映画「さよならテレビ」を観た。
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ポレポレ東中野は設備は古いし、インターネット予約にも対応していない都内でも有数のおんぼろ映画館である。しかし上映作品の選択は素晴らしい。マイナーだが上質の作品を臆さずに上映する。とは言っても、やっぱりインターネット予約ができないのはマイナスで、現地に行って満席で入れなかった記憶があるために行くのを躊躇ってしまう。去年こちらで鑑賞したのは「誰がために憲法はある」の一本だけだ。これがとても素晴らしい映画で、当方としては最高点の4.5をつけさせてもらった。
さて本作品も決して大手のシネコンが上映しないだろうと思われるレアな作品である。2018年の9月にテレビ放送されたとのことだが、東海テレビはよくこういう作品を放送したものだと思う。特に悪役に見られてしまった編集長(パワハラ)とデスク(保身)は気の毒だ。本当はもう少しまともな人だと思う。
最初の方は撮影の意義ややり方についての疑問や異論が噴出して収拾がつかないシーンが連続し、どうにも不安定な感じだった。テレビ局が抱える問題が、正しい報道、視聴率、スポンサー、そして36協定の遵守など、対立するテーマの克服であるという場面があり、同じことはすべての企業で起きていることである。つまりこのドキュメンタリーはひとつのテレビ局の話にとどまらない。ちなみに36(さぶろく)協定を知らない人のために説明すると、労働基準法第36条には、従業員に時間外労働をさせる場合は労使間で協定を結び、労働基準監督署に届けなければならないと定めている。この協定を第36条にちなんで36協定と呼ぶ。時間外労働は月に45時間まで、年に360時間までと定められている。
その後澤村さんや福島さん、渡辺くんが登場すると追いかける対象が安定してドキュメンタリーの軸ができてきた。3人それぞれのテレビとの関わり合いかたが本作品の主題である。看板アナウンサーである福島さんのシーンはほぼ一般のサラリーマンの悩みであり、派遣社員の渡辺くんは適正と能力の話であった。主眼はやはり澤村さんのシーンだろう。
澤村さんの登場時は斜に構えた人という印象だった。業界で所謂是非物、あるいはZ案件と呼ばれる、クライアントを褒め称えるビデオ、簡単に言うとヨイショ番組を作成している場面である。前職でたくさんやってきたから抵抗はないという澤村さんの表情には、どこか忸怩たるものが感じられた。特に「撮影したらそれが事実なの?」という疑問は、ディレクターには意味不明だったが、澤村さんの哲学の一端が漏れ出したようだった。共謀罪についての取材の場面では、権力の監視者としてのジャーナリストの側面が前面に出て、再び戦争に向かおうとするこの国に対する澤村さんの危惧が伝わってくる。
共謀罪法とは、批判の多かった共謀罪法案をテロ等準備罪法案(正式には「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律」)と言い方を変え、安倍政権が2017年に強行採決で成立させた法律である。澤村さんは「共謀罪という言葉を使わないメディアは権力を支える方を選んでいる」と一刀両断に切り捨てる。澤村さんに従ってこのレビューでも共謀罪という言葉を採用する。
共謀罪について解説すると、現行の刑法犯は未遂でも逮捕される場合があるが、準備の段階では逮捕はほとんどされない。ところが共謀罪は準備よりも前の段階、人に話しているだけで逮捕される。しかも必ずしも複数の人間の共謀を前提としないということで、頭の中でたとえば「安倍晋三に天誅が下ればいい」と考えただけで共謀罪となる可能性がある。驚くことに自首もできるのだ。寒空の下の浮浪者がよくコンビニで金を出せと言って通報させてしばらく留置場に泊まることがあるが、これからはいきなり交番や警察署に行って「実は総理大臣を殺そうと思っている」と言えば、共謀罪で留置場に泊まれる。警察官が受理してくれればの話ではあるが(笑)。
つまり憲法が保障している「内心の自由」は完全に蹂躙されるということだ。たとえばある男性が美しい女性を見る。中には下心がある男性もいるかも知れないが、それは表に出さなければ自由のはずだ。しかしその場に警察官がいて、その男性が女性に何か危害を加えようとしたとして逮捕される可能性がある。下心があったかどうかなんて、取り締まる側の胸算用ひとつなのだ。
共謀罪が濫用されると、そんなふうに女性を数秒以上見つめたら逮捕という世の中になりかねない。女性に限らず、男性が男性を、女性が女性を、または女性が男性を見つめても、権力がそれを共謀だと認めれば逮捕される訳だ。現政権に都合の悪いことを言う評論家がいたら、この手で逮捕できる。そして繰り返すが、自首もできる。寒さに凍えるホームレスが警察署に列を作っている様子が頭に浮かぶ。共謀罪で自首するためである。殆どスラップスティックの世の中だ。笑える話ではあるが、笑いごとではない。
テレビ局員はサラリーマンである。年収は多いほうがいい。澤村さんとディレクターの間で、年収300万になってしまったら恐怖だという内容の会話があった。しかし現在日本の労働者の4割以上が年収300万円以下である。そういう人たちがこの会話を聞いたら、テレビマンはやはり高収入で恵まれていると思うだろう。その高収入を支えているのはテレビ局の収益であり、スポンサーであり、つまりは視聴率である。
タイトルの「さよならテレビ」は澤村さんをはじめとする記者たちのジャーナリストとしての矜持と、利潤を追求する企業としてのテレビ局との相克かもしれない。テレビで真実を伝えることは重要だが、それでは視聴率が取れず、スポンサーがつかない。収益が減少して経営が悪化する。ジャーナリストは霞を食って生きている訳ではない。それなりに収入も必要だし、取材には裏の金もかかるだろう。
ひとつ言えることは、マスコミに真実の報道を求めている人が多ければ、報道番組の視聴率は上がるはずだということだ。テレビに真実を求めていない人は報道番組を見ない。お笑いやドラマなどのエンタテインメントばかりを見るだろう。必然的にそういう番組が多くなる。そして現にそうなっている。旅とグルメの番組が溢れかえっているのは、費用対効果がいいからだ。真剣な報道番組は、もはや需要がないのだ。
イギリスの諺に「国民は自分のレベル相応の内閣しか選ぶことが出来ない」というものがある。これをテレビに置き換えれば「視聴者は自分のレベル相応の番組しか選ぶことが出来ない」となる。澤村さんが主張するハイレベルな報道番組が放送されても、それを見る人はいないのだ。
要するにテレビの劣化は、視聴者の意識の低下ということである。誰も政治や社会に関心を持たない。テレビが事実や真実を伝えているとも思わない。原発で国が汚染されようが戦争が始まろうが自分には無関係だと思う人は、事実にも真実にも興味がないだろう。視聴率が取れなければ報道はますます縮小されてテレビはエンタテインメント一色になる。そしてエンタテインメントはインターネットに溢れかえっているから、誰もテレビを見なくなる。そういう時代がすぐそこまで来ている。まさに「さよならテレビ」なのである。