三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

「いつかある日」 歌詞

2020年11月07日 | 映画・舞台・コンサート

いつかある日

作詞:Roger Duplat
訳詞:  深田 久弥
作曲:  西前 四郎

いつかある日 山で死んだら
古い山の友よ 伝えてくれ

母親には 安らかだったと
男らしく死んだと 父親には

伝えてくれ 愛しい妻に
俺が帰らなくても 生きてゆけと

息子たちに 俺の踏み跡が
故郷の岩山に 残っていると

友よ山に 小さなケルンを
積んで墓にしてくれ ピッケル立てて

俺のケルン 美しいフェイスに
朝の陽が輝く 広いテラス

友に贈る 俺のハンマー
ピトンの歌声を 聞かせてくれ

いつかある日 山で死んだら
古い山の友よ 伝えてくれ

 

いろんな人が歌っているが、中沢厚子さんの美しいソプラノがおすすめ。


映画「ザ・ハント」

2020年11月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ザ・ハント」を観た。
 参った。作品の話ではなく映画館での隣の男だ。激痛が伝わってくるかのような残虐なシーンで大笑いする。感じ方は人それぞれだから笑うことを否定するつもりはさらさらないが、こちらが痛みを想像して息を呑んでいる横で馬鹿笑いされると興醒めしてしまう。そのシーンで大笑いしたのはその男だけだった。こういう男は子供が自動車に轢かれるのを見てもゲラゲラ笑うのだろう。後でそれが自分の子供だと分かって、男の馬鹿笑いを見ていた妻から三行半を突きつけられればいい。そんなよろしくない想像までしてしまった。申し訳ない。
 映画はのっけから衝撃的で大変に面白い。理由もなく狩られる人々のパニックと怒りと生き延びたいという本能が熱量として伝わってくる。展開がスピーディなのも、理不尽さを強調することになって、とてもいいと思う。
 ヒロインが登場して以降は展開が落ち着いて、徐々に状況が明らかになる。大団円で冒頭のシーンの真相が明らかになり、大変スッキリした気持ちで終了するが、ひとつだけ疑問が残る。
 これ、もしかしたら本当の話では?

映画「私は金正男を殺してない」

2020年11月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「私は金正男を殺してない」を観た。
 テレビやインターネットの情報を見る限り、北朝鮮は貧しい国だ。金一族の独裁を維持するためには国民を飢えさせても軍事に金をかけるしかない。人口は減り、国力は益々衰えていく。そして戦争を始めるしかない状況に追い込まれる。第二次大戦の前の日本がそうだった。全体主義の宿命である。
 北朝鮮は何をしでかすかわからない危険な国だという認識は世界的に共通しているのではないかと思うが、一般の北朝鮮人のイメージはどうだろうか。独裁国の虐げられた人々、強権に唯々諾々と従う羊の群れ、そういった印象である。決して危険な人々だとは思わないのではなかろうか。独裁国家として人々を画一化し多様性を奪っていった結果、個人が活躍する場を失って貧しい国になった。共産主義の理想とはかけ離れた現実である。
 独裁国家の権力闘争は、中世の王権争いにそっくりで、所謂骨肉の争いである。金正男氏は殺されたが、彼の息子や娘たちは独裁者から未だに追われているのかもしれない。韓国も大統領はその後不幸な運命を辿ることが多い。儒教の精神性が生み出す格差社会の宿命なのだろうか。
 本作品はそんな北朝鮮の独裁者による金正男氏の暗殺劇に巻き込まれた外国人女性の悲劇を描く。実際のニュースを見た当時は、二人の女性はただ雇われただけで、殺人と認識しないまま言われたことをやったのだと思っていた。考えてみれば、金をくれるからといって見ず知らずの第三者に暴行のようなことをするのは躊躇われる。その躊躇いを取り去るための工作がどのように行なわれたのかを描いたのが前半だ。
 後半は彼女たちの裁判の様子が描かれる。マレーシアの司法は多くの国のご多分に漏れず、行政の子分である。行政は保身と既得権益の維持だけだから、真実など無関係に処分を下そうとする。アメリカ映画ならヒーロー弁護士が登場して見事に真実を暴き出して、正しい判決を勝ち取るところだが、生憎、行政が司法を牛耳っている国では、真実がどうであれ、判決は最初から決まっている。では彼女たちはどうして釈放されたのか。
 有名になりたい、金持ちになりたいと夢見る若い女性が騙されるのは、沢山の映画やドラマ、小説で描かれている。本作品では騙すのが独裁政治の工作員だった点と、実際の事件を扱っている点で一線を画している。見ごたえのあるドキュメンタリーだった。

