三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Victoria & Abdul」(邦題「ヴィクトリア女王 最期の秘密」)

2019年02月11日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Victoria & Abdul」(邦題「ヴィクトリア女王 最期の秘密」)を観た。
 http://www.victoria-abdul.jp/

 ヴィクトリア朝と言えば、イギリスがグレート・ブリテンとしてアジアやアフリカに帝国主義の侵略を展開した時期であり、世界史の授業を受けた限りでは、ヴィクトリア女王は冷血で鉄面皮の暴君という印象である。
 しかしこの作品の女王は、強大な権力を持つ世襲の君主であることを自覚しつつ、人間らしさも見せている。立憲民主政が進みつつある内政の一方、対外的には強力な軍事力を背景に植民地化を進めている中で、必ずしも征服した地域の文化や宗教を蹂躙することはなかった。それは文化に寛容で、人を差別しないヴィクトリアの人間力によるところが大きかったのかもしれない。
 夫の死からこれまで、王位の孤独にひとりで耐えてきたヴィクトリアは、5人の首相をはじめとする多くの政治家たち、自分に使える侍従たちや女官たち、子孫たちとその家族など、兎に角たくさんの人々と接してきたことで、人の本質を見抜く力を身に着けてきた。それは孤高の女王として生きていく上での最も重要な武器でもあった。周囲の人々はそんな女王を畏れ、敬遠しながらも、地位に恋々としている。それがまた女王の孤独をさらに募らせる。

 さて本作品のインド人アブドゥルは、そんなヴィクトリアの眼鏡に適った人間である。夫がなくなって以降、忘れていた人との触れ合いの喜びを取り戻す。この辺りはほのぼのとしてとてもいい。春に氷が溶けるように、長い冬に閉ざされていた女王の心が漸く溶けていく。アブドゥルはイスラム教徒であることを貫きつつ、英国国教会の首長である女王に対等に接する。アブドゥルの平静な精神力もすごいが、受け入れた女王の胆力は驚嘆すべきであった。
 イギリスの帝国主義には肯定する点はひとつもないが、ヴィクトリアが歴史的に重要な役割を果たし、そして最期は幸福な時を過ごしたことは、ひとつの救済であった。温かみのあるいい映画だった。


映画「First man」

2019年02月10日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「First man」を観た。
 https://firstman.jp/

 ダラスで狙撃によって暗殺されたジョン・フィッツジェラルド・ケネディは、今でも人気のある大統領で、空港や原子力航空母艦にもJFKとして名前を残している。アメリカ人は日本人以上にミーハーなところがあると見えて、若くスラッとしてハンサムな大統領がカッコいいと思っているのだろう。
 しかし彼の有名な演説の一節「国が国民に何ができるかではなく、国民が国のために何ができるかを考えてほしい」という言葉から、実はそれほど頭のよくない全体主義者であり、楽観主義者であったことがわかる。もともと戦争の英雄で、政治に長けているわけではなく、マリリン・モンローと浮き名を流すだけが精一杯だったのだ。
 そしてそのケネディが強力に推し進めたのがアポロ計画である。彼は演説で、登山家が山に登るのと同じように、そこに月があるから行くのだという、情緒的なことを言っている。たしかに、見たことのないものを見てみたい、行ったことのない場所に行ってみたいという気持ちは多くの人にあるから、その点は納得できるが、国民の税金の使い道を決める政治家としては、行ってみたいから行くのだという演説は、国民の理解を得るにはあまりにも子供じみていた。
 大統領が国民を十分に納得させることができなかったおかげで、アポロ計画に関わる人々は、肩身の狭い思いをせざるを得なかったが、実際に従事している人々は自宅とNASAの行き来だけだから、それほど悩まされることはなかっただろう。むしろ大変だったのは家族の方である。近隣や学校との関わり合いの中で、世間の批判に曝されていたはずだ。
 映画はその辺りの様子も上手に描いている。ニール・アームストロング船長の妻を演じたクレア・フォイの演技は実に見事で、いろいろな葛藤を抱えながらも夫を支え、子どもたちをちゃんと教育するヒロインの姿がとても立派に見えた。
 ライアン・ゴズリングはラ・ラ・ランドとブレード・ランナー2049を観たが、ずいぶん器用な俳優である。数々の過酷な訓練や事故、同僚の死など、とにかく様々なことを乗り越えるアームストロング船長を完璧に演じきった。映像と音響も臨場感に満ちた迫力のあるもので、観客の誰もが主人公に感情移入し、まるで自分が月に行ったような気になる。映画が終わった途端に大きく息を吐く音が客席のあちこちから聞こえた。

