三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ミッドウェイ」

2020年09月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ミッドウェイ」を観た。
 日刊ゲンダイに連載されている保阪正康さんの「日本史縦横無尽」というコラムにミッドウェイ海戦のことが書かれている。
 ミッドウェー海戦時の日本とアメリカの海軍の質と量を比較すると、圧倒的に日本が優勢であった。「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の正規の航空母艦を軸にした日本の機動部隊に対し、アメリカ海軍は「エンタープライズ」「ホーネット」の2艦を中心とする戦力であった。搭乗員にしても日本はベテランのパイロットが中心で、アメリカ軍のパイロットは戦闘経験もなく、空母から飛び立ったことのないパイロットさえもいたというのである。それなのに敗れたのは何度か繰り返したように情報力の差であり、全体におごっていたというのが真相である。(2020/4/23日刊ゲンダイ)
 本作品を観ると、保阪さんの指摘がことごとく正鵠を射ていることが判る。米軍の側に立ってみれば、真珠湾で受けた大打撃から海軍を立て直し、ミッドウェイ海戦の勝利に至るまでの苦しい道のりが判るし、日本軍の側に立ってみれば、真珠湾攻撃で講和に至るどころか、眠れる獅子を起こしてしまったと認識していたのが山本五十六以下のごく僅かな軍人たちだけであったと判る。加えて情報戦に長けていた米軍が日本軍を先回りして待ち伏せすることでミッドウェイ島の海戦を勝利することができた。保阪さんの言う通り、情報力の差が勝敗を分けたのだ。太平洋戦争はミッドウェイ島の戦いで大勢が決している。早期の講和を夢見ていた山本五十六の夢はあえなく破れてしまったのだ。その後は軍官僚の面子と保身のためだけに戦争が継続された。もはや負けるために戦っているようなものである。
 戦争に賛成だろうが反対だろうが、死の恐怖、捕虜になる恐怖は変わらない。朝一緒に食事をした人間が夕方には海の藻屑となっている状況は、精神的にかなり堪(こた)えそうだ。人間には何でも慣れる能力があるから、最前線のそんな状況にもいつかは慣れてしまうのかもしれない。しかしPDSDになる者は数多くいる。戦争は人間の精神を破壊するのだ。ミッドウェイ海戦の勝利も敗北も、どちらも喜べない。
 本作品では前線の個人の描写は米軍兵士に限られているが、未体験の戦闘の恐怖や死んでしまうかもしれない絶望感などは米軍も日本軍も同じだろう。戦闘シーンは迫力があってとても興奮した。敵味方の砲弾や銃弾が飛び交う中で攻撃が成功するのはほとんど僥倖に近かったことも判った。戦争映画としては飽きずに面白く鑑賞できる佳作だと思う。

