映画「A Beautiful Day in the Neighborhood」(邦題「幸せへのまわり道」)を観た。
完璧ないい人、つまり仏様とか菩薩様みたいな人には一度も逢ったことがない。そんな人は多分この世にいないのではないかと思っている。だから如何にもいい人然とした人を見ると、裏の顔があるんじゃないかと疑いたくなる。
本作品の主人公ロイド・ボーゲルがまさにそれで、不遇な幼少期を過ごしたことから、簡単に人を信じないし、他人に対する評価は自然と厳しいものになる。このタイプの人は決して少なくないと思う。ロイドの場合は他に女を作って病気の母と自分を置き去りにしていった父親が許せない。
子供の人権を蹂躙する親はかなりの確率で存在し、児童相談所の職員の手が回らない主要な要因となっている。日常的に頭を叩くなどは一番軽い方で、酷くなると実の父親に毎日のように強姦されたり、極端な場合は殺されたりしている。事件が明るみになって報道されるのは氷山の一角であり、大半は狡猾な親によって隠蔽されているのではないかと、当方は睨んでいる。
こんな実情を踏まえていれば、簡単に父親との関係修復を説くフレッド・ロジャースのことをロイドが不審に思うのは当然だ。しかし映画では悲惨な子供たちは登場せず、フレッド・ロジャースの手に負えなくなるシーンはない。ロイドの父親についても、なぜか許されてしまう。父親の発言には差別意識が色濃く滲んでいるにもかかわらず、それは問題にされないまま許されてしまうのだ。
フレッド・ロジャースは人を非難せず、問題は心のなかにあるとして、自分を許し、他人を許すことを説く。怒りの感情は他人を傷つけるだけではなく自分をも傷つける。だから怒りを感じたときは様々な行動をすることで怒りの感情をしずめることをすすめる。それは無意識を意識的にコントロールするという意味では間違っていない。ただ、子供ならそれに従うかもしれないが、親は一番傷つけやすいもの、つまりは自分の子供に怒りを向ける。それはフレッド・ロジャースには解決できない。
親が子供に怒りを感じるのは自分が上で子供が下だと思っているからだ。支配する者とされる者の関係性、つまり封建主義の精神性が世界中に遍在している。世界中の殆どの親は「親に向かってなんだ」という言葉で、口の聞き方や態度、果ては表情までを断罪する。断罪された子供たちは親になったときに子供を同じように断罪する。親が上で子供が下という差別の意識は親の自尊心に支えられて、時代が変わっても連綿と続いてきた。
その有史以来の封建主義の精神性を断ち切らない限り、子供たちは蹂躙されつづけるのだ。黒人が白人警官によって殺されるのも同じ図式である。黒人差別の問題に矮小化するのではなく、世界中に行き渡る封建主義の精神性に原因があることを知らねばならない。一方で封建主義的な教育をして差別を継続させながら、一方で子供の人権蹂躙や黒人差別に反対するのは明らかな矛盾である。アメリカで主流の家族第一主義も一種の封建主義であることを理解する必要がある。
完璧ないい人に見えるフレッド・ロジャースだが、彼に対して感じる不信感は実は根深いものなのだ。家族を大切に、親を尊敬してという言い方は正論であり、彼に反駁すると集中攻撃を受けるかもしれない。しかしそこに異を唱えない限り、完全に平等な人間関係の社会を実現することは難しい。そのあたりを全部棚に上げて、ロイドの家族の平穏を喜ぶことには違和感しかない。