三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Suffragette」(邦題「未来を放束にして」)

2017年03月18日 | 映画・舞台・コンサート

映画「Suffragette」(邦題「未来を放束にして」)を観た。
http://mirai-hanataba.com/

 時代によって、世の中は常に移り変わる。 移り変わるけれども、多数派は常に体制側である。いつの時代も反体制派はなかなか認められず、大抵は無視され、時には弾圧される。弾圧するのは警察やそれに類いする組織だけとは限らない。一般人も、少数派や反体制派には冷たく当たる。無視するだけならまだしも、差別したり罵詈讒謗を浴びせたり、場合によっては殴る蹴る、家に火を付けるなどの野蛮な行為に走ることもある。
 国家という共同体の論理を、大衆は往々にして自分たちの大義名分とする。変化を怖れ、権力に逆らえない自分たちの弱さを、共同体の大義名分で押し隠すのだ。それが時代というものだ。つまり時代とは人間の弱さの集合体なのである。時代に逆らうには、大変な苦難を覚悟しなければならない。
 どんなに理不尽な考え方であってもそれが体制側、つまり権力の側のものだと、反対するのには勇気が要る。戦争反対は今では誰もが抵抗なく主張するが、戦時中にも同じように主張できたかというと、かなり疑わしい。大本営の戦争礼賛発表をそのままマスコミが報じ、勝った勝ったと国を挙げて浮かれているときに、ただひとり戦争反対を主張することができるだろうか。その先には、逮捕され拷問を受け、家族を犠牲にする現実が待ち構えている。
 100年前のイギリスで婦人参政権を認めてもらおうとする運動も、同じように厳しい闘いであったに違いない。子供がいて、その将来を願うことだけが生き甲斐の若い母親にとって、運動に参加することは即ち時代に逆らうことだ。世間からの風当たりは相当に強く、人格まで容易に否定される。

 イギリスの詩人オーデンは、詩の中で次のように書いている。

危険の感覚は失せてはならない。
(中略)
見るのもよろしい。でもあなたは跳ばなければなりません。安全無事を願う私たちの夢は失せなければなりません。

 この詩がイギリス人によって書かれたことは、民主主義の歴史にとってある意味で象徴的である。人間はともすれば世間に負け、時代に流される。二十世紀の初頭に勇気を出して闘った女性たちの行為を仇花にしないためにも、現在の我々もまた、闘い続けなければならない。自分たちの尊厳を守り、時代に蹂躙されないためである。

 そういった背景を踏まえてこの映画を観ると、婦人参政権を勝ち取ったのは美しい女性たちが華麗に闘ったのではなく、世間に疎まれ迫害されながら、泥に塗れて地を這いつくばって運動を続けた勇気ある女性たちなのだということがよくわかる。
 女優陣は社会の底辺にいる当時の女性たちを上手に演じている。中でも主役を演じたキャリー・マリガンは、貧困と重労働に苦しみながらも、参加した公聴会をきっかけに自己主張することを学び、平穏を願う自分自身の弱さと闘いながら生き方を変えていく若い母親の複雑な心情をよく表現できていた。息子に、「あなたの母親はモード・ワッツ」と語りかけるところでは、誰もがホロリとくるだろう。
 こういう映画こそ、脚光を浴びてほしい。


映画「A Brilliant Young Mind」(邦題「僕と世界の方程式」)

2017年03月12日 | 映画・舞台・コンサート

映画「A Brilliant Young Mind」(邦題「僕と世界の方程式」)を観た。
http://bokutosekai.com/

 人間の精神面の発達障害については、いまだ解明途上である。発達障害のさまざまな特長に関する呼称は沢山ある。しかしなぜ障害が起きるのか、どのような過程で起きるのかなどは、よくわかっていない。そもそも生きている人間の脳内の話である。解明が困難であることだけはよくわかる。
 自閉症の中にはコミュニケーション能力等の発達障害と同時に、特定の優れた能力を得る場合があるのは誰もが知っているところだ。サヴァン症候群などがその典型だろう。

