形ある物はいずれ壊れて消滅してしまう。それは文化や風俗も同じだろう。しかし未だに消滅していないものがある。それはもちろん言語である。人間が社会生活を営む限り、言語は今後も消滅しにくいだろうと思う。
言語で表現できることは無限に近く、大量の本が生み出される。これからは電子書籍が中心となっていきそうな気配があるが、本作品で扱う本は、主に紙の本のことである。高校の世界史の授業で習ったルネッサンスの三大発明のひとつである活版印刷術が、紙の本の普及を飛躍的に増大させたらしい。作品中の人物が「本の歴史は550年ほど」と言っていたから、活版印刷術の発明から現代まで、それくらいの間に大量の本が生み出されたということだ。
電子書籍を購入するのは、最初から目的の本が決まっている場合が多いと思う。そうでない場合でも、ジャンルや作者を選んでから購入する本を決める。しかし本屋で紙の本を買うときは、もちろん目的の本を買う場合もあるが、例えば文庫本が作者名のあいうえお順で並んでいる棚を見ているときなど、タイトルに惹かれて思いもしなかった本を買うことがある。本との出逢いである。最近はネットで本を買うときも、同時に多くの本が紹介されるが、同じ作者や同じジャンルが紹介されるだけなので、出逢いという面ではまだまだ本屋に及ばない。本との出逢いは、ときとして人生を変えることもある。
今でも本屋や図書館に足を踏み入れると、ワクワクする気持ちの一方で漠然とした戸惑いを覚える。そこには圧倒的な量の知識や思想が並んでいるからである。ときには戸惑いから抜けきれずに出てしまうこともあるが、ひとつのタイトルやひとりの作者などの取っ掛かりを見つけると、そこから本の探索が無限に広がっていく。気がつけば数時間が経過していることもある。高校生の時など、休日は本屋の開店から閉店までいたことが何度もあった。
本作品の本屋さんは本そのものに骨董的な価値があったり、初版本などのプレミアムによって価格が高くなったりする本に重きを置いているようだ。つまり商売である。商売としての本屋さんが電子書籍に押されて消えていこうとしているが、若い跡継ぎたちは新しい価値を生み出して本屋の存続を図ろうと画策する。やはり商売である。
本の愛好家は本自体に興味があるのであって、内容は二の次なのだろう。希少価値のある本を所有していることに満足するという訳だ。本作品に出てくる本屋の客はそういう愛好家たちである。愛好家が死んで少なくなると同時に本屋も廃れてしまう。今はそういう時期なのだろう。サントリーがウイスキー山崎50年を100万円で発売したときにすぐに完売したように、人気の本があれば本屋も採算が取れるのかもしれないが、本は熟成するわけではなく劣化するだけだ。しかし本の内容は劣化することなく生き続ける。
何度も書くが、本屋や図書館には出逢いがある。公園を歩いていて小さな美しい花を見つけたときみたいに、興味をそそる本に出逢うことがある。電子書籍は検索やら持ち運びやらで便利だが、紙の本屋も続いてほしい気がする。少なくとも図書館は税金できちんと維持し続けなければならないと思う。それは役所の義務だ。本との出逢いの場はなくしてはならない。