映画「喜劇 愛妻物語」

2020年09月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「喜劇 愛妻物語」を観た。
 タイトルに敢えて「喜劇」とつけたのは「愛妻物語」だけだと大量のツッコミが入ると予想されたからだろうか。朝から晩までセックスのことしか考えていない夫は少なくとも愛妻家ではない。しかしこういう愛妻家がいてもいいでしょうという開き直りの意味での「喜劇」だとすればよく理解できる。ある本によれば男は52秒に一度性的なことを考えるらしいから、本作品の主人公豪太みたいな夫は強ち稀な存在ではないのだろう。手の届かない若い娘よりも、ヤラせてくれそうな吾妻さんにちょっかいを出そうとするのが哀れだ。
 世の中の妻はどうかというと、これも夫と似たりよったりで、本能的であるところは変わらない。動物でも昆虫でも、メスは強いオスと交尾したがる。より強い遺伝子を選ぶことで種の保存を成し遂げたいという訳だ。人間の場合は少し違っていて、種の保存よりも自分の保存を重視し、そのために強いオス、経済力のあるオスを選ぶ。ママ友の自慢話は夫の経済力や地位、見た目のよさ、性的能力の順である。
 ところが本作品のチカは、何故か強くもなく経済力もないオスを選んでしまった。メスの本能に反する選択であり、チカはこの選択をずっと悔いることになる。チカの凄いところは、通常は相手を傷つけるから隠すはずの本音を真正面から当の本人にぶつけ続けるところである。夫婦間ながらパワハラそのものである。そしてパワハラの被害者であるはずの豪太は自分の不甲斐なさに原因があることで、妻からの罵詈讒謗を甘んじて受ける。しかも罵倒されながらも妻とのセックスのチャンスを窺うという、恐ろしく強い精神性の持ち主である。
 現実にこんな夫婦がいたらなるべく近寄らないでいたいが、物語としてはこういう典型的な本音人間を登場させるのは痛快である。他人を気にしながら生きているすべての人は、たまには傍若無人になりたいと願っているのだ。水川あさみは人格破綻したチカを思い切り演じていた。何しろ日頃は絶対に言えない言葉ばかりを大声で撒き散らす役である。さぞかし愉快だっただろう。
 人間は自分が傷つけられないように、他人を刺激しないようにして生きている。他人に酷い言葉を投げつけたら、それ以上に酷い言葉をぶつけられる危険性がある。あるいは哀しそうな表情で無言に沈まれ、いたたまれない気持ちにさせられる。酷い言葉というのは結局自分と相手の両方を傷つける諸刃の剣なのである。
 被害者意識がある間は、優しさを獲得できない。チカがその典型だ。思考の基本が損得勘定だから、どこまでも自分が損をしていると考えて相手を許せないのがこのタイプである。夫の豪太がチカから優しく接してもらうためには無限に与え続ける必要がある。しかし豪太にそんな能力はない。夫婦は最初から破綻しているのだ。
 しかし破綻したままでも夫婦として成り立っているのが人間の面白いところで、だから「喜劇」なのだろう。破綻していても破局しない理由は豪太の我慢と妻への恐怖と稼げない引け目とそれに妻への性欲というのだから、笑えるというよりも泣けてくる。妻の前だとうつろな表情になってしまう夫を演じた濱田岳も、こういうわかりやすい俗物を演じて楽しそうだった。
 愛妻家というと優しく微笑んで妻への感謝を口にするイメージだが、金の切れ目が縁の切れ目みたいな本音を出してみたらどうなのか、愛妻家の定義をいつまでも妻に対する性欲を失わない男のことにしたら面白いんじゃないかという発想で生まれた作品だと思う。こういう夫婦には誰が総理大臣になっても関係ないのだろう。巷間の夫婦のありようとして面白く鑑賞できた。

映画「海の上のピアニスト イタリア完全版」

2020年09月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「海の上のピアニスト イタリア完全版」を観た。
 船はどんなに大きくてもその範囲は限られている。陸地での生活に比べると船での生活は狭い世界のように思える。主人公1900は生まれてから死ぬまで一度も船を降りることがなかったという作品紹介の通り、人生のすべての時間を船上で過ごした訳だが、作品の世界観は決して小さくない。船とそこで仕事をする人々、旅をする人々のすべてと世界との関わりまで広がっている。リバティ島を見て「アメリカ!」と叫ぶシーンは、三等客室の苦しい旅をする人々の解放された喜び、目的地に到着した喜びが爆発するようだった。
 船には乗船し合わせた数千の人々が運命共同体として目的地に運ばれる。凪があり嵐がある。事故も起きる。人間関係は単純だが深い。そこには多くの人生が生々しく存在し、主人公はそのすべてを受け止める。
 殆どが船の中のシーンだが、少しも退屈することはない。トランペット奏者の思い出話で語られる形式もいいし、主人公の人生に感動して話を真摯に聞く人たちの態度にも感銘を受けた。
 音楽家は人生を奏でる。奏でられた音楽は聴く人々に響き、その人生を勇気づける。音楽は主人公の人生そのものであった。偶然と必然。人はこのように生命を燃やすものなのかと改めて思わされる感慨深い作品であった。