 本作は数学に抜きんでた才能を持つ自閉症の子供ネイサンの話であるが、テーマは数学でも数学オリンピックでもない。テーマを読み解くキーワードはいくつかの台詞として現われている。
 一つ目は、子供の頃、落書きのように描いている図形や数式について尋ねた母親に向って「頭が悪いから理解できない」と言う。それはつまり、子供ながらに自分の数学の才能を自覚しているということだ。そして数学の才能があることだけが自分のレーゾンデートルであることも理解している。
 二つ目のキーワードは数学オリンピックの合宿に向かう飛行機の中で同行の女の子に言われた、数学について地元でどれだけ優れていても、ここではただの人だという言葉。自分の唯一の取柄であった筈の数学の才能が、レベルの高い世界では決して抜きんでたものではないと認識させられる。その結果、生きていることが不安になる。
 三つ目のキーワードはチャン・メイと交わす会話だ。こだわりをチャン・メイにいとも簡単に相対化され、シュリンプ・ボールと綽名までつけられる。
 四つ目のキーワードは、合宿の引率者が帰国間近にネイサンに言う、きみの数学はとても美しいという言葉だ。哲学では真善美という概念がある。真は善であり美であるという考え方だ。ネイサンの数学が美しいのなら、ネイサンの数学は真実であり善である。引率者の言葉は、ネイサンの数学の将来は決して暗いものではないことを示している。
 そして五つ目のキーワードが、チャン・メイといると心も体も変な感じになると、母に告白するネイサンの台詞である。性欲を感じ、恋をしたことで、母親に自分のことを伝えられるコミュニケーション能力を獲得したことがわかる。ネイサンは少し大人になったのだ。

 救われるのはネイサンだけではない。夫を亡くした不幸な母親にも、数学の才能に恵まれながら世を僻んで不自由な生き方をしている足の悪い教師にも、それぞれの救いを与える。
 つまりこの映画のテーマは、ネイサンが思春期の初恋をきっかけに人とのかかわりに喜びを見いだしていく話を軸にした、人生の全面的な肯定なのだ。
 数学の難解な問題もところどころで登場する。20枚のカードを裏表にするゲームが必ず偶数回で終了することを証明する課題がある。指名されたネイサンは、二進法の論理を用いて見事に証明してみせる。実に胸のすく場面である。


映画「Into the Forest」(邦題「スイッチ・オフ」)

2017年03月12日 | 映画・舞台・コンサート

映画「Into the Forest」(邦題「スイッチ・オフ」)を観た。
http://aoyama-theater.jp/feature/mitaiken2017
(前日に観た「Equals」(邦題「ロスト・エモーション」)と同じサイトなので重複した画像が出るかも)

 あらゆる電気が消え失せてしまうという荒唐無稽な設定の邦画「サバイバルファミリー」に比べたら、電気の供給がなくなるだけで電池や発電機は普通に使えるこちらの作品の方が設定の点ではまだ現実的である。
 しかし電気の供給がなくなった後の生活は、こちらの方がファンタジックだ。簡単にいうと、危機感がない。食糧も燃料も限られているというのに、姉妹はダンスと勉強に余念がない。ただ、電気がないことで人心が荒廃しはじめていることには十分気づいている。
 姉妹が状況の本当の切実さを実感するのは、父親が亡くなってからだ。伏線はある。訪れたマーケットや通りがかったガソリンスタンド、帰宅途中に停車していた自動車などで、理性を失いつつある人間たちを見かける。徐々に壊れはじめた家で細々と食いつないでいる姉妹を、誰かが襲ってこないとも限らないのだ。もうひとつの伏線は本だ。インターネットで勉強していた妹に、電気がなくても本があると父親が言っていた。
 危険の感覚と知識。妹の役割は決まった。姉の役割は妹の補佐かと思っていたところに、新しい事件が起きる。