 月に行くことにどんな意味があったのかはひとまず置いておいて、不安と恐怖を克服して人類として初めて月に行ってそして帰ってきた彼らは、確かに英雄であった。月面着陸という誰もが結末を知っている歴史をもとに、繊細な人間ドラマに仕立て上げた傑作だと思う。


映画「雪の華」

2019年02月10日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「雪の華」を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/yukinohana-movie/

 ほぼ少女マンガだが、たまにはこういうのも悪くない。病弱で引っ込み思案に育った年頃の娘が主人公で、人と関わりを持つためには声に出して伝えないといけないと言われ、素直に頑張ってみるという、如何にも少女マンガのストーリーであるが、主人公の健気なところが琴線に触れる人がたくさんいると思う。ひねくれずに鑑賞すれば、それなりに楽しめる。
 中条ポーリンあやみは、強く抱くと壊れそうな線の細い主人公にぴったりの配役である。温かさに触れると溶けてしまう雪のように、人に触れて心を溶かしてゆく。雪も桜も、儚いから美しい。その冬のその雪、その春のその桜は、二度と見ることができない一期一会の邂逅なのだ。
 閉じ籠っていては人に逢えない。黙っていれば人と関われない。だから声を出していこうと、相手役の悠輔は言う。主人公美雪にとって彼は声も大きく力も強く、エネルギーの塊のような存在である。燃え尽きそうな美雪が彼を選んだのは、ある意味で必然であった。
 悠輔を演じた登坂広臣は、とにかく声がいい。高く澄んでいて、力強く響き渡る。エネルギーに満ち溢れた声だ。当方がプロデューサーだったら、演技力その他は二の次で、声と体格で文句なしに彼を選んだと思う。しかし折角のいい声で「は?」みたいな否定的な聞き返しの台詞を何度も言わされて、少し気の毒だった。おじさんの考える若者言葉の典型だ。今の若者はもう少しデリカシーがある。あんなに「は?」を多用したりしない筈だ。台詞もちょっとは人生観や世界観の片鱗を覗かせてもよかったように思う。
 魔性の女で名を上げた高岡早紀がヒロインの母親役をやっているのには隔世の感を禁じ得なかったが、なかなか堂にいった母親ぶりである。こんなに綺麗でおおらかで優しい母親の子供に生まれたら、ひねくれようがない。美雪が病気に苦しみながらも素直さと優しさを失わないでいられるのはこの母の存在による。その辺りは説得力のある設定で抜かりがない。
 コマーシャルでは「大人のラブストーリー」と勘違いのキャッチになってしまっているが、この作品は、ダメ出しや不整合を指摘するよりも、少女マンガの世界観をほのぼのと受け止めるのがいい。雪や桜やオーロラなど、この世には美しい自然がいくつもあるのだ。


映画「そらのレストラン」

2019年02月06日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「そらのレストラン」を観た。
 https://sorares-movie.jp/

 感心する点はいくつかあった。
 肉を食べるにはその動物を殺さなければならない。白魚など、小さな動物は生きたまま食べることもあるが、最終的には殺すのである。動物に名前を付けてしまうと、殺すのに心理的なブレーキが掛かってしまう。だから畜産業者は家畜に名前を付けない。昔は自宅で鶏を飼っていて、その鶏を食べるときには子供が〆ることが多かった。首をはねて逆さまにして血を出し、羽をむしる。内蔵を取り出して血を洗い、それから捌いてモモとムネと手羽とササミとガラに分け、ササミは生で食べたり、肉は唐揚げにしたりする。そういうものだと思っているから抵抗はない。
 しかし分業の発達した社会では、主婦が鶏の首をはねたり牛の脳天にゲンノウをおろしたりすることはない。殺す人と捌く人はそれぞれ別にいて、主婦はせいぜいスーパーで買った生の肉を料理するくらいである。スーパーで買った肉も、生前は元気に歩いていた筈だが、そんなことを考えたりすると、食べづらくなる。しかし、あえて牛や豚を殺したりする必要はないが、生き物を食べているということを忘れないでいるのは悪いことではない。植物も含めれば、人間が食べているものはすべて生き物なのだ。
 農業や漁業は生き物と直接に接し、その生命で多くの人々の空腹を満たしている。とても立派な仕事だと思う。嘘ばかりついている政治家にはの現場の厳しさはわからないだろう。生命を育てて食料とするのは、戦争で人を殺すことの正反対のことである。農業や漁業は生命を大切にすることで成り立っている。戦争は生命をゴミのように捨て去ってしまう。「それが世界平和だ」というマキタスポーツのセリフは、実は奥が深いのだ。