映画「「はたらく細胞!!」最強の敵、再び。体の中は“腸”大騒ぎ!」

2020年09月11日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「「はたらく細胞!!」最強の敵、再び。体の中は“腸”大騒ぎ!」を観た。
日本の免疫学の第一人者である藤田紘一郎博士によれば、免疫の主役は腸であり、腸の細菌を整えることで免疫力が向上するとのことである。それを踏まえると、免疫の話である本作品が腸を舞台にしているのは、当然とはいえアカデミックな検証に基づいていることがわかる。日和見菌の存在は藤田博士の本を読んで初めて知った。
本作品では一般細胞、赤血球、白血球、ナチュラルキラー細胞、キラーT細胞、樹状細胞、マクロファージなどの免疫系の細胞が擬人化されて登場し、ときに容赦のないその働きぶりが紹介される。免疫はこれら免疫細胞の活躍よりも前に、腸内環境を整えることが先決であることもよくわかった。藤田博士の本の通りである。
単語や解説がバリエーションを変えて繰り返されるのがいい。一度ではわかりにくかった場面も、繰り返されることでよく分かるようになる。この辺りはよく考えられていて、マンガを読んでいない当方にも一度の鑑賞でほぼ理解できた。ちゃんとストーリーがあって飽きずに観られるところもいい。
人間の体は自分で意識していなくとも生命と健康を自ら守っている。1対数万という意識と無意識の関係と同じようで、人間が能動的に体を動かす何万倍も、体内で免疫系が頑張っているのだろう。なんだか有り難い気分になる。
生命というものはとてもよく出来たメカニズムで、多くの細胞が互いに補完しあって複雑で膨大な動きをしている。そしてすべての細胞は一定の周期で破壊されて新しい細胞に入れ替わる。分子生物学の福岡伸一さんが砂で出来た像に例えていた。一見同じ姿を保っているかに見える砂像だが、絶えず吹き付ける砂によって像の細胞が入れ替わっているのだ。
無意識を意識的にコントロールすることはある程度可能である。苦しいときに笑顔を浮かべると、無意識は自分は大丈夫なのだと認識して、苦しい状況に対処できるようになるらしい。腸内環境も同じで、ジャンクフードを食べない、食物繊維を摂るなどを心掛ければ環境を変えることができる。癌にも老化にもある程度は対抗しうる体になれるかもしれない。
人間の体は微生物に弱いが、微生物と共存している面もある。皮膚の常在菌であるブドウ球菌や腸内の細菌がそれである。ちなみにブドウ球菌は悪性ではなく、食中毒を引き起こすのは黄色ブドウ球菌という別物である。ウィルスとは共存していないので、コロナウィルスやインフルエンザウィルス、ノロウィルスなど、人間の細胞内で増殖して体を不調にするウィルスは甚だ危険だ。
ただ、腸内環境がいい人は免疫系に余裕があるからこれらの危険なウィルスに対しても体が対処してくれそうな気がしないでもない。本作品を観終わると発酵食品が食べたくなる。たいへん勉強になりました。

映画「Minding the Gap」(邦題「行き止まりの世界に生まれて」)

2020年09月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Minding the Gap」(邦題「行き止まりの世界に生まれて」)を観た。
映画としては観ているのがつらい作品だ。登場人物の多くが、自分では望まなかった状況に落ち込んでいく。全部が全部本人のせいという訳ではなく、全部が全部環境のせいという訳でもない。何が悪かったのだろうか。
子供に「無限の可能性」などないことは大人なら誰でもわかっている。生まれ育った環境で既に将来は限定的になっているのだ。大都会の裕福で円満な家庭に生まれた子供と、紛争地域の貧乏で子沢山のあばら家に生まれた子供とでは、おのずから将来が異なる。
本作品の主人公たちは、いずれも問題のある貧しい家庭に生まれ育った。その時点で既に将来は限られている。高等教育を受けられないから、自分なりの価値観を形成することができないまま大人になる。そうすると世間の価値観をそのまま受け入れることになる。ちゃんと働き、金を稼いで親孝行する、子供には高等教育を受けさせていい人生を歩ませるといった価値観だ。
しかしそんな価値観は人生にとって本質的ではないことに次第に気づいていく。白人のザックは大人になって漸く気付きはじめるが、気付いたときには既に人生を台無しにしてしまっていた。
中村元さんが訳した「ブッダのことば:スッタニパータ」によると「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。人間の執著するもとのものは喜びである。執著するもとのもののない人は実に喜ぶことがない」という悪魔パーピマンの問いに対して、ゴータマは「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない」と答えている。
避妊技術が発達して避妊具が行き渡っている先進国では、子供を作るかどうかはある程度計画的なテーマである。しかしそうでない地域もある。たとえば小競り合いのような戦闘がずっと続いているアフガニスタンでは、タリバンが支配した1996年には人口が1840万人だったのに現在では3000万人を超えている。治安が悪い地域、貧しい地域ほど子沢山の傾向があるのだ。
本作品の舞台であるロックフォードもアフガニスタンほどではないにしろ、おそらく治安が悪くて貧しい地域なのだろう。主人公たちはそのあたりも自覚していて、この場所には未来がないと思っている。しかしどこに行けば未来があるのだ。他所の街では収入の当てはないし、仕事の当てすらない。とはいってもロックフォードにしがみついているだけでは何の発展もないだろう。
八方塞がりのような彼らだが、思い切って一歩踏み出すことでそれなりに道は開ける。世間の価値観で自分を判断して落ち込むようなことは無駄なことだ。ブッダの悟りにまでは永遠に至ることはないだろうが、暴力を振るった親たちの価値観を超えることはできる。そのあたりに微かな希望が見える気がした。