 電気ガス水道通信という4つのインフラが十分に供給された都会の生活では、原始的な行動は食と性、それに排泄だけだ。これらは日常の習慣となっているため、新しい感動はなかなか得られない。しかし妊娠と出産は、ひとりの女性にとって稀有な体験であり、ヒトという種の一個体としての原始的な感覚を実感するものに違いない。
 哺乳綱霊長目のヒト科ヒト属の単一種として原始社会から食物連鎖の頂点にいつづけたヒト。その地位を獲得したのはひとえに知恵によるものだ。自分たちには知恵があるのだ。文明よ、さらば。───映画もいよいよ終わりを迎える場面で姉の役割に気づくと、この映画の世界観とストーリーがいかに立体的にできているかがよくわかる。カナダという森の豊かさに恵まれた広大な土地でなければ製作されなかったであろう、ヒトと自然を歴史と哲学の観点で描いたスケールの大きな傑作である。
 邦題は原題の直訳「森のなかへ」としたほうが直感的にわかりやすかった。


映画「Equals」(邦題「ロスト・エモーション」)

2017年03月10日 | 映画・舞台・コンサート

映画「Equals」(邦題「ロスト・エモーション」)を観た。
http://aoyama-theater.jp/feature/mitaiken2017

 SF映画ではあるが、内容はラブストーリーだ。
 世界観はユニークで、人類が最終戦争で全滅に近くなったのは、人間の感情が原因なのだという。そこで残った人間たちはゲノムを操作して感情のない人間だけの世界を作り出したという設定だ。
 人間の精神活動は感情も理性も論理も直感も、それぞれが個別に存在しているわけではない。広大な無意識の空間に意識がぽっかりと浮んだり沈んだりしているのが人間の精神だ。感情だけが個別に浮かんでいるわけではない。遺伝子から感情だけを取り除くというのは無理のある設定で、とても映画など作れそうにないが、流石はハリウッドである。遺伝子みずからが失われた感情を取り戻そうとするはたらきを、SOSという病気であるという形で設定し、力わざで実写映画にしてしまった。

 実は人間を不幸にするのは感情であるという考えかたは、ブッダの言葉の中にもある。「スッタニパータ」という本のなかでは、感情という言葉ではなく、執著と言っている。曰く、名前を付けるのがよくない。名前は愛情を生み、愛情は即ち執著である。執著は恐怖と不安を生む。色即是空、空即是色という般若心経の言葉のとおり、本来は無である筈のこの現世のヒトやモノに執著することが悟りを妨げる。
 この映画にも、もしかしたら仏教的な思想の敷衍があったかもしれない。そう考えれば実験的な映画でもある。

 昔、歌手から政治家になった中山千夏が、男女の愛情は即ち性欲であると、本のなかで喝破していた。この映画の中でのラブストーリーは、性欲からはじまる。ここにも映画のユニークな世界観が窺われる。そして生めよ増えよという、いわゆる人類の歴史であるパラノドライブに感情が繋がっていく。
 穿った見方をすれば、リドリー・スコットは、突き詰めた未来が円を描いて人類のはじまりの種明かしになるというお得意の設定を、この映画でも表現したかったのではないか。そう考えると、主役のふたりがアダムとイブに思えてくる。
 出演者は、感情を取り除かれたという困難な役柄を微妙な仕草や表情でよく演じていた。観賞直後は不思議な思いであったが、いろいろなシーンが印象に残り、忘れ難く蘇ってくる。
 ハリウッドとしては久しぶりに出色の作品である。


映画「本能寺ホテル」

2017年03月05日 | 映画・舞台・コンサート

映画「本能寺ホテル」を観た。
http://www.honnoji-hotel.com/

 綾瀬はるかは去年公開の「高台家の人々」でもそのコメディエンヌぶりを遺憾なく発揮していたが、この人が出ると映画全体から力が抜けて気楽に見られる作品に早変わりする。それは悪い意味ではなく、時代劇だろうがラブストーリーだろうが、それらを全部等身大の自分の日常に引き戻すパワーがあるということだ。それは演技力というよりも綾瀬はるかというキャラクターによると思う。是非今後は三谷幸喜の映画や舞台にも出てほしい。

