三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「リグレッション」

2018年10月08日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「リグレッション」を観た。
 http://regression.jp/

 エマ・ワトソンは2年前の映画「コロニア」あたりから、ホグワースのハーマイオニーの印象をすっかり脱して、大人の女性を堂々と演じられるまでになったが、本作品では更に複雑な役を美しくこなしている。
 イーサン・ホークは映画「しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス」では無口で武骨だが思いやりのある夫を好演していたが、本作品ではうって変わって熱血漢の刑事役を演じている。この人は大変に達者な俳優さんで、本作でもあっという間に感情移入させられてしまった。
 ここから先は何を書いてもネタバレになりそうなので迂闊なことは書けないが、ひとつだけ間違いなく言えることがあるとすれば、人は見た目に弱い。そして美人に弱い。
 仕掛けは見事という他なく、スクリーンのこちら側の観客として冷静に観ているつもりが、いつの間にか映画のペースにはまってしまっていた。観終わって思わず、してやられたと唸ってしまう作品である。こういうタイプの映画は初めてで、かなり面白かった。もう一度観たいとは思わないが、一度は観た方がいいと思う。


映画「愛しのアイリーン」

2018年10月08日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「愛しのアイリーン」を観た。
 http://irene-movie.jp/

 映画を観終わってふと、セックス依存症は遺伝するのだろうかと考えた。タイガー・ウッズの事例でも見受けられたように、セックス依存症の人は性衝動を抑えられないことで深刻な事態に直面する場合がある。あれは遺伝なのか。いや、そうではないだろう。
 動物には発情期があり、植物には受粉の時季がある。しかし人間は思春期に性に目覚めたが最後、死ぬまで発情している。つまり人は多かれ少なかれセックス依存症なのだ。度合いの強い人だけがセックス依存症と呼ばれるのは人間の実態とは少し違っている。
 日曜日の昼過ぎの回の上映はほぼ満席であった。上映館が少ないこともあるのかもしれないが、中年の男女の性を真正面から扱ったことの話題性もあるだろう。
 安田顕が演じた主人公をひとことで言えば、42歳で毎日マスを掻くパチンコ店員となる。仕事は真面目だが、 必ずしも将来性がある訳ではない。職場の美人とのセックスを夢見るが、気が弱いから実現には至らず、相変わらずマス掻きの日々だ。
 しかしある日思い立ってフィリピンでの嫁探しのツアーに参加する。そこからストーリーは急坂を転げ落ちるように進んでいく。雪国の閉塞的な環境と、意外に奔放なセックス事情、フィリピンパブで働く出稼ぎのフィリピン女性などが絡み、話は下世話に進んでいく。
 伊勢谷祐介が演じた、売春婦としてのフィリピン女性を仕入れる女衒が繰り広げる、日本とフィリピンの地政学的な力関係の図式は、ある一面の真実を衝いてはいる。
 その図式を振りかざしてアイリーンを説得しようとするものの、彼女は納得しない。彼女の認識は人間対人間の個別の関係性だけで、それは国と国の関係性の図式には収まりきれないのだ。
 アイリーンは自分が売られたことを認識しているが、卑屈にならず、飛び込んだ環境で真実を見つけようとする。勿論それなりの強かさもある。この女優さんは実に達者である。
 安田顕の振り切った演技につられるかのように、木野花の演技も凄かった。所謂ムラ社会のパラダイムに縛られるよりも、息子に対する情念のような感情が怒涛のように溢れ出て、思い詰めた母親のおどろおどろしさが圧倒的な迫力で迫ってくる。
 なんだかとても凄いものを見せられた気がするが、日頃理性の仮面を被っているわれわれ人間という生き物が、ひとたび本性をさらけ出したらどうなるか。その答えのひとつのような気もするのであった。


映画「イコライザー2」

2018年10月07日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「イコライザー2」を観た。
 http://www.equalizer2.jp/

