三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ミッドウェイ」

2020年09月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ミッドウェイ」を観た。
 日刊ゲンダイに連載されている保阪正康さんの「日本史縦横無尽」というコラムにミッドウェイ海戦のことが書かれている。
 ミッドウェー海戦時の日本とアメリカの海軍の質と量を比較すると、圧倒的に日本が優勢であった。「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の正規の航空母艦を軸にした日本の機動部隊に対し、アメリカ海軍は「エンタープライズ」「ホーネット」の2艦を中心とする戦力であった。搭乗員にしても日本はベテランのパイロットが中心で、アメリカ軍のパイロットは戦闘経験もなく、空母から飛び立ったことのないパイロットさえもいたというのである。それなのに敗れたのは何度か繰り返したように情報力の差であり、全体におごっていたというのが真相である。(2020/4/23日刊ゲンダイ)
 本作品を観ると、保阪さんの指摘がことごとく正鵠を射ていることが判る。米軍の側に立ってみれば、真珠湾で受けた大打撃から海軍を立て直し、ミッドウェイ海戦の勝利に至るまでの苦しい道のりが判るし、日本軍の側に立ってみれば、真珠湾攻撃で講和に至るどころか、眠れる獅子を起こしてしまったと認識していたのが山本五十六以下のごく僅かな軍人たちだけであったと判る。加えて情報戦に長けていた米軍が日本軍を先回りして待ち伏せすることでミッドウェイ島の海戦を勝利することができた。保阪さんの言う通り、情報力の差が勝敗を分けたのだ。太平洋戦争はミッドウェイ島の戦いで大勢が決している。早期の講和を夢見ていた山本五十六の夢はあえなく破れてしまったのだ。その後は軍官僚の面子と保身のためだけに戦争が継続された。もはや負けるために戦っているようなものである。
 戦争に賛成だろうが反対だろうが、死の恐怖、捕虜になる恐怖は変わらない。朝一緒に食事をした人間が夕方には海の藻屑となっている状況は、精神的にかなり堪(こた)えそうだ。人間には何でも慣れる能力があるから、最前線のそんな状況にもいつかは慣れてしまうのかもしれない。しかしPDSDになる者は数多くいる。戦争は人間の精神を破壊するのだ。ミッドウェイ海戦の勝利も敗北も、どちらも喜べない。
 本作品では前線の個人の描写は米軍兵士に限られているが、未体験の戦闘の恐怖や死んでしまうかもしれない絶望感などは米軍も日本軍も同じだろう。戦闘シーンは迫力があってとても興奮した。敵味方の砲弾や銃弾が飛び交う中で攻撃が成功するのはほとんど僥倖に近かったことも判った。戦争映画としては飽きずに面白く鑑賞できる佳作だと思う。

映画「喜劇 愛妻物語」

2020年09月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「喜劇 愛妻物語」を観た。
 タイトルに敢えて「喜劇」とつけたのは「愛妻物語」だけだと大量のツッコミが入ると予想されたからだろうか。朝から晩までセックスのことしか考えていない夫は少なくとも愛妻家ではない。しかしこういう愛妻家がいてもいいでしょうという開き直りの意味での「喜劇」だとすればよく理解できる。ある本によれば男は52秒に一度性的なことを考えるらしいから、本作品の主人公豪太みたいな夫は強ち稀な存在ではないのだろう。手の届かない若い娘よりも、ヤラせてくれそうな吾妻さんにちょっかいを出そうとするのが哀れだ。
 世の中の妻はどうかというと、これも夫と似たりよったりで、本能的であるところは変わらない。動物でも昆虫でも、メスは強いオスと交尾したがる。より強い遺伝子を選ぶことで種の保存を成し遂げたいという訳だ。人間の場合は少し違っていて、種の保存よりも自分の保存を重視し、そのために強いオス、経済力のあるオスを選ぶ。ママ友の自慢話は夫の経済力や地位、見た目のよさ、性的能力の順である。
 ところが本作品のチカは、何故か強くもなく経済力もないオスを選んでしまった。メスの本能に反する選択であり、チカはこの選択をずっと悔いることになる。チカの凄いところは、通常は相手を傷つけるから隠すはずの本音を真正面から当の本人にぶつけ続けるところである。夫婦間ながらパワハラそのものである。そしてパワハラの被害者であるはずの豪太は自分の不甲斐なさに原因があることで、妻からの罵詈讒謗を甘んじて受ける。しかも罵倒されながらも妻とのセックスのチャンスを窺うという、恐ろしく強い精神性の持ち主である。
 現実にこんな夫婦がいたらなるべく近寄らないでいたいが、物語としてはこういう典型的な本音人間を登場させるのは痛快である。他人を気にしながら生きているすべての人は、たまには傍若無人になりたいと願っているのだ。水川あさみは人格破綻したチカを思い切り演じていた。何しろ日頃は絶対に言えない言葉ばかりを大声で撒き散らす役である。さぞかし愉快だっただろう。
 人間は自分が傷つけられないように、他人を刺激しないようにして生きている。他人に酷い言葉を投げつけたら、それ以上に酷い言葉をぶつけられる危険性がある。あるいは哀しそうな表情で無言に沈まれ、いたたまれない気持ちにさせられる。酷い言葉というのは結局自分と相手の両方を傷つける諸刃の剣なのである。
 被害者意識がある間は、優しさを獲得できない。チカがその典型だ。思考の基本が損得勘定だから、どこまでも自分が損をしていると考えて相手を許せないのがこのタイプである。夫の豪太がチカから優しく接してもらうためには無限に与え続ける必要がある。しかし豪太にそんな能力はない。夫婦は最初から破綻しているのだ。
 しかし破綻したままでも夫婦として成り立っているのが人間の面白いところで、だから「喜劇」なのだろう。破綻していても破局しない理由は豪太の我慢と妻への恐怖と稼げない引け目とそれに妻への性欲というのだから、笑えるというよりも泣けてくる。妻の前だとうつろな表情になってしまう夫を演じた濱田岳も、こういうわかりやすい俗物を演じて楽しそうだった。
 愛妻家というと優しく微笑んで妻への感謝を口にするイメージだが、金の切れ目が縁の切れ目みたいな本音を出してみたらどうなのか、愛妻家の定義をいつまでも妻に対する性欲を失わない男のことにしたら面白いんじゃないかという発想で生まれた作品だと思う。こういう夫婦には誰が総理大臣になっても関係ないのだろう。巷間の夫婦のありようとして面白く鑑賞できた。