 料理はおそらく本職の料理人か、フードコーディネーターによるものだと思う。盛付けも食材の組合せもバランスがよくて綺麗だ。食べてみたい料理だ。そう思うのは見た目だけではない。使っている野菜がすべて無農薬なのだ。その上、羊は無農薬の野菜を食べているらしい。つまり映画に出てくる食材は皆、高級食材ばかりなのである。無農薬の野菜が高くて農薬をいっぱい使った野菜や遺伝子組換えの野菜が安いということは、安全な食材が高くで危険な食材が安いということだ。そんな状態は、なんとしても改善しなければならない。政治の役割である。戦争の準備ばかりをしている場合ではないのだ。

 本上まなみがいい。綺麗だし上品だ。謎めいているところも含めて、掃き溜めに降り立った鶴のようである。こういう人が奥さんで素直で明るい子供がいて、何の不足があろうか。幸せを絵に描いたような暮らしだが、それなりに不安や人間関係の軋轢はある。苦労はするが、悪人は登場しない。昭和のホームドラマのようである。登場人物のあまりの前向き加減に少し辟易させられるが、役者陣の演技は実に達者で、それなりに楽しく鑑賞できた。裏のテーマに食の安全があるとすれば、意外に奥行きのあるドラマである。

 感心する点はいくつかあった。 肉を食べるにはその動物を殺さなければならない。白魚など、小さな動物は生きたまま食べることもあるが、最終的には殺すのである。動物に名前を付けてしまうと、殺すのに心理的なブレーキが掛かってしまう。だから畜産業者は家畜に名前を付けない。昔は自宅で鶏を飼っていて、その鶏を食べるときには子供が〆ることが多かった。首をはねて逆さまにして血を出し、羽をむしる。内蔵を取り出して血を洗い、それから捌いてモモとムネと手羽とササミとガラに分け、ササミは生で食べたり、肉は唐揚げにしたりする。そういうものだと思っているから抵抗はない。 しかし分業の発達した社会では、主婦が鶏の首をはねたり牛の脳天にゲンノウをおろしたりすることはない。殺す人と捌く人はそれぞれ別にいて、主婦はせいぜいスーパーで買った生の肉を料理するくらいである。スーパーで買った肉も、生前は元気に歩いていた筈だが、そんなことを考えたりすると、食べづらくなる。しかし、あえて牛や豚を殺したりする必要はないが、生き物を食べているということを忘れないでいるのは悪いことではない。植物も含めれば、人間が食べているものはすべて生き物なのだ。 農業や漁業は生き物と直接に接し、その生命で多くの人々の空腹を満たしている。とても立派な仕事だと思う。嘘ばかりついている政治家にはの現場の厳しさはわからないだろう。生命を育てて食料とするのは、戦争で人を殺すことの正反対のことである。農業や漁業は生命を大切にすることで成り立っている。戦争は生命をゴミのように捨て去ってしまう。「それが世界平和だ」というマキタスポーツのセリフは、実は奥が深いのだ。
 料理はおそらく本職の料理人か、フードコーディネーターによるものだと思う。盛付けも食材の組合せもバランスがよくて綺麗だ。食べてみたい料理だ。そう思うのは見た目だけではない。使っている野菜がすべて無農薬なのだ。その上、羊は無農薬の野菜を食べているらしい。つまり映画に出てくる食材は皆、高級食材ばかりなのである。無農薬の野菜が高くて農薬をいっぱい使った野菜や遺伝子組換えの野菜が安いということは、安全な食材が高くで危険な食材が安いということだ。そんな状態は、なんとしても改善しなければならない。政治の役割である。戦争の準備ばかりをしている場合ではないのだ。
 本上まなみがいい。綺麗だし上品だ。謎めいているところも含めて、掃き溜めに降り立った鶴のようである。こういう人が奥さんで素直で明るい子供がいて、何の不足があろうか。幸せを絵に描いたような暮らしだが、それなりに不安や人間関係の軋轢はある。苦労はするが、悪人は登場しない。昭和のホームドラマのようである。登場人物のあまりの前向き加減に少し辟易させられるが、役者陣の演技は実に達者で、それなりに楽しく鑑賞できた。裏のテーマに食の安全があるとすれば、意外に奥行きのあるドラマである。


映画「デイアンドナイト」

2019年02月05日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「デイアンドナイト」を観た。
 https://day-and-night-movie.com/