映画「宇宙でいちばんあかるい屋根」

2020年09月05日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「 宇宙でいちばんあかるい屋根」を観た。
 
 ほっこりとするファンタジーながら、藤井道人監督の正直でまっとうな世界観が心に響く感動作である。 ファンタジー映画らしく悪い人間は登場しない。 どの場面を切り取っても愛情があり思いやりがある。 特に桃井かおりの星ばあと主人公つばめのシーンがいい。 思わず笑みがこぼれるような楽しさと温かさがある。
 清原果耶は同じ藤井監督の「デイアンドナイト」で初めて見て、若いのに存在感のある演技に感心した。役名の大野奈々で歌った「気まぐれ雲」を聞いて歌の上手さに驚かされもした。本作品でも主題歌を担当して伸びやかな歌声を聞かせてくれた。歌の上手い若手女優と言えば上白石萌音だろうが、上白石萌音が愛くるしいタイプなのに比べて清原果耶にはどこかミステリアスなところがある。小松菜奈に似たタイプだと思う。
 本作品では主人公つばめを全力で演じているのが伝わってきて、その健気な演技に先ず感動した。つばめは思春期らしい迷いと思春期らしい吸収力で、変化する状況を受け入れ、そして乗り越えていく。決して優しさを失うことはない。主役らしい堂々たる演技だった。
 桃井かほりは名人の域に入ったかもしれない。演じた星ばあは、キュートでシャイでシニカルでエスプリに富んでいてどこかアンニュイという稀有なキャラクターである。桃井かほりはこの役がとても気に入ったのだろう、本当に楽しそうに演じていた。
 吉岡秀隆と坂井真紀の夫婦は優しさに満ちていて、つばめの優しい性格がこの二人の努力の賜物であることがわかる。いい子はいい親が育てるのだ。
 鑑賞中ずっと微笑んで観ていられる映画で、ささくれた心が癒やされた気がする。邦画のファンタジーとしては出色の作品だと思う。

