三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「テル・ミー・ライズ」

2018年09月11日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「テル・ミー・ライズ」を観た。
 http://tellmelies.jp/

 1969年の発表というから、かれこれ50年も前の映画である。第二次大戦後に世界の警察となるという野望の取りつかれたアメリカは、キューバ危機後のソビエト社会主義共和国連邦との対立もあって、世界の様々な地域に軍隊を送り込んでいた。ベトナムでは多くの兵士が帰国後にPTSDを発症し、大量の自殺者を産んだ。彼らは熱帯雨林のジャングルに紛れるベトコンから時折手痛い反撃を食らい、ヒステリックな絨毯爆撃や枯葉剤の大量散布などを行なった。核兵器を使わなかったのは世界中でベトナム戦争反対の声が上がっていて、アメリカが世界から孤立するのを恐れたからだと一般的に言われているが、本当のところはわからない。当時の大統領がジョンソンでなくてドナルド・トランプだったら核兵器を使っていた可能性もある。
 本作品はコラージュのように世界各地の反戦運動を描写し、反戦歌も紹介している。残念ながら日本の反戦歌は登場しないが、日本にも、谷川俊太郎作詞、武満徹作曲の「死んだ男の残したものは」という名曲がある。戦争が齎す悲劇をストレートに伝えた歌詞で、武満徹のマイナーコード全開のメロディーが重苦しさを運んでくる。日本国内の反戦運動はベ平連を中心に広まり、70年安保で暴力的なデモの頂点を迎え、そして挫折という言葉と共に廃れていった。

 この映画のハイライトはふたつの焼身自殺だ。ベトナム戦争に対する抗議の自殺として、何度も報道に取り上げられているから知っている人もいるだろう。仏教の僧侶とクエーカー教徒の勤め人である。それぞれの宗教は自殺の動機とはあまり関係がない。戦争反対を華々しくセンセーショナルに主張したかっただけだ。彼らを英雄視する必要はない。
 ただ、人が自殺するにはかなり強い動機が必要だ。死の恐怖は苦痛のイメージと重なって、自殺者を逡巡させ、躊躇させる。しかし絶望があまりにも大きければ、死の恐怖も苦痛も気にならなくなり、人は簡単に自殺する。戦争による絶望がそれだけ大きかったということだ。

 戦争を扱った映画だから当然のことだが、悲惨な映像がたくさん流れる。人間の死は、兵士も子供も同じように扱われなければならない。一般市民の被害だけがことさら強調されがちだが、一兵士の死も同じようにひとりの人間の死である。将棋の駒が相手に取られるのとは違うのだ。その違いを理解しない人たちが、いまもなお戦争を始めようとしている。集団的自衛権の行使、特定秘密保護法の施行、共謀罪の成立など、日本でも戦争への準備は着々と進んでいる。いまだに発電を続けようとしている原発は、原子爆弾の製造所でもある。
 映画として面白い訳ではないが、いまこそ反戦運動の意思表示が必要だと思わせる作品であった。


映画「判決、ふたつの希望」

2018年09月10日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「判決、ふたつの希望」を観た。
 http://longride.jp/insult/info/top

 キリスト教とイスラム教、市民と難民、それぞれの共同体、そして文化と風習の異なる人々がごっちゃになって生きているのが中東地域である。そこに何らかの潤滑油がなければ、小競り合いはしょっちゅう起きるだろうし、時には紛争に発展することもあるだろう。中東地域の共同体のパラダイムは、日本では考えられないほど強い影響力を持っている。ときには拘束力となって人々の精神を縛る。
 日本ではイスラム教徒の観光客が増えており、ホテルや飲食店はハラム対応に力を入れている。それは異文化を受け入れるという寛容の精神からではなく、観光客がもたらす収益が目的である。いかにも資本主義的だ。当方もハラル対応のセミナーに出たことがあるが、規定が細かくて、兎に角大変そうだった。

 難民が近くに来たからといって、自分たちの生活が直ちに難民の文化の影響を受けるわけではない。しかし祈りの声や食べ物の臭いを騒音や悪臭と受け止める人々もいる。不寛容な人々だ。まだ被害を受けていないのに被害を受けたような気になる被害妄想である。その被害妄想の根っこには未知なるものを恐れる根源的な恐怖心がある。
 恐怖心は群れることで薄らぐから、人間は基本的に群れやすい。大きな魚が一尾だけで悠々と泳いでいるのに、小魚は群れて泳ぐのと同じだ。しかし人間同士には大きな魚と小魚ほどの違いはない。鮪と鰯のように、100キログラムと100グラムみたいな1000倍の違いはないのだ。70キログラムの男はいるが、70トンの男はいない。だから本来は人間は他の人間に対して鰯みたいに逃げ惑う必要はないのだ。
 そう考えると、人々が互いに争い、憎悪するのは、根源的には恐怖心に由来する。未知への恐怖、異文化、異国人に対する恐怖。その裏返しが共同体への帰属意識である。同文化、同国人に対する同朋意識と言ってもいい。恐怖が不寛容を産み、憎悪を産む。それを上手に利用して自分の権益を拡大した政治家が戦争を起こした。軍歌が勇ましいのは恐怖の裏返しだからである。

