三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「人数の町」

2020年09月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「人数の町」を観た。
 本作品の設定について、ふたつの見方があると思う。ひとつは実際にこういう人数の町みたいな事態が国家によって作り出されている可能性があるということ。もうひとつは現在の日本の縮図として人数の町を表現したということ。
 映画としてはあまりいい出来ではない。全体にオブラートに包まれたみたいなモヤッとしたシーンが多い。もっと踏み込んだ過激なシーンがあれば退屈しなかったのだが、どこか世間に遠慮したような部分が感じられた。カメラワークも平凡。
 しかしテーマと設定は面白い。ネット時代らしく褒める書き込みと貶す書き込みの両方を集めて何かに利用しようとする場面があるのもいい。ただその書き込みの行く先も描けばより解りやすかった。たとえば首相のツイッターには褒めるコメントが殺到し、反政府の活動家のツイッターには罵詈讒謗が並ぶなどである。我々は民主主義の国にいながら、実は飼い馴らされて状況の変化を望まないようになってしまったのではないかという恐れは、それとなく感じられる。
 間接民主制では国民が政治に参加できるのは主に選挙によるが、その選挙を乗っ取ってしまえばいつまでも権力者でいられる。選挙は無記名投票だ。他人の選挙通知書を持っていても誰も気がつかない。そういえば投票所で身分証明書を出したことは一度もない。名前を聞かれて頷くだけだ。ただ同じ人が同じ投票所で何度も投票すればすぐに気づかれてしまう。他人の通知書で投票するには通知書の数だけ人数が必要になる。なるほどそれで人数の町かと納得はした。
 石橋静河は好演。普通の人が普通にこういう状況に陥ったらそうなるだろうなというリアリティのある演技だった。普通の人というのは、社会のパラダイムに精神的に蹂躙され、あるいは依存している人のことで、そういう人は家族だからこうしなければならなかったとか、親だから子供を案じなければならないとかいったステレオタイプの考え方しかできない。そんな人でも人数の町には違和感を持つ。そういうトーンで全体を作れば、もう少しましな映画になった気がする。
 中村倫也はいまひとつ。表情に乏しくて主人公の葛藤や苦悩が感じられない。だから行動も依存的で突発的に感じられる。倫理観にも整合性がなく、この主人公の人格を信用できなくなる。だから最後の台詞に厚みがない。
 日本国憲法第13条には「すべて国民は、個人として尊重される」と書かれているが、現在の政治は国民をグロスで捉えて画一的に「処理」しようとしている。「自助」が第一という政治理念は、要するに政治は何もしてやらないということだ。しかし選挙は勝たなければならない。そのためにアメを撒く。携帯電話料金の値下げやGotoキャンペーンなどは国民に対するアメである。アメをもらって飼い主に投票する犬扱いされていることに、国民の多くは気づかない。
 本作品は権力が如何に国民を操るかを描いた意欲的な作品ではあるが、アメをもらえるからガースーに投票しようとしている脳天気な有権者に響くには、少しインパクトに欠けるのが憾みであった。

映画「Le chant du loup」(邦題「ウルフズ・コール」)