 このシリーズはデンゼル・ワシントンの静かで無駄のないアクションが見処の映画である。今回も同様であったが、少し見飽きた部分があるのと、悪役のスケールが小さくて若干の拍子抜けがあった。
 その代わりに、同じアパートに住む若い男との交流がある。視野が狭くて価値観が定まらず、ともすればグレそうになる彼を勇気づけ、悪から救い出す。そのときに言う台詞が、置かれた環境や黒人差別のせいにするなという言葉である。アメリカ合衆国は依然として、黒人差別の国であり、格差社会の国であるということが、この台詞からわかる。単なる勧善懲悪の映画ではない複雑な背景があるのだが、そのあたりは観客の想像に委ねられる。
 CIA時代の元上司の白人女性は、こちらが黒人でも分け隔てなく接してくれた。その女性上司が殺されたことは、主人公にとってはアメリカの良心が踏みにじられたに等しい。湧き上がる凄まじい怒りを抑え、冷静に犯人をあぶりだしていく。
 もう少しアメリカ社会の構造的な歪みを描くことができればもっと奥行きのある映画になったと思うが、商業的にはアクション主体の勧善懲悪劇が求められていたという、いわゆる大人の事情があったのだろうと推察する。
 それなりには楽しめる作品だが、権力中枢にいる巨悪が登場したり主人公が社会全体から追い詰められたりしないので、やや中だるみがあったのは確かだ。


映画「日日是好日」

2018年10月07日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「日日是好日」を観た。
 http://www.nichinichimovie.jp/

 一期一会。利休以来の茶の湯の真髄を示す言葉だ。その日その時その場所での邂逅を喜び、堪能するのがお茶の心であり、それはとりもなおさず人生の楽しみでもある。この言葉は映画の中の台詞にも出てくる。
 諸行無常。平家物語の最初に出てくるこの言葉は、時代の移り変わりと人の栄枯盛衰をたった四文字でいみじくも表現している。さすがにこの言葉は台詞としては出てこないが、登場人物それぞれの物語ひとつひとつを語る黒木華のナレーションには、諸行無常の響きがある。
 この作品には、二つの四字熟語をひとつのドラマで描いたような、深い味わいがある。茶道の映画だけあって、シーンの大半は茶室が舞台であるが、二十四節季に合わせて掛け替えられる掛け軸と、気候に合わせて供せられるお茶菓子のひとつひとつには、見るたびにハッと気づかされるような繊細なセンスがあり、それぞれのシーンの楽しみにもなっている。唯一変わらないのが「日日是好日」という書で、決して掛け替えられることはない。掛け替えのない言葉なのだ。
 世の中では、茶室がその後茶の間と呼ばれて家族が季節を愛でたり気持ちを交わしたりする部屋となったが、いつの間にかテレビを見る場所になり、そして今では茶の間という言葉さえ死語になりつつある。それこれも諸行無常だが、日日是好日という一期一会の感性は、これからも受け継がれていくだろう。

 樹木希林の演技は、もはや何も言うことがない。芭蕉にとっての松島のように、映画の樹木希林は、樹木希林なのであった。
 黒木華は、決して美人ではないが大和撫子らしい奥ゆかしさと清々しさがある主人公を十分に演じた。先に形を作って後から心を入れていけばいいという、とても分かりにくい師匠の教えを、鵜呑みにもしなければ頭から否定もしない。答えを出す代わりに、年月を経て彼女なりの所作、彼女なりのお茶を見つけていく様子が、美しい四季の映像とともに描かれ、心が洗われるように涙が止まらなかった。
 大森立嗣監督は、三浦しをん原作の「光」でその独特の世界観を披露していた。不協和音の演出は賛否両論だったが、多分どうしても心の中のカオスを表現するのに必要だったのだろう。本作品でも海に浮かぶ父親のイリュージョンに対して絶叫する不思議なシーンがあった。大和撫子の心の中にも闇はあるのだ。
 嗚咽して号泣して涙と一緒に闇が流れたとき、再びお茶を楽しむ日常が戻ってくる。日日是好日。本当に素晴らしい映画だった。