三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「青くて痛くて脆い」

2020年09月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「青くて痛くて脆い」を観た。
 暴力を否定する人は多いが、暴力を否定しない人もたくさんいる。日本では親や教師による暴力を「愛のムチ」と呼んで美化あるいは正当化している時代があった。いまでも子供を殴る親や教師はたくさんいると思う。TBSのテレビドラマ「スクールウォーズ」の山下真司扮する熱血教師がラグビー部員を殴るシーンについて、感動的なシーンだとする人と、単なる暴力シーンだと切り捨てる人に分かれているようだが、あれを感動的としてしまえば、すべてのパワーハラスメントは正当化されてしまうだろう。
 杉咲花が演じた秋好寿乃は行動力はあるが思考力に欠ける性格で、自己肯定感に溢れているから他人を巻き込んで恥じることがない。対して吉沢亮の田端楓は自己否定気味であり、その延長として世界のことも否定気味である。人との摩擦を避けるためになるべく穏便な行動を取る。ソーシャルディスタンスで言えば、秋好は50センチ、田端は3メートルというところか。通常なら絶対に関わることのない相反する人物設定だが、これを強引に絡ませることでなんとか物語が成り立っている。しかし秋好の行動は思考力に欠ける人間の典型でよく分かるのだが、田端の行動は否定的な人間という設定を逸脱して理解できない部分が多い。物語は破綻していると思う。
 暴力反対、戦争反対、自分らしく生きるというスローガンは若者らしいところと、宗教のお題目みたいなところの両方の印象がある。このスローガンではサークルなど立ち上げようがないのだが、それも強引に立ち上げてしまう。活動内容は他愛もない福祉活動だ。田端は否定的な人間の特徴として内省的なのだが、サークルの活動についての内省はしないようだ。この辺りも理解できない点のひとつである。
 あらゆる暴力は否定されるべきだが、暴力を否定するだけでは暴力はなくならない。暴力というのは人間の行動のひとつであり、行動には必ず理由がある。その理由を明らかにすることで因って来る源となる問題を探り当て、それを解決することで漸く暴力がこの世から一掃される。単に暴力反対を叫ぶ秋好がドン引きされたのは当然で、ドン引きする方を無理解として秋好を支持するのは無理筋だ。
 一般的にどの共同体でも暴力は禁止されている。しかし家庭内暴力、警官による暴力など、暴力事件は世界中で後を絶たない。人間は本来的に暴力を振るうとも考えられる。ただ日本では、戦前から戦後のやたらに人を殴る時代から比べれば、最近は日常的な暴力が減少しているように思える。教師が毎日のように生徒を殴っていた時代はもはや昔の話だ。それはパワハラといった言葉が普及して無意識にブレーキをかけたことも大きいと思うが、それ以上に人間はみな平等という民主主義の考え方が徐々に普及しているのも大きな理由であろう。
 法の下の平等という考え方は古くからあるが、それが基本的なものの見方として定着するには長い時間が必要で、未だに定着してはいない。殆どの人間は勝手な基準で人を差別する。それが自尊心の働きだ。自分が他人よりも優れていると思わなければ自分を肯定することが出来ないのだ。そのためには自分よりも劣っている人間を探すか想定することになる。人を見下すという心理だ。相手を下に見るからその相手が自分に反抗したり言うことを聞かなかったりするのが許せない。自尊心を傷つけられるからだ。そして暴力を振るう。
 差別の基準は多くは封建主義的な考え方に起因している。子供より親が上、生徒より教師が上、部下より上司が上、店員より客が上、黒人より白人が上など、法の下の平等という基本的人権の考え方を無視した基準がまかり通る。その逆はない。遅刻した生徒を殴る教師はざらにいるが、遅刻した教師を殴る生徒は滅多にいない。言うことを聞かない子供を叱りつける親はときどき見かけるが、赤信号を渡る親を叱りつける子供は見たことがない。部下を怒鳴る上司はいるが上司を怒鳴る部下は滅多にいない。店員に怒鳴りつける客はいるが、客を怒鳴りつけて言うことを聞かせようとする店員はいない。
 言葉遣いも重要だ。英語では「please」とつけるかどうかくらいの話だが、日本語には敬語があるから厄介である。敬語は差別の象徴であり、目上と目下を設定する。その基準は前述の封建主義的な基準にぴったりと合致している。本作品にも敬語を使う使わないのシーンがあるが、敬語を使わせる精神性が暴力に結びついていることにまでは考えが及んでいないようで、登場人物の関係性だけに終わってしまっている。
 敬語は互いの距離感を遠ざける。親しき仲にも礼儀ありという通り、互いに敬語を使う間柄には暴力は生じにくい。もし秋好と田端が思考力に富んだ人間だったら、暴力反対のサークルはタメグチ反対というスローガンを打ち出すことも出来た筈である。そうすれば日本の敬語が世界の暴力反対に役立つだろう。
 吉沢亮も杉咲花も力いっぱいの演技で好感は持てたが、いかんせん映画自体が世界観の浅い幼稚な作品で、柄本佑をはじめとした脇役陣の好演があっても作品の質を高めることは不可能であった。