 ストーリーは大方の予想通り、綾瀬はるかがタイムスリップして本能寺の変の当時の本能寺に行ってしまうスラップスティック(ドタバタ)喜劇だが、現在と過去には綾瀬はるか以外に何の接点もなく、何の類似もないというところが却って潔い。現在と過去がシンクロしあってストーリーが進むのかなと思っていた。まあ、忙しいフジテレビの制作で、そこまで手の込んだ脚本は書けなかったのかもしれない───という疑問には蓋をしておくことにする。

 堤真一はこのところテレビドラマのスーパーサラリーマン役で演じている脱力系のイメージがあったが、硬派の演技もできるちゃんとした俳優なんだと改めて見直してしまった。
 ヒマな時にストレス解消で観るのに最適の映画である。


レース結果~弥生賞

2017年03月05日 | 競馬

弥生賞の結果
1着カデナ     無印
2着マイスタイル  無印
3着ダンビュライト 無印

私の印
◎サトノマックス  5着
〇ダイワキャグニー 9着
▲グローブシアター 8着
△ベストアプローチ 4着 

馬券は1~3着馬がすべて無印でハズレ
レースは1000m通過が63秒2のスローペース。それでいて上がりが35秒0もかかり、勝ちタイムが2分3秒2という、弥生賞史上まれに見る低レベルの結果であった。時計の出にくい馬場だったのかもしれないが、それにしても遅い。勝ったカデナの上がりタイムも34秒6でメンバー中最速というのだから、評価はかなり微妙だ。皐月賞馬はスプリングステークス組か、共同通信杯からの直行馬のいずれかになりそうだ。
本命に推したサトノマックスカデナの後ろから大外を回って5着。フットワークもよく、将来性はこの馬が一番だろう。 


弥生賞~サトノマックス

2017年03月05日 | 競馬

◎サトノマックス
〇ダイワキャグニー
▲グローブシアター
△ベストアプローチ

弥生賞はおそらくスローペースになるだろうから、後方から行く馬は脚を余しそうだ。
サトノマックスの未知の魅力に賭けることにした。新馬戦の一戦だけだが、1頭だけモノが違う競馬をしていた。 スローペースでもある程度前に行ける脚はありそう。
強敵は2連勝中のダイワキャグニー。血統のせいか、あまり人気のない馬だが、府中での2戦はいずれも先行しての勝利。ここも前に行って先に抜け出す競馬をする分、アドバンテージがある。
前走重賞になったホープフルステークスで大外を回ってしまって3着に負けたグローブシアターと、セントポーリア賞が前残りの展開になって脚を余してしまったベストアプローチが連下。

馬券は3連単フォーメーション◎〇-◎〇▲△-◎〇▲△(5、9-1、3、5、9-1、3、5、9)12点勝負


レース結果~チューリップ賞

2017年03月05日 | 競馬

チューリップ賞の結果
1着ソウルスターリング ◎
2着ミスパンテール   無印
3着リスグラシュー   無印

私の印
◎ソウルスターリング    1着
〇ミリッサ       4着
▲アロンザモナ     7着
△エントリーチケット  10着 

頭から買った◎ソウルスターリングは2馬身差で完勝したものの、2着馬と3着馬が無印で3連単はハズレ

レースは前半の800m通過が46秒4のやや速めのペース。このペースを楽に5番手で追走したのが勝ったソウルスターリング。直線入り口で先団に並びかけると、直ぐに抜け出して後続を突き放した。万全の横綱相撲であり、桜花賞はよほどのアクシデントがない限り、この馬が勝つだろう。
3着のリスグラシューは前走の1馬身1/4差から今回は2馬身半の差に広がってしまった。本番での逆転は難しいだろう。逆に狙い目となったのが2着のミスパンテール。久々の重賞で2馬身差の2着なら、本番での上昇を見込むと、再度この馬が2着になる可能性がある。4着のミリッサは馬格がなく、これが精一杯かもしれない。