映画「アリ地獄天国」

2020年11月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アリ地獄天国」を観た。
 重くて苦しい作品である。ブラック企業で働いたことがある人にはとてもきつい映画だ。そこで働いた時間が無為の時間、まったくの無駄な時間だった気がするからである。
 どんな仕事でも自分なりの達成感や、客に喜ばれる満足感はある。しかしブラック企業においてはそれは一過性のものだ。何を達成しても誰も褒めてくれない。一度は喜んでくれた客も、次にミスをすればクレームを出してくる。意に沿わない仕事や日々のハラスメントは精神を痛めつけ、体力の限界を超えるほどの長時間労働は身体を痛めつける。そこまでして働いて得たのは給料だけという徒労感。
 ブラック企業がブラック企業たる所以は長時間労働やサービス残業にあるのではない。ブラック企業の本質は一元論にある。経営者の成功体験があって、自分はこうやって成功した。どうしてお前たちは同じように出来ないのかと従業員に自分のやり方を強要する一元論である。多様性が組織や共同体を安定させることを理解できず、個性を否定して軍隊のような組織を作ろうとする。エスカレートした経営者は従業員に丸刈りにしろ、七三にしろ、シニヨンにしろなどと、髪型さえも強制する。軍隊では兵士ひとりひとりの個性など重視されない。どれだけ敵を殺す能力だけが求められる。死んだら代わりの兵士を派遣する。経営者の自己実現のために使い捨てにされる従業員はまるで兵士のような消耗品だ。
 労働は時間と行動をスポイルされることと引き換えに対価を得ることだ。使用者に仕える限り、完全な自由はあり得ない。しかし労働者が企業で働くのは、収入が安定し、自分の才覚で稼がなくていいという利点がある。それなりの承認欲求も満たされるし、労働時間が過ぎれば自由に行動できる。たとえ長時間労働が続いても、精神的な強要がなく時間外手当が正しく支払われるなら、それはブラック企業ではない。
 ブラック企業では時間と行動に加えて、人格もスポイルされる。口ごたえは許されず、何かにつけて罰金といって給与が減らされる。耐え忍んだ果ての薄給では、労働そのものが浮かばれない。本作品の引越社は、まさにブラック企業の典型だ。
 人間が他人と自分を比較して自分が優れていることに満足するという性質を脱却しない限り、差別もいじめも格差もなくならない。差別や格差は悪を育む温床だから、悪もなくならない。当然ながらブラック企業もなくならない。ブラック企業を批判する人も、いつの間にかブラック企業の側に立っていることもままある。誰の頭の中にも差別や格差が存在するからだ。
 しょうがないとして諦めるか、それとも戦うかは個人によって異なるだろう。本作品の西村さん(仮名)は戦うことを選んだ。苦しい戦いだが、応援してくれる組織もある。無条件で味方してくれる妻も父親もいる。それでも大変な精神力だ。
 自分がハラスメントの対象になるまでは、西村さんも会社の言うことに唯々諾々と従っていた。長時間労働やサービス残業も、それに罰金も、そういうものだと思っていた。これは西村さんだけでなく、世の中の企業で働く多くの人々がそうだと思う。人権の意識がないのだ。そういう教育を受けていない。憲法の条文も知らない。
 ブラック企業は悪どい経営者だけでは存在し得ない。おとなしく言うことを聞いて従う羊のような労働者の集団がいるから存在できるのだ。個人の権利を教えない、憲法も教えない日本の教育に大きな問題があることは明らかで、逆に言えば、個を軽視して組織を絶対視する全体主義の日本の教育体制がブラック企業を陰で支え続けているのである。

映画「君の瞳が問いかけている」

2020年11月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「君の瞳が問いかけている」を観た。
 ヒロインの牽引力が終始物語をリードする作品である。それほど本作品の吉高由里子の演技は凄かった。主人公の柏木明香里が白杖を突きながらニコニコと笑顔で登場する場面では、笑顔とは逆に内に抱える大きな悲しみを感じさせた。
 というのも、人間はあまりに大きな不幸に見舞われたとき、何故か笑顔になる。東日本大震災のときのテレビのインタビューで、被災者が笑って答えている映像を目にした人は多いと思う。決して楽しい訳じゃない。笑うことで自分の脳に自分は大丈夫だと思い込ませ、無意識が自暴自棄の感情を生まないようにコントロールしているのだ。
 身に起きた不幸を笑顔で話す人は結構多い。それも同じ理由である。風吹ジュンが演じたシスターが「笑顔を忘れないで」と言うのも同じ理由だ。横浜流星が演じた篠崎塁は、明香里との触れ合いによって笑顔を取り戻すことで、過去の不幸から救われるきっかけを得る。
 愛を育む過程でふたりの過去が少しずつ明らかになり、それぞれに衝撃を受けながらも乗り越えていくことで、愛はますます深まる。これまで持てなかった自己肯定感を抱けるようにもなる。この辺りの幸せな雰囲気に少しだけホッとするが、過去のツケが容赦なくふたりを待っていることは分かっている。
 横浜流星はテレビドラマ「シロでもクロでもない世界で、パンダは笑う」でしか見たことがなかったが、なかなか憂いのあるいい表情をする。次は陰のない野放図に明るい役を見てみたい。
 やべきょうすけが演じたジムのトレーナーが大変に需要な役割を果たす。剽軽で男の優しさに溢れ、ストーリー上では人間関係の緩衝材となって物語の隙間を埋める。こういうコミカルな熱血漢がよく似合う役者さんなのだろう。とても好感が持てた。
 出会いからラストシーンまで、物語が進むにつれて主人公ふたりの関係性がどんどん変わっていくのがラブストーリーとしての王道を踏まえていて、非常に面白い。兎にも角にも吉高由里子の演技が光る作品であった。

