三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「記憶屋 あなたを忘れない」

2020年01月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「記憶屋 あなたを忘れない」を観た。
 https://kiokuya-movie.jp/

 山田涼介の演技がいただけない。主人公の吉森遼一は突然大声を出すようなキャラクターではないし、そんなシーンでもないのに、どうしてこんな演出をしてしまったのか。スタートから中盤までは悪くなかったが、大声を出すシーンで興ざめしてしまい、以降は惰性で鑑賞することになった。
 そもそも設定に無理があるのは多分みんな解っている。しかし記憶屋の存在を想定することは、人間にとって記憶とは何なのかという問いかけを投げかけるものであり、様々なドラマツルギーが考えられる。実は面白いアイデアなのである。しかし映画はそのアイデアを活かしきれなかった。
 河合真希役の芳根京子の演技も明るすぎて、全く感情移入できない。この演出もどうかと思われる。全体に暗めのトーンで演出したほうがリアリティもあり、ちょっとは面白さを感じることができたかもしれない。広島弁も大げさすぎて違和感がある。少なくとも個人的に知っている広島の友人や親戚はこんな広島弁は使わない。佐々木蔵之介や蓮佛美沙子の演技が自然でよかっただけに、主役ふたりが浮いてしまい、悪目立ちになってしまった。ちなみに蓮佛美沙子の杏子が働いている喫茶店は、世田谷区の三宿にあるアンティーク家具と喫茶の店GLOBEだと思う。この店の右脇の階段を降りていったところにあるサンデーというカフェ・レストランでは2015年に何度かランチをいただいたことがある。

 記憶が人格に占める割合は非常に大きいものである。記憶は意識にも無意識にも刻まれている。人間の脳における意識と無意識の割合は1対99とも1対数万とも言われていて、人格を形成するのはほぼ無意識と言っていい。人間の感情は意識からではなく、無意識から生まれる。例えば、さあ怒ろうと意識してから怒る人はいないわけで、怒りの感情は無意識に湧き上がるものである。他の感情も同様だ。
 一定の記憶がなくなれば、情緒も変わるし性格も変わるはずだ。顕在意識で憶えていることだけが記憶ではないのである。本作品では顕在意識だけを表現してしまっているから、無意識(潜在意識)が生み出す人間の複雑さを表現できていない。物語に深みがないのだ。
 記憶屋という面白いアイデアを活かしきれず、不完全燃焼で中途半端に終わってしまった作品という印象である。残念だ。


映画「帰郷」

2020年01月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「帰郷」を観た。
 https://www.jidaigeki.com/kikyo/

 最近はあまり使われないが「今生の別れ」という言葉がある。2019年の11月に朝倉あきが主演した「私たちは何も知らない」という芝居の中でこの言葉が使われていて、大変に感銘を受けたことを憶えている。この世の最後の別れのことを今生の別れという。卒業式のあと友人に対して「これが今生の別れなら、私の思いを伝えておきましょう」などという使い方をする。
 本作品は「今生の別れ」を描いた作品だ。別れというと、別れに関する曲や歌をたくさん思い出す。世の中には出逢いの曲よりも別れの曲のほうが多い気がする。真っ先に浮かぶのはショパンの「別れの曲」であり、次いで「別れのワルツ」つまり「蛍の光」である。スコットランド民謡に稲垣千穎が日本語の歌詞をつけたのがつとに有名であり、日本では主に卒業式に歌われる。デパートやレストランの閉店音楽としても流されることがある。
 稲垣千頴の歌詞は 4番まであることが知られているが、3番と4番は何だかお国のためにみたいな歌詞で、右翼的な政治家がその歌詞を演説に悪用したことがある。1番と2番の歌詞は本当に素晴らしいと思う。特に2番の歌詞は、今日を限りにここを出て行く人とここに留まる人のそれぞれに、互いに対して万感の思いがあるけれどもそれをたった一言、ご無事でという言葉にこめて歌う、そういう歌詞なのである。
 とまるもゆくも かぎりとて
 かたみにおもふ ちよろずの
 こころのはしを ひとことに
 さきくとばかり うたふなり

