めてしまう場面もあり、そういう大人の関係性に思わず一杯やりたくなる。
 最初からずっとフランス語の低いトーンで喋りまくっている映画だが、それぞれの台詞があたかも詩の一節であるかに響き、とても長い詩を映像で観ているような気がした。美しい作品である。