ソウルスターリングの強さばかりが目立った一戦だった。 


映画「サバイバルファミリー」

2017年03月04日 | 映画・舞台・コンサート

映画「サバイバルファミリー」を観た。
http://www.survivalfamily.jp/

 小日向文世と深津絵里が夫婦役を演じるというだけで、ある種のアンバランスが想像される。アンバランスは静止エネルギーと同義であり、何かのきっかけでダイナミックに動きはじめる。両俳優とも、期待にそぐわぬ見事な演技だった。

 ファミリーはいかにも現代的な家族で、最初のうちは、当然ながらまったく感情移入できない。仕事最優先で家族を顧みない夫、我儘勝手な息子と娘に、性格は悪くないが能天気な妻。
 ストーリーは予告編や公式サイトにある通りのサバイバルだが、特殊な能力の持ち主が現れることも、思わぬ幸運が舞い込むこともなく、等身大の人間が体当たりで状況に挑む、ある意味で振り切った演出だ。ところどころに伏線や思わぬゲスト出演があって、楽しめる。

 電池や発電装置をふくむ、あらゆる電気が突然なくなる生活は、特に若い世代を直撃する。スマホが使えなければ友達でなくなるのは、つまり友達はスマホの中にいたということだ。
 サバイバルの中で家族の絆は強まるが、逆に家族以外に対しては微妙に排他的な心理状態になる。それでも礼儀を忘れないのは日本人らしいし、助け合える状況では進んで助け合う。まっとうな家族が極限状況に陥ってなおまっとうであり続ける、稀有なサバイバル生活を過ごす物語で、自分でもきっとそうするに違いないという共感があり、ストーリーの途中からは完全に家族に感情移入している。

 蒸気機関車がトンネルをくぐった後の車内のシーンがこの映画の白眉ではなかろうか。どんな状況でも家族で笑えるのはいいことだなと、しみじみ思わせる幸せなシーンだ。


映画「Experimenter」(邦題「アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発」)

2017年03月04日 | 映画・舞台・コンサート

映画「Experimenter」(邦題「アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発」)を観た。
http://next-eichmann.com/

 イーストウッド監督、トム・ハンクス主演の「ハドソン川の奇跡」を思い起こさせるような、静かな、大人の映画である。

 何故邦題に「アイヒマンの後継者」という文言を入れてしまったのか。アイヒマンの記録映像が短時間流れるが、作品はアイヒマンとはほぼ無関係だ。そもそもミルグラム博士は後継者でも何でもない。それに「恐るべき告発」をしている訳でもない。心理学の実験をして、論文を発表しただけだ。「アイヒマン」だの「恐るべき」だのといろいろな言葉を詰め込むよりも原題の通り「実験者」としたほうがよほどましだった。キャッチ―なタイトルにしたいという下種な下心が透けて見える邦題のせいで、却って観客を減らしたかもしれない。せっかくいい映画を配給しているのだから、志を高く持ってほしいものだ。

 映画は原題の通り、実験を行なったミルグラム博士についての話である。科学者らしく客観性と統計確率が保たれるように工夫しながら実験を繰り返し、結果を発表した。実験の方法について、道徳的、倫理的な批判が常について回るが、実験の意図は道徳や倫理よりもずっと上の次元にある。

 世界観は非常に哲学的だ。曰く、人間の行なう社会的行為の多くが、命令と服従の関係によって成り立っている。戦争も大量虐殺も、普通の人間が、上の人間から指示されたことを普通に実行しただけで、日常の仕事と何ら変わることはない。指示に従うことは人間の基本心理であり、拒否できる人は常に少数派だ。命令と服従がいたるところに存在するなら、この世界は平等ではない。そして自由でもない。自由と平等を民主主義の基本原理とするこの世界では、誰もそのことを認めたがらない。人間が自由を手に入れるのはいつの日だろうか。

 主役であり語り手でもある博士が、しばしば観客に直接話しかける。シニカルなその語り口は、見る者を飽きさせない。
 実験は単純だが、実験結果の因果関係を考察すると、人間社会の成立時にまでさかのぼることになる。道徳や倫理が出現する遥か以前にまでだ。非常に奥が深い作品であり、博士の問題意識は実験の様子と重なって、いつまでも心に残る。