映画「青くて痛くて脆い」

2020年09月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「青くて痛くて脆い」を観た。
 暴力を否定する人は多いが、暴力を否定しない人もたくさんいる。日本では親や教師による暴力を「愛のムチ」と呼んで美化あるいは正当化している時代があった。いまでも子供を殴る親や教師はたくさんいると思う。TBSのテレビドラマ「スクールウォーズ」の山下真司扮する熱血教師がラグビー部員を殴るシーンについて、感動的なシーンだとする人と、単なる暴力シーンだと切り捨てる人に分かれているようだが、あれを感動的としてしまえば、すべてのパワーハラスメントは正当化されてしまうだろう。
 杉咲花が演じた秋好寿乃は行動力はあるが思考力に欠ける性格で、自己肯定感に溢れているから他人を巻き込んで恥じることがない。対して吉沢亮の田端楓は自己否定気味であり、その延長として世界のことも否定気味である。人との摩擦を避けるためになるべく穏便な行動を取る。ソーシャルディスタンスで言えば、秋好は50センチ、田端は3メートルというところか。通常なら絶対に関わることのない相反する人物設定だが、これを強引に絡ませることでなんとか物語が成り立っている。しかし秋好の行動は思考力に欠ける人間の典型でよく分かるのだが、田端の行動は否定的な人間という設定を逸脱して理解できない部分が多い。物語は破綻していると思う。
 暴力反対、戦争反対、自分らしく生きるというスローガンは若者らしいところと、宗教のお題目みたいなところの両方の印象がある。このスローガンではサークルなど立ち上げようがないのだが、それも強引に立ち上げてしまう。活動内容は他愛もない福祉活動だ。田端は否定的な人間の特徴として内省的なのだが、サークルの活動についての内省はしないようだ。この辺りも理解できない点のひとつである。
 あらゆる暴力は否定されるべきだが、暴力を否定するだけでは暴力はなくならない。暴力というのは人間の行動のひとつであり、行動には必ず理由がある。その理由を明らかにすることで因って来る源となる問題を探り当て、それを解決することで漸く暴力がこの世から一掃される。単に暴力反対を叫ぶ秋好がドン引きされたのは当然で、ドン引きする方を無理解として秋好を支持するのは無理筋だ。
 一般的にどの共同体でも暴力は禁止されている。しかし家庭内暴力、警官による暴力など、暴力事件は世界中で後を絶たない。人間は本来的に暴力を振るうとも考えられる。ただ日本では、戦前から戦後のやたらに人を殴る時代から比べれば、最近は日常的な暴力が減少しているように思える。教師が毎日のように生徒を殴っていた時代はもはや昔の話だ。それはパワハラといった言葉が普及して無意識にブレーキをかけたことも大きいと思うが、それ以上に人間はみな平等という民主主義の考え方が徐々に普及しているのも大きな理由であろう。
 法の下の平等という考え方は古くからあるが、それが基本的なものの見方として定着するには長い時間が必要で、未だに定着してはいない。殆どの人間は勝手な基準で人を差別する。それが自尊心の働きだ。自分が他人よりも優れていると思わなければ自分を肯定することが出来ないのだ。そのためには自分よりも劣っている人間を探すか想定することになる。人を見下すという心理だ。相手を下に見るからその相手が自分に反抗したり言うことを聞かなかったりするのが許せない。自尊心を傷つけられるからだ。そして暴力を振るう。
 差別の基準は多くは封建主義的な考え方に起因している。子供より親が上、生徒より教師が上、部下より上司が上、店員より客が上、黒人より白人が上など、法の下の平等という基本的人権の考え方を無視した基準がまかり通る。その逆はない。遅刻した生徒を殴る教師はざらにいるが、遅刻した教師を殴る生徒は滅多にいない。言うことを聞かない子供を叱りつける親はときどき見かけるが、赤信号を渡る親を叱りつける子供は見たことがない。部下を怒鳴る上司はいるが上司を怒鳴る部下は滅多にいない。店員に怒鳴りつける客はいるが、客を怒鳴りつけて言うことを聞かせようとする店員はいない。
 言葉遣いも重要だ。英語では「please」とつけるかどうかくらいの話だが、日本語には敬語があるから厄介である。敬語は差別の象徴であり、目上と目下を設定する。その基準は前述の封建主義的な基準にぴったりと合致している。本作品にも敬語を使う使わないのシーンがあるが、敬語を使わせる精神性が暴力に結びついていることにまでは考えが及んでいないようで、登場人物の関係性だけに終わってしまっている。
 敬語は互いの距離感を遠ざける。親しき仲にも礼儀ありという通り、互いに敬語を使う間柄には暴力は生じにくい。もし秋好と田端が思考力に富んだ人間だったら、暴力反対のサークルはタメグチ反対というスローガンを打ち出すことも出来た筈である。そうすれば日本の敬語が世界の暴力反対に役立つだろう。
 吉沢亮も杉咲花も力いっぱいの演技で好感は持てたが、いかんせん映画自体が世界観の浅い幼稚な作品で、柄本佑をはじめとした脇役陣の好演があっても作品の質を高めることは不可能であった。