 山田孝之は映画「ハードコア」では、人間を力強く肯定する、エネルギーに満ちた作品を披露したが、本作品では逆に、矛盾に満ちた人間社会を鋭く抉って見せた。俳優としては時にチャールズ・ブロンソンのような分厚い存在感を見せてきた山田は、今後はイーストウッドのように演者と制作者の両輪で力量を発揮することになりそうだ。いろいろな意味で楽しみである。
 主人公の明石幸次を演じた阿部進之介は、実はあまり他の作品での記憶がなくて申し訳ないのだが、なかなかどうして実に堂々たる主役ぶりであった。本作の主人公のように心に葛藤を抱えた孤独な中年男がはまり役だろう。今の世相を考えれば、今後そういう主役が増えていくに違いないので、比例して彼の出番も増えそうである。

 中年男が主役なのに何故かヒロインは女子高生である。若者らしいストレートな質問を主人公にぶつけてくる。最初は彼女がいるとかいないとかの無邪気な質問からはじまり、付き合いが長くなるに連れて、人生観や世界観を問う質問に深まっていく。なるほど女子高生をヒロインにした理由はそこにあったのかと感心した。

 明石は大変に真面目な性格で、父親が遺した言葉「善と悪の違いはどこにあるのか?」をずっと考え続ける。善と悪は宗教的な教条に拠る考え方が歴史的に存在し、たとえば人を殺すことは絶対的な悪だと信じられている。しかし戦争で人を沢山殺せば、即ち英雄である。つまり善なのだ。共同体の都合によってひとつの行動が善だったり悪だったりする。父親の宿敵である三宅が言った「正しいとは多数派であることだ」という言葉が、戦争を肯定する共同体の論理そのままである。善悪より前に共同体の存続が優先されるのだ。
 女子高生の大野奈々から聞かれた「復讐して、そのあとどうなるの?」という突き詰めた問いかけに、もし自分が明石だったらどう答えるだろうかと考える。もちろん答えは決まっていないし、映画は答えを与えてくれない。ただ極限状況に置かれた主人公に、善悪の価値観とは何なのか、人間はどのように生きるものなのかを託すのだ。

 スケールの大きな傑作である。清原果耶が大野奈々の名前で歌った主題歌はとても澄んでいて心地のいい歌だった。


映画「Jusqu'q la garde」(邦題「ジュリアン」)

2019年02月03日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Jusqu'q la garde」(邦題「ジュリアン」)を観た。
 https://julien-movie.com/

 導入部分からすぐに物語の設定が飲み込めるようにできている。法律家同士が互いに落とし処を探り合いながら交わす早口の会話から、期せずして登場人物それぞれの相互関係の温度まで伝わってくる。期せずしてと書いたが、勿論それが演出の狙いでもある。
 ジュリアンと男のシーンは観ていてつらくなるが、男の理性が次第に蝕まれていく様子が手に取るようにわかって、こちらにまで危機感が伝染してくる。猛獣と一緒の檻に入っているような感覚なのだ。そしてそこから大団円、さらに結末に向けては一本道で、無駄なシーンはひとつもない。二時間があっという間だ。起承転結のお手本みたいな作品である。

 邦題は子供の名前である「ジュリアン」だが、原題はフランス語の「Jusqu'a la garde」である。翻訳が難しいが、la gardeを親権とすれば、「親権まで」となるのかもしれない。フランスでは離婚の原因がどうあれ、両方の親の親権が認められることが多い。しかし子供の人権を保護するためには現制度でいいのか、疑問が残っている。
 物語の最後になって漸く、原題の仕掛けに気がつく。そして最初の調停のシーンがとてつもなく重要な意味を持っていたことがわかるのだ。

 ジュリアンを演じた子役をはじめ、役者陣の演技は本当に見事で、最初から最後まで映画の世界に引き込まれっぱなしであった。完成度が相当に高い作品である。


こまつ座公演「どうぶつ会議」

2019年02月02日 | 映画・舞台・コンサート

 新国立劇場小劇場で井上ひさし脚本のこまつ座公演「どうぶつ会議」を観た。戦争と公害は子供たちを不幸にするという直球のテーマを堂々と演じる快作である。
 井上ひさしの寛容なヒューマニズムが目の前で微笑んでいるかのようで、その温かさに自然と涙が溢れてくる。元気一杯の芝居は演奏者と演技者が融合する見事な演出で、壮大なテーマをリズムに乗って楽しく観劇できる。観客全員と歌う「どうぶつ憲章の歌」は大変に盛り上がり、私も精一杯歌わせてもらった。
 暗愚の宰相が保身のために仮想敵を作るキナ臭い世相が濃厚な今の世に、心が洗われるかのような清涼な芝居を観ることができて、本当に幸せな時間であった。