三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

天皇が謝罪すればいい

2019年02月18日 | 政治・社会・会社

「お前じゃなくて社長が出てきて謝れよ」
 昔クレーム対応をしていた時に、よくお客さんから言われた言葉である。こういう言葉に対して「社長を出せなんて無礼だ」などという返事はありえない。迷惑を被ったのはお客さんで、こちらは加害者の立場だ。確かに言いがかりみたいなクレームもあった。そんなときは社長に連絡することはないが、お客さんが怪我をしたとか火傷をしたとか、そういう重い被害のときには場合によっては社長が対応することもある。被害者からすればトップが出てきて謝罪するのが当然だと思う心理は、確かに当然だ。
 さて韓国の国会議長が「天皇が謝罪すればいい」と言ったとか。国家と国家を人格になぞらえて言うならば、韓国はどう考えても被害者である。豊臣秀吉の昔から、中国と日本で朝鮮半島を好き勝手に踏み荒らしてきた。その歴史を踏まえれば、トップが謝罪するのは当然で、ましてや第二次大戦は大東亜共栄圏などという滅茶苦茶な大義名分で韓国の国土と国民を蹂躙してきたのは明らかである。A級戦犯たちは、遠山景元の白洲であれば市中引き回しの上打ち首獄門に処せられたであろう。
 現代は一部の国を除いて残虐刑が禁じられているから、A級戦犯たちも打ち首獄門にならずに済んだ。中にはうまく立ち回って不起訴となった者もいる。安倍晋三の祖父、岸信介である。それに昭和天皇だ。アメリカは日本と日本人を研究して、権威に弱いその国民性から、A級戦犯である筈の昭和天皇を断罪しなかった。精神力の弱い国民性だから、天皇という拠り所を失えば何をしでかすかわからなかったからだ。
 そうやってアメリカに勘弁してもらったとはいえ、昭和天皇は戦争犯罪人であることは明らかだ。息子である明仁がその重荷を背負ってアジア各地を行脚したことは誰でも知っている。父親の犯罪から逃げないで、立派に天皇としての務めを果たしてきた。再度韓国に謝ることにどれほどの抵抗があろうか。父が大変な迷惑をかけた。本当に済まなかったと言えばいいだけである。心からなどという言葉はない。内心の自由は天皇にだってある。心から詫びているように見えればそれでいいのだ。
 お客さんに大きな迷惑をかけたら、会社であれば社長が謝罪する。ましてや日本はたくさんの朝鮮人の命を奪っているのである。トップが謝罪して当然だし、謝罪で済むならこれほど有り難い話はない。逆に謝罪さえできないとなれば、朝鮮半島と日本の関係は更に悪化する。安倍晋三のゴミみたいなプライドのおかげで戦争になったりすれば、目も当てられない。それは平成天皇も浩宮も同じ気持ちだろう。特に明仁はすぐにでもソウルに行って謝罪をしたいと思っているはずだ。これまでの彼の地道な活動を考えれば、当然のことである。
 朝鮮半島の文化は日本と同じ神道である。それもそのはず、神道は日本古来ではなく、朝鮮半島から伝わったとされているのだ。神道は権威を重んじるから、総理大臣よりも天皇が謝罪したほうが一度で済む。世界の王のランキングで言えばエンペラーに当たる日本の天皇の権威は最高ランクである。それより上の謝罪はないのだ。自由な精神の持ち主は、エンペラーの権威など歯牙にもかけないだろうし、そもそもそういう人は謝罪など求めないだろう。権威主義の国家と国民が権威からの謝罪を求めるという、低レベルの言い争いが今回の話の本質だ。だからこそ、そんな子供の喧嘩みたいなレベルで戦争がはじまってほしくない。そう思っている人間は皇室にも国民にもたくさんいるだろう。


映画「七つの会議」

2019年02月18日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「七つの会議」を観た。
 http://nanakai-movie.jp/

 朝倉あきがいい。大らかで包み込むような、稀有な雰囲気を持っている。特に声がいい。幅があって落ち着いていて、上滑りしない。やまとことばに相応しい声である。本作品のナレーションにぴったりで、安心して物語に入り込むことができた。
 ストーリーは予告編から想像していた通りだったが、何が起きているのかわからない企業の闇を探っていくのが、朝倉あき演じる寿退社予定のOL浜本優衣なのだ。その一方で野村萬斎の主人公八角民夫は、ぐうたらしているようで実は問題の本質に迫っているという、なかなかに日本人好みの人物設定である。
 社内不倫やドーナツの試験販売など、サブストーリーも鏤めながら、飽きさせないペースで大団円に向かっていく。ワクワクする感じもあるが、どうせ日本の組織は根本から腐っているという失望感もある。
 しかし主人公は諦めない。そして浜本優衣も決して放り出さない。大和魂は政治家が捏造した大義名分のひとつに過ぎないが、大和撫子は確かに存在する。最後まで朝倉あきの爽やかさに癒やされた作品で、大和撫子これにあり、だ。


映画「Der Hauptmann」(邦題「小さな独裁者」)

2019年02月18日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Der Hauptmann」(邦題「小さな独裁者」)を観た。
 http://dokusaisha-movie.jp/

 権威とは何か。何によって担保されているのか。当方と同じく気の弱い一般人が畏れる権威や権力が、実は薄氷の上に建っている砂の楼閣かもしれないと思わせる映画である。
 兎に角主人公の奸計が凄い。軍隊はヒエラルキーの組織だから上官の権威はほぼ絶対である。最上位の権威はハイル・ヒトラーでおなじみの総統だから、総統の名前を出せば大抵のことは通せる。首相案件という呼び方で国の基本である資料や統計を捻じ曲げる極東の小国にそっくりだ。
 権威を証明するものは何かというと、これが意外に難しい。もしかしたら上級将校の軍服だけでも権威を得られるかもしれないというのがこの作品の設定である。必ずしもその人物が何かに優れている必要はない。権威に相応しい威圧的な態度や、横柄な言葉遣いがあれば、権威と認められることがある。
 ナチスは役人でできた組織である。役人の基本は昔から自己保身と既得権益への執着だ。それは恐怖心の裏返しでもある。つまり、役人が権威と権力に従うのは恐怖心のためだ。もっと言えば、権威や権力は人々の恐怖心の上にかろうじて支えられているのだ。
 主人公はナチスという官僚機構のそんな構造を知ってか知らずか、修羅場をくぐってきた老練な詐欺師のように、軍服ひとつで権威を獲得していく。最初は主人公の嘘がいつバレるかと思いながら観ているが、そのうちにナチスドイツという巨大組織そのものが、ハリボテの巨大な人形のように思えてくる。こんな嘘のかたまりが世界大戦を始めたのかと愕然とする思いだ。そしてそれを支えたのがドイツ人の恐怖であり、保身であり、既得権益への執着であったと考えると、同じことが世界各地で起きていることにも気がつく。現代にナチスがいたらチンピラに過ぎないが、それが虚構に膨れ上がると戦争を起こしてしまう可能性を持っている。人間はどこまでも小さく、そして愚かであることを改めて突きつけられた気がする。
 全編にわたって綱渡りを観ているかのような緊迫感があり、目の覚める映像や衝撃的なシーンもふんだんに鏤められている。日本語訳詞の「さらばさらばわが友♪」ではじまるドイツ民謡が歌われるシーンでは、その歌が「わかれ」というタイトルだけに、いろいろな比喩を想像させる。最期の字幕で主人公のモデルとなった実在の人物の年齢を知って心底驚いた。文句なしの傑作である。