三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「フォードvsフェラーリ」

2020年01月13日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「フォードvsフェラーリ」を観た。
 http://www.foxmovies-jp.com/fordvsferrari/

  ル・マンはあまり見なかったが、F1レースは時々テレビで見た。プロスト、セナ、マンセル、シューマッハなどが活躍していた頃だ。数日前に観た「男はつらいよ お帰り寅さん」の後藤久美子を見て、ジャン・アレジも活躍していたことを思い出した。
 イモラ・サーキットでのセナの事故を最後にあまりF1レースを見なくなった。セナはやたらに後続車をブロックするのであまり好きなドライバーではなかったが、それでも事故は気の毒だった。その後はフェラーリが全盛期となり、どうも毎年のレギュレーションがフェラーリに都合よく変えられているように思えて、急速にF1に対する興味を失ってしまった。
 F1中継は遠いカメラから俯瞰して望遠で映すので、あまりスピードを感じないが、オンボードカメラの映像はかなりの迫力があり、特にテールトゥノーズの場面はスリリングで興奮したことを憶えている。レースは直線のスピード比べとコーナーのブレーキング競争が醍醐味で、本作品にもその辺のシーンがたくさんある。映画は好きなように撮影できるから、本作品の映像ではF1のオンボードカメラを遥かに凌ぐ臨場感と緊迫感を味わえた。

 マット・デイモンは、ロバート・ラドラム原作の「暗殺者」のジェイソン・ボーンを演じたときの切れ味鋭いアクションのおかげでアクション俳優という印象もあるが、セシル・ド・フランスと共演した「ヒア・アフター」(クリント・イーストウッド監督)やスカーレット・ヨハンソンと共演した「We bought a zoo」(邦題「幸せへのキセキ」キャメロン・クロウ監督)では、情緒豊かで思いやりのある役柄を演じ、演技派の俳優として認められたと思う。そして「サバービコン 仮面をかぶった街」(ジョージ・クルーニー監督)では、表面を飾った利己主義者をケレン味たっぷりに演じてみせた。
 本作品では優しさ溢れる熱血漢キャロル・シェルビーを演じ、ときにいたずらっ子のような側面も見せて、非常に魅力的なキャラクターの主人公を作り上げた。もうなんでもできる役者である。ダブル主演のクリスチャン・ベールも、3歳時のわがままさと素直さとひたむきさを残しながら中年になったようなマイルズを存分に演じた。

 作品の構図は、自動車の能力向上とその証としてのレースでの勝利を目指す純粋な男たちと、利益第一の資本家の力関係である。フェラーリはF1でオフィシャルに圧力をかけたが、昔からそういう会社であったことがわかる。フォードはアメリカらしく大量生産の会社だが、自動車は精密な機械だ。少なくともエンジニアは大雑把ではない。
 自動車は人を載せてある程度以上のスピードで走る輸送の道具である。当然ながら安全が第一だ。F1マシンのコックピットは相当に頑丈に作られていてドライバーを守る。それでもセナの事故は起きた。自動車レースは常に危険と隣り合わせなのだ。
 本作品のレース映像は屈指の迫力である。それは主にカメラの位置の低さによるものだとは思うが、事故が起きないかとハラハラする気持ちも手伝って、手に汗握りながら観ることになる。おかげで153分の上映時間があっという間だ。むしろ短く感じるくらいである。

 キャロル・シェルビーの演説のシーンに、10歳の頃になりたかった職業に就くことができるのは一握りの幸運な人々であり、幸いなことに自分もそのひとりだという言葉があった。まさにその通りであるが、そのためには多くの障害を乗り越え、多くの妥協もしなければならない。
 本作品は二人のレーサー兼エンジニアの生き方に人生の真実を投影する。彼らは自動車の発展に寄与し、人々にレース観戦の楽しみを提供してきた。失うものも多かった二人だが、得るものも多かった。人を恨まず、状況を受け入れて真っ直ぐに努力した彼らの生き方に、爽やかな感動を覚えたのであった。


映画「男はつらいよ お帰り寅さん」

2020年01月13日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「男はつらいよ お帰り寅さん」を観た。
 https://www.cinemaclassics.jp/tora-san/movie50/

 古いシャンソンのような映画である。古いシャンソンという言葉で思い出すのは、石黒ケイが歌った「ひとり暮らしのワルツ」だ。元の曲はイタリアの民謡だそうで、五木寛之が歌詞をつけた。各番が次の一節で結ばれる。

 そうよ人生は古いシャンソン
 女と男の恋のルフラン

 ルフランは英語のリフレインで、繰り返しの意味だ。寅さんは旅先で出逢った様々な美女と何度も何度も恋をするが、悉くフラレてしまう。
 その歴代マドンナがフラッシュバックで登場するシーンが沢山あり、僅かな時間のひとつひとつに懐かしい感動がある。新珠三千代、栗原小巻、若尾文子、池内淳子、八千草薫、岸惠子、十朱幸代、太地喜和子、大原麗子、香川京子など、往年の名女優が登場すると、一瞬で涙腺が緩むのだ。
 松坂慶子のうなじには尋常ではない艶っぽさがあり、階段を駆け下りる田中裕子は爽やかな色気を発散し、微笑む吉永小百合は永遠の可愛らしさを感じさせる。どの女優も素晴らしい。山田洋次監督は「たそがれ清兵衛」で宮沢りえの美しさを究極まで引き出したように、女優の美しさを引き出す天才だ。
 そしてこんな美人さんたちに、寅さんは何故かモテる。率直だがシャイな人情家のところがいいのか、小うるさいが思いやり深いところがいいのか、それとも他の何かがいいのか、よく解らない。兎に角、寅さんというキャラクターを生み出したとき、製作者は有頂天になったに違いない。寅さんの恋をリフレインすれば無限にエピソードができるからだ。

 とはいえ、今回の主人公は満男である。結婚して娘が出来たが6年前に妻を亡くし、会社を辞めて作家になった満男だ。
 吉岡秀隆らしいこだわりの演技で、あまり映画やドラマで見かけない、一風変わった父親像を作り上げている。特に娘を「きみ」と呼ぶところがいい。娘の人格を尊重し、娘として愛するとともにひとりの人間としても愛するという奥の深い関係性になっている。
 娘のユリを演じた桜田ひよりの演技もよかった。パパ大好きの気持ちが素直に伝わるし、分別のつきはじめた年頃なりの喜びや悩みも上手に演じてみせた。もちろん年を経た後藤久美子もよかった。
 山田洋次監督らしく、大げさなストーリーや演出はないが、日常的なシーンの中にさりげない異化を挟むことで、そこかしこにテーマを鏤める。観客は笑ったり泣いたりしながら、人生の深みを垣間見れるのだ。フラッシュバックのタイミングも含めて、とてもよくできた映画だと思う。寅さんシリーズを観ていなくても、この作品だけで十分に楽しめる。