2020年09月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Le chant du loup」(邦題「ウルフズ・コール」)を観た。
 現代を上手く捉えた緊迫感たっぷりの潜水艦ものである。冒頭からラストまでリアリティのある場面が続き、息をつく暇もない。安易な結末にしないところは流石にフランス映画だ。タイトルは英語にせず、フランス語の直訳の「狼の歌」でよかった。狼が主人公と誤解される恐れがあるなら「狼の歌がきこえる」あたりでいい。
 山本周五郎の時代小説を読んだことのある人ならお分かりと思うが、真剣での果し合いはテレビドラマの時代劇みたいにスマートにはいかない。どれほど力の差があっても、掠り傷ひとつ負わないということはあり得ない。肉を斬らせて骨を断つという言葉があるように、互いに真剣を持っている状況では、タイミングによっては弱い武士が強い武士を倒すこともありうる。だから戦場では甲冑を着て備えたのだ。
 兵器による戦闘も同じである。一方的に勝つことはありえないのだ。その意味では本作品の戦闘シーンは現実味がある。そして兵士の死にも容赦がない。日本の安いドラマでは死に際に最後の台詞を言ったりするが、死はとてつもない痛みが伴うから言葉を発することはほとんど不可能である。本作品の兵士たちはポイとゴミを捨てるみたいに死んでいく。冷たい訳ではない。それが現実なのだ。
 世界の核保有国は五大国の他にもいくつかあるから、推定では10カ国くらいだと思われる。英米仏露中の五大国は核拡散防止条約で核兵器の保有を国際的に認められている。第二次大戦で日本に核兵器が使われた時は航空機による爆弾の投下という形だったが、現在ではICBM(大陸間弾道ミサイル)とSLBM(潜水艦発射式のミサイル)に核弾頭を搭載するのが主流だ。ICBMは発射基地を設けるか、発射台付きの巨大な運搬車で発射させるかだが、いずれも衛星による監視で発見されてしまう可能性がある。対してSLBMは潜水艦に搭載され、潜水艦は極めて発見が難しいので、戦略としてはSLBMが勝っている。
 本作品はSLBMの多元的な危険性を表現するとともに、軍事命令の不可逆的な面の危険性についても思い知らせてくれる。軍隊は戦争をするシステムであり、他国の国民を殺すことが目的である。そして一度引いた引鉄は戻せない。最高司令官たる大統領はその仕組みを熟知していなければならないが、統治が人治である限り、ミスは起こるし、悪意が実現されることもある。軍隊や核兵器の存在そのものが人類に対する脅威なのだ。
 フランスは大統領制だが、政策の実行部隊は首相以下の閣僚である。ちなみに現在の軍事大臣はフロレンス・パルリという57歳の女性だ。大統領から軍事大臣を経て元帥、大将から二等兵までのヒエラルキーとなっている。基本的に上意下達でその逆はありえないが、意見を言う自由はあり、上官に反する意見を言っても罰せられるという軍規はない。役割分担がしっかりなされており、専門家としての意見は上官も耳を傾ける。
 フランソワ・シビルが演じたソナー員は潜水艦における専門家である。将来はAIが取って代わる役割かもしれないが、動植物や海底からも様々な音が発生している海の中では、情報処理としての音の聞き分けににおいて、聴覚と記憶力の優れたソナー員のレベルにAIが達するのは用意ではないと思われる。そのあたりは他の乗組員も承知していて、だから優れたソナー員はその意見が尊重される。この辺の関係性は人権の国らしい合理性がある。命令系統と平等な人権という、場合によっては相反するかもしれない人間関係が立体的に描かれ、作品に奥行きを与えている。
 俳優陣はいずれも見事な演技だった。フランソワ・シビルが演じた主人公の「靴下」は優れたソナー員としての自負があり、仕事に一生懸命で追求するべき音はどこまでも追求する粘り強さを持つが、書店員の女から口移しにマリファナを吸わされても恨まない度量も持ち合わせている。ラストシーンの戸惑い、迷い、後悔、絶望などが合わさった複雑な表情が素晴らしい。
 オマール・シーはフランス映画に欠かせない俳優である。今年はハリウッド映画の「野性の呼び声」にも出演し、味のある演技を見せていた。本作品ではユマニスム代表みたいな役柄で作品の立体的な構造の一角を好演。
 映画「スペシャルズ!」で無認可の福祉団体を率いるユマニストを演じたレダ・カティブは本作品では核弾頭搭載の原子力潜水艦の館長だ。命令系統の遵守か核戦争の回避かという究極の選択を迫られる。苦悩に満ちたその表情は役者としての面目躍如である。
 ハリウッドのB級大作「TENET」も世界を救うという設定の話だったが、もしかしたら世界が滅びるかもしれないと想定される事態を回避するというややこしい話だったのでいまひとつピンとこなかった。対して本作品は実際に飛んでくるSLBMに対して核弾頭搭載のSLBMを撃ち返すという話だから、非常に現実味がある。世界を救うために僚船と戦うという設定はよく出来ていて、映像も音響も各シーンにぴったりだった。かなりの傑作だと思う。