映画「罪の声」

2020年11月02日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「罪の声」を観た。
 小栗旬演じる阿久津記者は、二人のできた上司に恵まれている。阿久津の葛藤を硬質に受け止めて跳ね返しつつも、取材方法に口を出したりせず、自由にさせる。部下を信頼している証だし、結果を出す上司の見本だ。
 そのうちのひとりを演じた古舘寛治は、最近の権力者の無知と横暴がよほど気に入らないようで、安倍政権から菅政権に続く一連の反知性主義政権に対してツイッターでときどき怒っていて、その内容が痛快で面白いのでときどき拝見している。こういう俳優がいるのは映画界にとって心強い気がする。
 物語は阿久津記者と、星野源演じるテーラー主人の曽根俊也がそれぞれの動機で同じ事件の真相に迫る形で進む。視点が異なるので光の当たる部分も異なり、観客は事件を立体的に理解することになる。とても複雑な事件だが、時系列を追って説明してくれるのできちんと理解できる。地味な出だしだが、二人が絡んで以降の展開にはスピード感があって大変に面白い。
 星野源の演技は無表情が多く、しかし状況からして何も思っていないはずがなく、万感を隠したその無表情に戸惑うが、鑑賞中の観客が想像力をフルに回転させるのも映画鑑賞の醍醐味のひとつだと思う。
 小栗旬の阿久津記者は対照的に、言語表現を生業とする職業だけに、自分のことを客観的に饒舌に語る。主人公がスクープ一辺倒のスクエアな記者ではなく、取材の仕方や記事そのものに対しても懐疑的なところが、奥行きのある人物造詣となっている。小栗旬がこういう役柄を演じた記憶があまりなく、役者として新たな領域に挑戦したのではないかという気がした。
 古舘寛治の上司は更に進んで、マスコミの在り方や事件報道自体をも相対化して批判の対象にする。頼もしい存在だ。現在の大新聞各社にもこういう存在がいるとは思うが、政権に阿る上層部によって押さえつけられている気がする。新聞社とはいっても大勢の人間の集団である。一枚岩ではないから一概に肯定も否定もできない。たとえば朝日新聞には政権寄りの記事もあれば反体制的な記事もある。多様性を維持し続けるのが報道機関の矜持だと思う。
 挫折世代と呼ばれる年代がある。1960年代から70年代にかけての反体制運動の行き詰まりを挫折と呼ぶが、その傷を癒せぬままに折からの高度経済成長の波に呑み込まれて個性を喪失した世代だ。挫折のあとも公権力に対する怒りは燻り続ける。革命の炎は消え去ったが、公権力に一矢報いたい。そういう年代だ。
 本作品はそういう化石(fossil)のような年代の男たちが、いつの世にもいる不良集団と手を組んで起こした事件と、それに巻き込まれて不幸に陥る人々の群像を描く。人間はいつだって不幸だが、大きな悲しみの中の小さな喜びに縋って生きていく。その小さな喜びさえ奪われたら、人は死ぬか犯罪に走るか、あるいは失意の内に心を閉ざして孤独に生き延びるだけだ。
 共同体は共同体の存続を最優先にする。次が権力者の権力の維持だ。個人の幸福は20番目にも入らないかもしれない。法治国家では法によって国を統べるが、法は全員が遵守してこそ十分な統治機能を発揮する。憲法がしっかりと守られていれば価値観は多様性を保ち、一元論によるいじめや差別は起きにくい。しかし戦後何十年経っても、この国では憲法が十分に生かされず、広がる格差が犯罪を生む。本作品と同じように今日もどこかで犯罪によって苦しむ人々がいるのだ。権力の立場にある人間たちが自分も公務員のひとりであり、憲法第15条に書かれてあるように一部の奉仕者ではなく全体の奉仕者であるということを自覚する日がこない限り、不幸な人々は生み出されつづけるのだろう。