三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「truth 姦しき弔いの果て」

2022年01月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「truth 姦しき弔いの果て」を観た。
 
 シチュエーションコメディである。佐藤二朗がカメオ出演している死んだ彼氏は、3年前から3人の女と同時に付き合っていた。しかし曜日を分けて、ひとりと会うのを週一回にして、それを厳格に守っていたから、女同士が3年間、奇跡的にバッティングしなかった。葬式のあと、3人がそれぞれの鍵を使って彼氏の部屋に入室したときが、互いに初見だったという訳である。
 映画はその瞬間から始まる。そして同じ場所で終わる。だから出演者は3人の女だけだ。多少のアクションもあるが、大部分は会話劇である。互いにマウンティングをしたり、差別化を図ったり、優劣を主張したり、怒ったり笑ったり泣いたりと、いろいろ忙しい。しかし不思議なことに、女たちは3股をかけていた「彼氏」のことは少しも非難しない。3人の女たちはただひたすら、自分こそ「第一夫人」だと互いに張り合うのだ。
 
 映画のタイトルは「truth」だが、副題は「~姦しき弔いの果て~」である。3人の女たちは、昭和の時代に活躍した漫才トリオ「かしまし娘」の登場ソング♫女三人揃ったら姦しいとは愉快だね♫の歌詞のように、大変に賑やかであるが、それは亡くなった彼氏に対する彼女たちなりの弔いの形でもあったのだろう。それが「姦しき弔い」の部分である。
 続く「果て」の部分が本作品のラストシーンとなるが、その前にタイトル「truth」の種明かしがある。なるほどねと思った。おそらくではあるが、プロデューサーも兼ねた3人の出演者の原案は「姦しき弔い」としての会話劇から「truth」を跳躍板として「果て」のラストに至るというものだったと推測される。
 なんともベクトルに富んだこの原案を貰えば、堤幸彦監督の脚本は筆が勝手に滑るように出来上がったに違いない。演出は流石にドラマチックだ。将棋のトップ棋士同士の対戦が指したほうが有利に見えるように、喋った女が有利になったように思えるような、ヒリヒリする会話を展開する。百戦錬磨の堤監督にとってはお手の物だったのかもしれない。
 とても濃密な70分間だった。印象に残る作品である。

映画「Escape from New York」(邦題「ニューヨーク1997」)

2022年01月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Escape from New York」(邦題「ニューヨーク1997」)を観た。
 
 警察は時としてカタギよりもヤクザを信用する。カタギは日常的に死ぬことをあまり意識せずに生きているが、ヤクザは常に、いつ死んでもいいと思いながら生きている。勿論カタギにも死の恐怖はあるだろうが、覚悟が違うのだ。命を惜しむようなら、もはやヤクザではないが、
 本作品のように圧倒的に悪い連中が揃っている場所にひとりで潜入するには、警察官では物足りない。警察官とは言っても、カタギだからである。究極の死の覚悟はないのだ。それに警察官は上司の命令で動く公務員である。臨機応変に対応しなければあっさりと死んでしまうような極限状況にひとりで派遣しても使い物にならない。特殊な潜入訓練を受けたCIAの工作員なら本作のミッションもこなせるだろうが、そう簡単にイーサン・ハントはいないのである。
 そのあたりのことを、リー・ヴァン・クリーフ演じる警察のボスが知らないはずはなく、お誂え向きにその場に悪党のスネーク・プリスキンがいて、おまけに元特殊部隊ときている。胆は据わっているし、闘争能力も申し分ない。それに乗り物の操縦や運転はお手の物だ。こいつを使わない理由はない。
 
 現場に到着してからのストーリーはジョン・カーペンター監督らしくリアルである。主人公は決してスーパーマンではないし、奇跡も簡単には起きない。まだCGが普及していない時代である。模型のチープ感を指摘するのは野暮というものだ。リボルバーやMAC10が無限に撃てたりすることにも目をつむる。
 カーペンター監督はSF映画やホラー映画に世界観や政治的なテーマを盛り込む。本作品もその例に漏れず、第三次大戦を始めたアホな大統領と、クズを集めて図に乗るギャングのボス、そのボスに知識を切り売りして生き延びる知識人のヘルマン。ヘルマンに大統領の側近のことをいう「ブレイン(脳)」と名乗らせたのは、カーペンター監督一流の皮肉だろう。
 
 たくさん人が死んだことを悲しみもしない大統領に、プリスキンが密かな反撃を食らわせるラストは洒落ている。主人公のニヒルな世界観は、SF映画では類をみない。プリスキンをモデルにしたと言われるビデオゲームの「メタルギア・ソリッド」のビッグボスは、自身の世界観を明らかにしてない。小島秀夫さんがエンタテインメントに徹したということだろう。