映画「Il traditore」(邦題「シチリアーノ 裏切りの美学」)

2020年09月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Il traditore」(邦題「シチリアーノ 裏切りの美学」)を観た。
 主人公トンマーゾ・ブシェッタの台詞に「誇りある男」というフレーズが何度も出てくる。コーザ・ノストラに入会するためには「誇りある男」でなければならない。「誇りある男」は沈黙の掟を守る。
 本作品はマフィアのメッカであるシシリアに生まれたブシェッタが、マフィア同士の高層に倦んで、当局に協力してマフィアを弱体化させる話である。したがってレベルの高い話ではない。コーザ・ノストラの入会時には血を使って誓いを立てるが、それも日本の血判状に似ていてレベルの低い方法である。
 人間は自分のために他人と関わる。組織と関わる。これを契約という。結婚も民法上の契約であり、離婚は契約の解消だ。組織との関わりはもっと明白に契約で、会社に入るのは労働契約、雇用契約である。国家みたいな共同体は生まれたときから関わっているから、所属しているみたいな感覚になってしまうが、成長する過程で国家も組織のひとつであり個人と国家の契約という関係性を自覚するようになる。
 しかし組織の維持という観点からは、個人が契約という自覚を持つと困るのである。だから契約という言葉はなるべく使わない。国家はみんなが守るべきものであり、みんなが規範に従うべきものである。戦前の教育はその理念に集中していた。何のことはない、国家もマフィアの巨大版に過ぎないのだ。要するに欺瞞である。
 ブシェッタは教育はなかったが頭の回転がよく、コーザ・ノストラの欺瞞に気づいて暴力による抗争には未来がないと悟ったようだ。何度も口にした「誇りある男」は、きれいごとが並べられたコーザ・ノストラの掟に対して、現実がまるで違っていることへの抗議の意味もあったのだろう。そして誰もがコーザ・ノストラを利用しているだけであると判れば、自分も当局を利用して自分と家族の安全を図ろうとするのは当然だ。
 邦題の「シチリアーノ 裏切りの美学」は作品を理解していない人がつけたトンチンカンなタイトルだ。原題の「Il traditore」は裏切り者の意味である。当局に協力したブシェッタのことを指しているように見える。実際に法定の場面では、証言をするブシェッタに対して、かつての仲間たちから繰り返し「Il traditore!!」という罵声が浴びせられる。しかしブシェッタから見れば、裏切り者はどちらだという言い分になる。原題の「Il traditore」はブシェッタだけでなく、コーザ・ノストラに関わった全員を指していると思う。つまりコーザ・ノストラという組織は、誰もがそれを利用してのし上がるための共同幻想に過ぎなかったのだ。
 この構図は、国家という共同幻想に群がる政治家や役人たちの構図とそっくりである。規模が大きいから気づかないだけだ。本作品は下り坂となったコーザ・ノストラの最後の醜態を描いている。同じように下り坂となった世界の国家が、変な悪あがきをしないことを祈るばかりである。