 仲代達矢が演じた主人公宇之吉と、三十年ぶりに再会した橋爪功の佐一が酒を酌み交わしたあと、右と左に別れていくシーンで、この2番の歌詞が心に浮かんだ。宇之吉が発する「達者でな」は、互いの万感の思いをこめたひと言だ。まさに今生の別れのシーンであり、人生の切なさが凝縮されたような、美しいシーンである。
 本作品に登場する堅気もヤクザも、生きていくのは苦しいことばかりだ。それでも人と人の関わり合いの中に生きる喜び、ささやかな喜びを見出して生きていく。宇之吉はこれまで、自分のためだけに生きてきた。恩を仇で返したこともある。罪は罪。自分が一番よく知っている。先をも知れぬ老いた宇之吉にとって、人が喜んでくれることは何にも代えがたい嬉しい思い出となるに違いない。
 終始、美しい木曽路の風景が全編を通じての背景となっていて、8Kの映像はこんなに綺麗なのかと驚いた。常盤貴子は8Kの鮮やかな映像にも堪える美貌を存分に見せてくれたが、ひとつだけ不満を言わせてもらうと、演じたおくみのキャラクターがどうにもはっきりしないところがあって、終盤で少し違和感を感じた。
 それ以外は田中美里のおどろおどろしい演技も含めて、役者陣は満点だ。特に浅吉を演じた谷田歩が素晴らしい。ヤクザの幹部らしい肚の据わり具合と物言いは凄みがあった。中村敦夫が演じた九蔵は、宇之吉にとって好敵手のような存在であり、九蔵との再会が物語にダイナミズムを与えて、坂を転がるようにストーリーが進む。しかし待っているのはいつも今生の別れである。
 悲しくて寂しくてやりきれない物語だが、木曽路の自然が人の一生を包み込んでくれるようだ。ラストシーンでは登場人物それぞれの人生がフラッシュバックのように次々に脳裏に浮かぶ。時代劇のよさを余すところなく見せてくれた作品だと思う。


映画「Doubles vies」(邦題「冬時間のパリ」)

2020年01月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Doubles vies」(邦題「冬時間のパリ」)を観た。
 http://www.transformer.co.jp/m/Fuyujikan_Paris/

 原題の「Doubles Vies」は直訳すると「ふたつの人生」となる。もう少し踏み込むと、人生に裏と表がある、つまり二重生活の意味となる。
 アルファベットのWは英語だとUがふたつで「double U」ダブリューだが、フランス語の場合はVがふたつで「doubles V」ドゥブレヴィである。この発音は本作品の原題と同じなのでタイトルは「W」でもよかった。少し洒落た話である。本作品は「夏時間の庭」(原題「L'heure D'ete」)と同じ監督だから「冬時間のパリ」にしたのだろう。この邦題は悪くない。
 高校の必須科目に哲学があるほど哲学好き、議論好きのフランス人ならではの映画である。どんなに議論が沸騰しても誰も感情的にならない。これがアメリカ映画だったら必ず殴り合いに発展するだろう。アメリカ人にとってはそのほうがリアルだからだ。
 他人の意見に寛容であると同時に、フランス人は浮気にも寛容だ。日本の男性タレントが「不倫は文化だ」と言ったとかいう話があったが、フランスでは文化とまでは言わないにしろ、人間性のひとつというか、ある意味でやむを得ないものとして認められているように思う。
 さて本作品は二組の夫婦を中心とした人間模様のドラマである。配偶者が浮気をしていることを薄々感じながらも、夫婦としての愛情も維持している。浮気を隠してはいるが、バレることを恐れてはいない。このあたりは儒教的な教育を受けて倫理に厳しい日本人にはなかなか理解できないところだ。
 延々と続く会話は、電子書籍の話であったり、小説の話や政治の話、時には浮気の話であったりする。その会話のいずれもが、男と女の間で微妙に論点がずれて噛み合わないのが面白い。たとえば政治に関する議論で論点がずれていると感じたのは、男の作家が現実の政治を批判したのに対して、別の作家の妻が理想としての政治を擁護したところだ。作家の妻は政治家の秘書でもあり、自分の立場を正当化するためにも政治を前向きに捉える必要があるのだ。それは作家の妻が必ずしも頭の回転が速い訳ではないことを示している。しかし一方で、夫である作家の浮気の兆候には敏感だ。女の本能は頭のよさとは無関係なのだ。
 微妙に噛み合わない議論は製作者の狙いだろう。噛み合いすぎて論争に発展したら物語にならない。人の意見をちゃんと聞く。自分の意見もちゃんと言う。結論を出す必要のない議論では結論を出さずにおく。みんな大人である。大人と言っても、日本人の大人と違って、互いの意見の相違を受け入れる寛容さや、性行為をレジャーのように楽しむおおらかさは流石に自由の国フランスである。
 本作品はフランスの大人たちの精神性をあけすけに描いてみせた。当然ながら子供は登場しないし、子供みたいな精神性の大人も登場しない。誰もが少しずつ自尊心を傷つけられるが、だからといって激昂したり恨んだりしない。こういう鷹揚な精神性に触れてホッとするというか、自分のせせこましさを反省するというか、人間そのものを肯定してもいいのかもしれないと思わせてくれる作品である。
 ジュリエット・ビノシュはこの作品でも輝いていて、妖艶だったり、ただのおばさんに見えたり、大人の女のたくましさを見せたりと、多面的な演技をしていた。それは人間の存在が多面的であることに通じていると思う。最後のオーディオブックの話ではジュリエット・ビノシュに朗読を頼もうという楽屋落ちみたいなギャグも入れ込んでいて、製作者がこの作品を楽しんで作ったのが伝わってくる。


