三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「The Tragedy of Macbeth」(邦題「マクベス」)

2022年01月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「The Tragedy of Macbeth」(邦題「マクベス」)を観た。
 
 シェイクスピアの戯曲はレトリックを多用して、言葉遊びのようでもある。同じ言葉を繰り返しているようで、少しずつニュアンスが変わっていったりする。音楽で言えばラヴェル作曲の「ボレロ」のようで、同じメロディの繰り返しのようでありながら、楽器の組み合わせとボリュームが変化することで、徐々に盛り上がり、最後はすべての楽器が参加して壮大な楽曲となる。
「女の股から生まれた者はマクベスを倒せない」というのは、シェイクスピアが本作品に仕掛けたなぞなぞのような有名なレトリックだ。こういう台詞があるから、シェイクスピアの芝居は一言一句を聞き逃がせない。本作品の鑑賞後は誰もがぐったりとするだろう。
 
 シェイクスピアの物語は一般に性格悲劇と呼ばれる。人生に躓くのは性格に由来するということを基礎にしてストーリーを積み上げていく。世界観は単純明快で、人間の欲望には際限がない。欲望に従って能動的に行動する人と、運命を受け入れる受動的な人に分かれる。権力者は当然ながら能動的で欲望に素直であり、支配される人々は禁欲的で状況を受け入れる。ドラマは前者の側にあり、それは常に悲劇である。
 
 本作品の主人公マクベスの場合は、簡単に言えば気が弱かったということだ。気が弱い人というのは、想像力に優れている人である。最善の事態から最悪の事態までを広く想像することができて、最悪の事態を恐れるあまり、気が弱くなる。
 しかしいざとなれば火事場の馬鹿力を出すことができる。それを何度も繰り返すと慣れていって、ポテンシャルが上昇する。マクベスは体格がよくて運動神経も優れていたのかもしれない。人を殺すことに慣れて戦場で勇名を轟かせる。しかしそれは大義名分に裏打ちされた勇名だ。本来は気が弱くて権威に弱いマクベスは、臣下でいるうちは能力を発揮できたはずである。妻に唆されたとはいえ、大義名分のない自分の行為を恐れ、自省し、悪い想像に慄く。その上、王は気にする必要さえない群衆の視線まで気にする。気の弱い人の典型のような人物である。
 気の弱い人は百面相のように表情が豊かである。表情が豊かであるということは人間的であるということだ。デンゼル・ワシントンはまさに気の弱さを表面に出して、表情豊かなマクベスを演じてみせた。人間的な魅力に溢れている。
 
 マクベスを悲劇に突き落としたのは、気の強い妻だ。気が強いというのは想像力が偏っている人のことである。想像力が劣っていると言ってもいい。自分に都合のいいようにしか予想しないし、事態が悪化しても動揺しない。そして自分の選択を絶対に反省しない。他人が酷い目に遭っても気にしない。マクベスの妻はマクベスが殺されても気にせず、どうすれば自分が有利になるかだけを考える。気が強いということは、ある意味で人間性に欠けているということでもある。
 気が強い人は能面のように表情が変わらない。表情が変わらないということは即ち非人間的だということである。フランシス・マクドーマンドがまったくの無表情で演じ続けたことにはそういう意味があった。人間的な魅力も何もない、恐ろしい怪演だった。見事である。
 マクベスの悲劇は、そういう時代だったからではない。たとえば経営手腕に優れて人格的にも尊敬できる社長がいるとして、その会社の社員に、社長を殺したら代わりに社長にしてやると言っても殺す人はいないと思うが、一億円やると言ったらどうだろう。殺そうとする人がいるかもしれない。十億円だったら殆どの人が完全犯罪を模索するだろう。マクベスと何の違いがあろうか。
 
 いつの世も人は悲劇を生きる。あらかじめ死ぬことが決まっていてこの世に生を受けるのだ。悲劇以外の何がある。しかしいつの世も演劇や映画で悲劇が上演され、上映される。そして人は悲劇を観ることで、自分の悲劇を相対化することができる。そこで漸く精神のバランスを保つのだ。
 古いは新しい、新しいは古い。シェイクスピアは常に新しい。

映画「I still believe」(邦題「君といた108日」)

2022年01月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「I still believe」(邦題「君といた108日」)を観た。
 
 映画の冒頭で、主人公ジェレミー・キャンプが障害のある弟に対して見せる優しさと、その様子を両親が誇らしげに眺めるシーンに、先ず感動する。この感じで進む物語なのだと思った。引越し先の大学寮に向かうバスのシーンで期待が膨らむ。
 ところが、ライブイベントで当方の予想は裏切られる。歌われる歌詞はすべて神に捧げられるもので、要するに本作品はキリスト教の信仰の映画なのだ。申し訳ないが、無宗教の当方にとっては理解し難いところがある。
 
 ヒロインのメリッサは天文学の基礎知識があるようで、プラネタリウムのシーンでは、天の川銀河とアンドロメダ銀河について解説し、無人のコンサートホールのシーンでは超新星爆発について解説する。超新星爆発はマイナス15等星とも言われるほどの明るさだ。ただ恒星の最後は、超新星爆発の他に白色矮星になることもあるので、メリッサの解説は必ずしも正確ではないが、星の最期は明るく光り輝くことを言いたかった訳だ。ロウソクの炎の最期と同じである。ここまではまあいいとしよう。
 しかしそこに神という概念を持ち込むと、科学が一転して、妄想になってしまう。多分キリスト教徒にも理解し難いのではなかろうか。アルベルト・アインシュタインがキリスト教徒だったからといって、物理学に神の概念が入り込む余地はない。神が宇宙に遍在すると言いたいのかもしれないが、それだと日本の八百万の神みたいになってしまう。キリスト教は一神教だから八百万の神とは違う。メリッサの信仰告白は理屈っぽいが、何が言いたいのかさっぱり解らない。雰囲気だけで話している気がした。
 
 ジェレミーの優しさと献身は解るのだが、そこに神の加護を求めるのが、ちょっと違う気がする。日本で一昔前まで行なわれていたお百度参りみたいである。民間信仰だ。日本のお参りは宗教ではなくて、ご利益(りやく)を求める迷信だ。キリスト教は罪を悔い改めるのが基本だから、ジェレミーが神にご利益を求めるシーンに違和感があったのは当然だと思う。ジェレミーの信仰は迷信と同じなのか。
 
 そういう訳で、感動的なのは冒頭だけ。ライブイベント以降は、見知らぬサークルのイベントに初めて参加した新入生みたいに、居心地の悪い思いで鑑賞することになった。無宗教の当方にとっては残念な作品である。しかしもしかすると、クリスチャンの方々が観ると感動するのかもしれない。決してキリスト教を貶めている訳ではないので、誤解のなきよう。