 本作品は不寛容による対立が、恐怖心に突き動かされて本質を理解しない人々によって増幅され、大きな社会問題、政治問題になっていく様を描く。キリスト教徒である主人公はマタイ福音書に「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と書かれてあることを忘れている。住んでいる土地を自分たちの土地だと勘違いし、やってくる人を排除する。それに対して、その土地にやって来た者たちは自分たちの価値観で先住者を裁く。
 所有の概念が略奪の恐怖を産んだ。所有がなければ略奪の恐怖もない。しかし人間は所有を主張する。私有地、公有地を主張し、国土や領海を主張する。そして略奪の恐怖が生まれ、先に略奪したほうが勝ちだという争いが始まる。帝国主義戦争である。人間は二千年前からずっと愚かで、不寛容な存在だ。根源的な恐怖心を何万年たっても克服できないだろう。争いは永遠に続くのだ。


映画「寝ても覚めても」

2018年09月09日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「寝ても覚めても」を観た。
 http://netemosametemo.jp/

 若者同士の青春と恋愛模様を描いた作品で、それなりに面白く鑑賞できた。
 東出昌大は女相撲と大正デモクラシーを描いた映画「菊とギロチン」で、若くして獄死した民権運動の活動家を熱烈に演じていて、その演技は高く評価できた。この映画でも堂に入った関西弁で、世界観よりも人間関係に重きを置く関西人をうまく演じている。同僚役の瀬戸康史も自然な演技で、主役を際立たせる役割を上手にこなしていた。
 女優陣の演技は評価の分かれるところだが、少なくとも主役の朝子を演じた唐田えりかの演技には違和感があった。関西弁は大和言葉の細やかさを残しているから、もう少し多様で微妙な表現が出来た筈だと思う。それとも、穿った見方をすれば、SNSのパターン化された言葉遣いに染まってしまった現代の関西弁を誇張して表現しているのかもしれない。寄り目気味の和風の顔は大和撫子のイメージでなかなかよかったのだが。
 昔から女心は山の天気のように変わりやすいと言われている。それは割合の問題で、情緒的な考え方をする人が男に比べて多いということだ。価値観がぶれず、考え方が論理的であれば、そうそう言うことが変わったりしない。
 しかしそもそも、朝子は心変わりしたと言えるのだろうか。何度も何度も亮平の誘いを断った筈だ。偶然発生した吊り橋効果の状況が、必死で拒んでいた彼女の心を溶かし、背中を押しただけとも言えるのではないか。
 亮平は世界観よりも人間関係を重視するタイプである。分析もすれば自省もする。一途で頑固な朝子にどれほどの葛藤があったのか、想像できない男ではない。ともあれ、こういう愛の形があってもいい。人は誰でも人を許すことができるのだ。それは多分、いいことだと思う。


映画「マガディーラ 勇者転生」

2018年09月06日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「マガディーラ 勇者転生」を観た。

 インド映画は「バーフバリ王の凱旋完全版」で初めて観た。歌と躍りが物語の流れの中で無理なく配置されていたので、3時間の長丁場も飽きずに観られた。
 本作品は「バーフバリ…」と同じスタッフとのことで、同じように楽しめるかと思いきや、歌と躍りが唐突だったり長すぎたりして、観ていて少しダレてしまった。
 映画の世界観は「バーフバリ…」と同様に封建主義の大義名分の肯定と恋愛礼賛である。面白味はないが安定感はある。毎度同じパターンでもストーリーや演技に新鮮味があれば観客は飽きずに観る。テレビドラマの「相棒」や「ドクターX」の視聴率が高いのと同じ理屈である。
 思えば「バーフバリ…」は歌も踊りもストーリーも洗練されていた。本作品はまだ洗練の途上だったと思えば納得がいく。映画は観る順番も大事なのだ。


映画「Finding your Feet」(邦題「輝ける人生」)

2018年09月06日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Finding your Feet」(邦題「輝ける人生」)を観た。
 http://kagayakeru-jinsei.com/

 主演のイメルダ・スタウントンは「ハリー・ポッター」シリーズで演じた意地悪なおばさん役人の印象が強烈だったが、本作品では世間知らずの若いときに金持ちに嫁ぎ、他の世界のことは何も知らないまま歳を取ってしまった哀れな老女を生き生きと演じている。
 権威と権力はいつ覆されるとも知れない儚いものだが、そうとも知らずに権威と権力に支えられ、そのパラダイムを信じて疑うことがなかった、主人公サンドラの人生。
 夫の浮気をきっかけに、権威や権力と無縁の、時として権力と闘ってきた姉の生活に触れることで、これまで拠り所としてきた権威や権力、そしてパラダイムの脆さに気がつく。楽しいことを見つけたというよりも、これまでの生活の基盤に真実がひとつもなかったことに気づいたということの方が大きい。

 イギリス出身の詩人W.H.オーデンの詩「Leap before you look」(邦題「見る前に跳べ」)に次の一節がある。
Much can be said for social savoir-faire,
But to rejoice when no one else is there
Is even harder than it is to weap;
No one is watching, but you have to leap.
気の利いた社交界の振舞もまんざら悪くはない、
だがひと気のないところで悦ぶことは
泣くよりももっと、もっと、むつかしい。
たれも見ている人はない、でもあなたは跳ばなくてはなりません。
(深瀬基寛訳)

 姉が妹に跳びなさいと言ったとき、jumpでなくleapを使ったことが非常に印象的だ。leapは精神的な跳躍を意味する。これまでの脆弱な虚構の生活を捨て去って、真実に生きる。それには勇気が必要だ。ましてや歳を取った女性がその勇気を出すのは生活費のことやら何やらを考えれば大変なことである。それでも跳べと姉は言う。この命がけの言葉をサンドラはどのように受け止めたのか、それがこの作品の肝であった。