映画「Celle que vous croyez」(邦題「私の知らないわたしの素顔」)

2020年01月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Celle que vous croyez」(邦題「私の知らないわたしの素顔」)を観た。
 http://watashinosugao.com/

 なんともはや、ブラックな少女マンガみたいな作品である。決して悪い意味ではないが、それほどいい意味でもない。
 フランスでは恋愛に年齢は関係ないというのが常識で、中年以降になっても堂々と彼、彼女の話をする。それは多分いいことだ。シャンソン歌手のコンサートのトークで聞いたが、フランソワーズ・モレシャンは80歳近くになってもきちんと化粧をして赤いワンピースを着てハイヒールを履いて、これからデートなのと言わんばかりに艶然と微笑んでいたらしい。性に開放的なフランス人ならではのエピソードである。とても洒落ている。
 いくつになっても恋の炎を燃やすのはいいのだが、肉体は必ず衰える。恋は上手くいっても性行為は上手くいかないことがある。歳を取れば尚更だ。老いのもどかしさがそこにある。
 人体の耐用年数は50年ほどだそうだ。従って本作品のヒロインは減価償却を終えている。しかし精神は若くて、まだまだ若い男と恋をしたい。現実にはかなり難しいが、ネット上のバーチャルならそれが出来る。
 ジュリエット・ビノシュが演じた主人公クレールは、知的な職業の人らしくSNSを縦横無尽に使いこなし、ゲームのように人を手玉に取る。嘘と嫉妬と自尊心のゲームだ。
 しかしゲームには必ず落とし穴がある。その落とし穴はクレール自身が掘ったものだ。つまり、どれほど愛されていても、更に相手の愛を確かめずにいられない女心の闇である。クレールはその穴にみずから嵌まってしまう。
 ジュリエット・ビノシュはやはり凄い女優である。常人は人生で稀にしか遭遇しない女心の闇を、本作品ではこれでもかとばかり見せつける。
 女の言葉にはそこかしこに罠が散りばめられている。人を試し、欺き、そして支配するためだ。少女マンガの台詞はそういう言葉で溢れている。女心の闇も、人生の真実のひとつである。恐ろしいと解っているその深淵を、誰しも覗き込みたくなるのだ。

 本作品はストーリーも人物の相関関係もよくできている。自分のはじめたゲームに翻弄されつつも、次の一手を繰り出していくヒロインから目が離せない。エンディングでは深い溜め息が出た。