映画「Il traditore」(邦題「シチリアーノ 裏切りの美学」)

2020年09月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Il traditore」(邦題「シチリアーノ 裏切りの美学」)を観た。
 主人公トンマーゾ・ブシェッタの台詞に「誇りある男」というフレーズが何度も出てくる。コーザ・ノストラに入会するためには「誇りある男」でなければならない。「誇りある男」は沈黙の掟を守る。
 本作品はマフィアのメッカであるシシリアに生まれたブシェッタが、マフィア同士の高層に倦んで、当局に協力してマフィアを弱体化させる話である。したがってレベルの高い話ではない。コーザ・ノストラの入会時には血を使って誓いを立てるが、それも日本の血判状に似ていてレベルの低い方法である。
 人間は自分のために他人と関わる。組織と関わる。これを契約という。結婚も民法上の契約であり、離婚は契約の解消だ。組織との関わりはもっと明白に契約で、会社に入るのは労働契約、雇用契約である。国家みたいな共同体は生まれたときから関わっているから、所属しているみたいな感覚になってしまうが、成長する過程で国家も組織のひとつであり個人と国家の契約という関係性を自覚するようになる。
 しかし組織の維持という観点からは、個人が契約という自覚を持つと困るのである。だから契約という言葉はなるべく使わない。国家はみんなが守るべきものであり、みんなが規範に従うべきものである。戦前の教育はその理念に集中していた。何のことはない、国家もマフィアの巨大版に過ぎないのだ。要するに欺瞞である。
 ブシェッタは教育はなかったが頭の回転がよく、コーザ・ノストラの欺瞞に気づいて暴力による抗争には未来がないと悟ったようだ。何度も口にした「誇りある男」は、きれいごとが並べられたコーザ・ノストラの掟に対して、現実がまるで違っていることへの抗議の意味もあったのだろう。そして誰もがコーザ・ノストラを利用しているだけであると判れば、自分も当局を利用して自分と家族の安全を図ろうとするのは当然だ。
 邦題の「シチリアーノ 裏切りの美学」は作品を理解していない人がつけたトンチンカンなタイトルだ。原題の「Il traditore」は裏切り者の意味である。当局に協力したブシェッタのことを指しているように見える。実際に法定の場面では、証言をするブシェッタに対して、かつての仲間たちから繰り返し「Il traditore!!」という罵声が浴びせられる。しかしブシェッタから見れば、裏切り者はどちらだという言い分になる。原題の「Il traditore」はブシェッタだけでなく、コーザ・ノストラに関わった全員を指していると思う。つまりコーザ・ノストラという組織は、誰もがそれを利用してのし上がるための共同幻想に過ぎなかったのだ。
 この構図は、国家という共同幻想に群がる政治家や役人たちの構図とそっくりである。規模が大きいから気づかないだけだ。本作品は下り坂となったコーザ・ノストラの最後の醜態を描いている。同じように下り坂となった世界の国家が、変な悪あがきをしないことを祈るばかりである。

映画「L'extraordinaire voyage de Marona」(邦題「マロナの素晴らしき旅」)

2020年09月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「L'extraordinaire voyage de Marona」(邦題「マロナの素晴らしき旅」)を観た。
 犬を飼う人は犬が齎す幸福感を享受し、犬の世話をする義務を引き受ける。人間は勝手だから犬に飽きて幸福感が減って犬の世話をする煩わしさの割合が増えると、犬を誰かに譲ったり、そのへんに捨てたりする。しかし大抵の飼い主は犬によって脳内に増加したオキシトシンの働きによって、犬の世話をすること自体も幸せに感じるようになる。それが犬を飼う醍醐味なのだと思う。
 本作品は擬人化された犬のモノローグ映画という珍しい作品で、主人公の雌犬マロナは、犬にとって何が幸せかをいろいろな場面で話して聞かせてくれる。動物学的な見解とは乖離しているが、その世界観は豊かで非常に美しい。ときに太陽系全体を見せられ、ときにミクロの世界を見せられる。想像力はどこまでも広がり、映像は凄くきれいである。
 人間は愚かで不完全で移ろいやすい。マロナは犬だから飼い主のすべてを許す。捨てられても傷つけられても、マロナが人を傷つけることはない。理不尽な猫の怒りは理解できないが、柳に風と受け流す。諸行無常のこの世の中で何人かの飼い主と出逢い、そして別れる。マロナにとってそのすべてが肯定されるべき邂逅なのだ。
 最後にはマロナが犬ではなく、かつて存在した聖人のひとりに見えてくる。そうか、これは犬の物語ではなく人の歴史、そして地球の歴史なのだ。無名の犬、無名の聖人、ささやかで慎ましい人生。とても美しい作品だった。

