三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Escape from Pretoria」(邦題「プリズン・エスケープ」)

2020年09月25日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Escape from Pretoria」(邦題「プリズン・エスケープ」)を観た。
 人はひとつの作業を繰り返しているうちに自然と熟練していく。特に物造りの作業では沢山の工程をこなすほど上達も早い。ましてやその作業に命がかかっているとなれば、熟練の速度も段違いになる。木で作る鍵も熟練すれば丈夫に精密になるだろう。
 本作品で伝わってくるのは、理不尽なアパルトヘイトが社会に蔓延して小役人がそのパラダイムを後ろ盾に横暴な権力を振るって人権を蹂躙していることに対する怒り、そして脱走の準備をする主人公たちの緊張感である。
 同じ日常の繰り返しが続くが、高圧的で横暴な看守たちの姿の向こうに、主人公たちは差別され続ける黒人たちを見る。逢えない家族の姿を見る。看守に歯向かう者もいれば従順を装う者もいる。囚人たちの姿勢は様々で一枚岩にはなりえない。しかしひとつだけ共通しているのは看守たちに仲間を売る者がひとりもいないということだ。自分たちは犯罪者ではなく政治的に拘束されている人間であるという認識は一致している。
 映画としては同じようなシーンの連続だが、少しずつの変化を読み取れれば退屈することはない。徐々に近づいていく結構の日に向けて、緊張感は静かに高まっていく。
 ダニエル・ラドクリフをはじめとして俳優陣はみな好演だった。憎まれ役の看守たちも好演。あまりお金をかけていない作品だと思うが、緊迫した場面や間一髪の瞬間もあり、割と面白かった。実話をもとにした映画とのことで、その後の南アフリカの政治的な展開を考えれば、彼らの脱獄の意義は大きかったと思う。

映画「友達やめた。」

2020年09月25日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「友達やめた。」を観た。
 東進ハイスクールの林修さんも言っていたが、友達なんてそもそもいらないと思う。友達がいることの是非を考えてみればすぐに分かることだ。どういう関係性を友達と呼ぶかについても議論が分かれそうだが、一般的に親交のある人を友達と呼ぶとすれば、次に親交があるとはどういうことかとなる。親交とは気を許して付き合うことである。人はどうして他人と関わるのかといえば、ひとつは孤独を紛らすためで、ひとつは承認欲求を満たすためである。場合によっては優越感を満たすためである。
 さらに言えば、複数の人間でいることは独りでいるよりも安心感がある。自分の知らないことを友達が知っていることで助かる場面もあるだろう。暴漢みたいな人間が出現してもこちらが複数なら撃退できるかもしれない。しかしそんな場合は滅多にない訳で、普通に友達と付き合うのはやっぱり淋しいからだろう。
 しかし最近は一人カラオケや一人焼肉なども市民権を得ていて、独りは淋しいという感覚はなくなりつつある。独りは淋しいという感情は人間が本来持っている感情ではなく、社会によって作られた感情に違いない。淋しいと思わされているだけで、人間はもともと独りでも淋しくないのだ。
 これまで生きてきた中で有意義な啓発を数知れず受けたが、その殆どは書籍からによるものだ。その他は映画や芝居、コンサート、講演会などである。友達から啓発されたことはひとつもない。しかし友達でない人から啓発されたことは何度もある。互いに友達であるという自覚のある関係になると、友達であることそのものが目的になってしまっては関係性は硬直するし、ダイナミズムも失われる。関係を維持するために互いに真実を語らないからである。忖度なしに忌憚のない意見を言うのは友達という関係性では難しい。友達でない人のほうが遠慮なく真実を言ってくれる。
 ただつるんでいるだけの友達は何のメリットもなく、寧ろデメリットばかりだ。時間を束縛されるし場合によっては金銭の要求もある。「俺たち友達だろ?」とか「私たち友達よね?」などと言ってくる人間にろくなやつはいない。「友だちになった覚えはない」とキッパリ断ると、時間と金を無駄にしなくて済む。しかしそれが判るのは大人になってからだ。中学生くらいまでは孤独に耐性がないから友達の存在に依存してしまう。LINEで無視されたくらいで自殺するのはその年代か、せいぜい高校生までだ。価値観も依存してしまっているからである。自分なりの世界観、人生観があれば、他人の言葉によって死ぬことはない。
 本作品のふたりは互いに相手を助ける面もあり、つるんでいるだけの部分もある。障害者同士の話だから特別かというとそうではないと思う。すべての人間は多かれ少なかれ障害者なのだという考え方もある。弱いところを理解して助けてほしいというのが友達に求める欲求だろう。しかしそれは友達だけに求めるものだろうか。自分の弱いところは友達だけでなく世間のみんなに知ってもらって助けてほしい。代わりに他人の弱いところをできる限り助ける。
 人間関係の不満は損得勘定によるところが多い。自分だけが負担した、自分だけが頑張った、これだけやってあげているのに何もしてくれないなど、一方的に自分が損をしているのではないかと思うところに不満がある。友達という関係でなければその不満を相手にぶつけることができる。いっそのことビジネスにしてしまったほうがスッキリする。仕事を助けてもらったら代金を支払うのだ。その代わり、相手が困っているからといっても自主的には手を貸さない。困っているから助けてくれと言われてはじめて助ける。だったら友達である必要がない。川で溺れている人がいたら、友達であるないに関わらず誰でも助けるだろう。相手を理解して助け合う社会には友達はいらないのだ。
 中村元訳の「ブッダのことばスッタニパータ」には次の一節がある。
交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
(第一、蛇の章 三、犀の角より)
 新約聖書には次のように書かれている。
『隣人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、私はあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
(マタイによる福音書第5章)
 友達の関係は言ってみれば小さな全体主義の関係である。個人の人権よりも友達という関係性が優先される。人数が多くなると指導者と従属者が生まれ、指導者がいじめをすれば従属者も必然的にいじめに加担しなければならなくなる。それが不良集団であれば他の不良集団との争いに発展する。ヤクザの抗争や、ひいては国家間の争いと同じ図式である。友達は戦争の源なのだ。
 本作品の世界観は結局のところ中途半端で、誰もが孤独に向き合わなければならないというところにまでは達していない。しかし、なあなあで済ますのが友達関係なのだという問題提起はしたと思う。