三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「真夜中乙女戦争」

2022年01月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「真夜中乙女戦争」を観た。
 
 映画の冒頭から、夜の東京タワーに続く逆さの東京の夜景など、意味不明のシーンが多かった。廃校の通路の光景を回転させたり、意味なく匍匐前進させたり、無駄に長く池田エライザの歌を聞かせたりと、観るのが苦痛に感じられるシーンもあった。
 主人公はルサンチマンを心に抱くニヒリストとして登場するが、その後の台詞はニヒリズムから離れて一定せず、心は揺らぎっぱなしである。何を考えているかわからないのだ。それはつまり、何も考えていないのと同じことである。この主人公に感情移入するのは困難だ。
 柄本佑の演じた「黒服」の世界観も意味不明である。主人公と精神的な議論をしているのかと思えば、いつの間にか精神的な破壊が物理的な破壊にすり替わる。哲学的な話をしているように聞こえるが、実は雰囲気だけであった。ペダンティズムそのものである。
 
 元官僚が語るニヒリズムや賃金の安すぎるハードワークを不条理として描きたいのは分かる。美しいものの代表である花だが、実は花を花屋に卸す業者はアルバイトにタコ部屋労働をさせる悪徳業者で、つまりは悪徳資本主義の代表みたいに描きたいのも分かる。しかし花屋がタコ部屋労働というのはどう考えても無理がある。タコ部屋労働なら何ヶ月も監禁されて肉体労働をするものだ。ダム建設の現場などがそうだろう。しかしそれを描いてしまうと建設業界からクレームが来るから、業界というもののない花屋にしたのだろう。安易で、しかも狡い。
 
 東京を爆破するのに必要な爆弾がどれだけになるのか。2時間の講義を価格計算して講師に詰め寄るなら、爆弾の価格計算もすればよかった。おそらく数兆円単位の価格になるはずだ。重さも体積も、とんでもない量になるはずで、人力では数万人が必要になる。
 他にもツッコミどころは多い。若者は金がないと主張するのにバーに行く。金がない若者はバーには行けないはずだ。爆発の真横にいて、何の怪我もなくただ少し吹き飛ばされるだけという状況はあり得ない。不条理の実存主義哲学なら恋愛要素が入る余地はない筈だが、強引にそれを入れ込む。やはり似而非哲学の作品なのだ。
 
 主人公の演技にリアリティが皆無である。無理もない。設定が矛盾だらけでキャラクターも何もないのだ。演じた永瀬廉くんは、早くこの役を忘れ去ったほうがいい。ただ、柄本佑はこういう演技もできるのだということだけが収穫だった。当方も早くこの作品を忘れ去ることにする。

映画「Moonlit Winter」(邦題「ユンヒへ」)

2022年01月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Moonlit Winter」(邦題「ユンヒへ」)を観た。
 
 ここ数年だが、同性愛をテーマにした映画が多い気がする。LGBTに対する無理解を少しでも減らそうとしているのだろうか。
 
 ところで日本ではLGBTは最近になって話題となっているが、LGBTそのものは昔から存在しているようだ。何かで読んだ記憶があるのだが、古代ギリシアで恋というと男性同士の恋愛のことだったそうだ。日本の江戸時代も男色が普通に存在した。大奥も推して知るべしだろう。年齢や上下関係などの要素もあって、同性愛を一律には論じられないが、資料が残っているということは、社会的に認知されていたに違いない。
 最近になって話題になっているのは、ずっと話題にすることをはばかられていたからという理由もあるだろう。新宿の二丁目は昔からホモの聖地として認知されていたが、ある意味で否定的な認知だった。しかしそれが人間のひとつの性のあり方として、肯定的な認知に変わってきたと思う。だからマツコ・デラックスがテレビで存在感を示している。
 
 本作品は20年前の韓国で社会的に認められなかった悲恋を描いている。現在の韓国は不明だが、現在の日本でも、同性同士の結婚は法的には認められていない。議論も進んでいない。それはある種の人権侵害だろう。同性愛に厳しい国も多数存在していて、イスラム諸国のように同性愛者を死刑とする国もある。殆どが非民主国家である。
 日本国憲法には婚姻を定めた24条に「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、」という文言がある。憲法を改正するとしたら、第9条ではなく、まさにこの条文である。この条文を盾に取って同性婚の禁止を主張する連中がいるから困るのだ。
 憲法13条には「すべて国民は個人として尊重される」とあり、同14条には「すべて国民は法の下に平等であつて」とある。つまり憲法が同性婚だからといって国民を差別することはないはずなのだ。この整合性を理解できない政治家が多いのである。
 
 本作品は必ずしも「ユンヒ」が主人公ではなく、娘のセボム、函館で暮らすジュンの3人の群像劇となっている。ちなみに「ユンヒ」という名前だが、公式サイトが「ユンヒへ」となっているから仕方がないのかもしれないが、映画の中では「ユンヒ」という発音は一度も出てこない。誰からも「ユニ」と呼ばれている。
 ユニとジュンの再会を仕掛けたセボムは、母とジュンの本当の関係を知っていたのかどうかは最後までわからない。ただ、母の人生にとってジュンという人がとてつもなく重要な人なのだということはわかっている。
 ジュンを想うユニと、ユニを想うジュンの、それぞれの暮らしが淡々と描かれる。再会も別れも、淡々としている。日本も韓国も、そうしなければならない社会なのだ。いつか二人のような関係が祝福される社会が来るだろうか。
 
 韓国の社会はいまだに同性愛に対して否定的であると想像できる。作品の中でユニが長期休暇を取ろうとすると、女性の上司から「仕事に責任を持て」と言われる。つまり韓国では個人よりも組織を優先するという考え方が支配的ということだ。組織を優先する社会はLGBTに冷酷である。
 日本の社会は、民間では既に同性婚を認める雰囲気で、市区町村でもパートナーシップ制度の導入が進んでいるが、国の婚姻制度は変わる様子がない。杉田水脈みたいな政治家がその前に立ちはだかっているのだ。他人の幸せを妨害して何が楽しいのだろうか。