映画「A Beautiful Day in the Neighborhood」(邦題「幸せへのまわり道」)

2020年09月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「A Beautiful Day in the Neighborhood」(邦題「幸せへのまわり道」)を観た。
 完璧ないい人、つまり仏様とか菩薩様みたいな人には一度も逢ったことがない。そんな人は多分この世にいないのではないかと思っている。だから如何にもいい人然とした人を見ると、裏の顔があるんじゃないかと疑いたくなる。
 本作品の主人公ロイド・ボーゲルがまさにそれで、不遇な幼少期を過ごしたことから、簡単に人を信じないし、他人に対する評価は自然と厳しいものになる。このタイプの人は決して少なくないと思う。ロイドの場合は他に女を作って病気の母と自分を置き去りにしていった父親が許せない。
 子供の人権を蹂躙する親はかなりの確率で存在し、児童相談所の職員の手が回らない主要な要因となっている。日常的に頭を叩くなどは一番軽い方で、酷くなると実の父親に毎日のように強姦されたり、極端な場合は殺されたりしている。事件が明るみになって報道されるのは氷山の一角であり、大半は狡猾な親によって隠蔽されているのではないかと、当方は睨んでいる。
 こんな実情を踏まえていれば、簡単に父親との関係修復を説くフレッド・ロジャースのことをロイドが不審に思うのは当然だ。しかし映画では悲惨な子供たちは登場せず、フレッド・ロジャースの手に負えなくなるシーンはない。ロイドの父親についても、なぜか許されてしまう。父親の発言には差別意識が色濃く滲んでいるにもかかわらず、それは問題にされないまま許されてしまうのだ。
 フレッド・ロジャースは人を非難せず、問題は心のなかにあるとして、自分を許し、他人を許すことを説く。怒りの感情は他人を傷つけるだけではなく自分をも傷つける。だから怒りを感じたときは様々な行動をすることで怒りの感情をしずめることをすすめる。それは無意識を意識的にコントロールするという意味では間違っていない。ただ、子供ならそれに従うかもしれないが、親は一番傷つけやすいもの、つまりは自分の子供に怒りを向ける。それはフレッド・ロジャースには解決できない。
 親が子供に怒りを感じるのは自分が上で子供が下だと思っているからだ。支配する者とされる者の関係性、つまり封建主義の精神性が世界中に遍在している。世界中の殆どの親は「親に向かってなんだ」という言葉で、口の聞き方や態度、果ては表情までを断罪する。断罪された子供たちは親になったときに子供を同じように断罪する。親が上で子供が下という差別の意識は親の自尊心に支えられて、時代が変わっても連綿と続いてきた。
 その有史以来の封建主義の精神性を断ち切らない限り、子供たちは蹂躙されつづけるのだ。黒人が白人警官によって殺されるのも同じ図式である。黒人差別の問題に矮小化するのではなく、世界中に行き渡る封建主義の精神性に原因があることを知らねばならない。一方で封建主義的な教育をして差別を継続させながら、一方で子供の人権蹂躙や黒人差別に反対するのは明らかな矛盾である。アメリカで主流の家族第一主義も一種の封建主義であることを理解する必要がある。
 完璧ないい人に見えるフレッド・ロジャースだが、彼に対して感じる不信感は実は根深いものなのだ。家族を大切に、親を尊敬してという言い方は正論であり、彼に反駁すると集中攻撃を受けるかもしれない。しかしそこに異を唱えない限り、完全に平等な人間関係の社会を実現することは難しい。そのあたりを全部棚に上げて、ロイドの家族の平穏を喜ぶことには違和感しかない。