三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「461個のおべんとう」

2020年11月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「461個のおべんとう」を観た。
 松本穂香主演の「みをつくし料理帖」と同じく、観るとお腹のすく映画である。「みをつくし料理帖」が時代考証を踏まえた料理づくりだったのに対し、こちらは現代劇で、おべんとうという制約はあるものの、比較的自由自在に作ることができる。フードコーディネーターの腕の見せ処であり、主人公鈴本一樹を演じた井ノ原快彦が練習の成果を発揮するシーンであった。
 卵というのは万能の食材で、至る処で使われるし、どんな食材との組合せでもそれなりに美味しい。ハンバーグやトンカツにも使われるし、お菓子にもたくさん使われる。最近はTKGなどと言って、そのままご飯に割り落として食べる昔ながらの食べ方が見直されている。しかしなんと言っても玉子焼きとオムレツだ。最も卵のそのままに近い料理でありながら、最も作るのが難しい料理である。はじめのうちはテフロン鍋で焼いていた一樹お父さんも、こだわりが高じて銅鍋に手を出す。銅鍋で作る玉子焼きは大変に難しいが、テフロンに比べて熱伝導がいいので短時間でホワッと焼ける。その食感の違いに、使い方が難しくても後戻りできない。ちなみに当方の卵と玉子の使い分けは、材料は卵、料理は玉子の漢字を使っている。
 さて思春期は自意識の肥大に理性が追いつけなくなってしまう年頃で、本作品の虹輝のように高校入試を失敗してしまうと人格が崩壊してしまう例もある。当方の知り合いにも高校受験に失敗して自殺した女の子がいた。普段はそんなふうに見えなかったので衝撃を受けたが、真相を確かめる術がなかった。
 本作品の虹輝は割と弾力的な精神性の持ち主で、親に反発する部分と尊敬する部分を合わせ持ち、それを自覚している。精神的に余裕があるのだ。だから自殺したり自棄になったりグレたりすることなく担々とやり直しの努力ができる。その余裕は親が経済的に切羽詰まっていないことと、既存の価値観を押し付けず、好きなことをとことんやれという自由主義的、個人主義的な教育方針であることから生まれていると思う。
 しかしそれでも思春期だ。自分の人生を生きるのは自分しかいないという覚悟がいまひとつ出来ていない部分がある。後押しをするのは親の役目だが、ともすれば価値観の押しつけになるところを、何も言わずに弁当を作り続けるところが素晴らしい。虹輝にとってゴールのないマラソンのように見える将来だが、走り続ければ見えてくる景色もある。結局は本人の足で走るしかないから、親は自分の価値観で風を送るより、倒れないように横について並走するのがいい。それが親の優しさであり愛情だと思う。
 井ノ原快彦は普段着の人間を演じるのがとても上手い。アド街ック天国の司会をやっている雰囲気と殆ど変わらないのがいい。虹輝を演じた道枝駿佑は歌が上手い。思春期の少年は自意識にとらわれすぎて、逆に無表情になる。しかし納得したときはとても元気に笑顔で返事をする。その落差がそのまま物語のメリハリになる。なかなか気の利いた演出だと思う。森七菜は最近あちこちで見かける。物怖じしない演技は今後も期待できるだろう。
 本作品には一樹お父さんの愛情が満ちていて、それがお弁当の形をとって出現する。「みをつくし料理帖」ではごりょんさんが「料理は料理人の器量次第」と啖呵を切るが、お弁当も、食べる人のことを思う作り手の愛情次第なのだろう。抱えきれんばかりの愛情を漸く受け止めた虹輝は、感情が溢れてもう泣くしかない。全体に緩やかで穏やかでほっこりする作品だった。ああ、お腹が空いた。


映画「おらおらでひとりいぐも」

2020年11月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「おらおらでひとりいぐも」を観た。
 設定が面白い。原作は未読なので同じなのかは不明だが、図書館の司書のおばちゃんがすすめるのは大正琴、太極拳、卓球と、全部「タ」ではじまるものだ。主人公の名前は日高桃子で、何のメタファーかはわからないが、日高さん、大正琴やんない?というのはゴロがいい。
 それにもうひとつ、桃子さんは意外に人が悪い。オレオレ詐欺の電話を軽くあしらう場面のあとで、疎遠にしている娘から金をねだられる場面がある。詐欺で250万円も取られたと娘から非難されるのだが、実はそれは桃子さんが予め予防線を張っていた訳だ。人の悪い桃子さんは心の中で舌を出していたはずだ。桃子さんの豊かな想像力が発揮されるのは娘に嘘を吐くことだけではない。
 1977年放送のテレビドラマ「ルーツ」は黒人の作家アレックス・ヘイリーが自分のルーツを辿る内容で、アフリカから連れてこられたクンタ・キンテまで遡るが、桃子さんが遡るのはふたつ。ひとつは岩手県の田舎を飛び出してから今に至る自分の半生であり、もうひとつは自分も含めた人類がよって来るよりも遥か過去、先史時代である。テレビで紹介されておなじみのアノマロカリスが古生代を象徴するアイコンとして描かれ、人類が登場してからはマンモスがアイコンとなる。
 炬燵にちょこんと座ってお茶をすする桃子おばあちゃんだが、その頭の中では想像力が時空間を超えて、宇宙全体の過去から未来に広がっている。生身の人間として日常生活を慎ましく営みつつ、一方では知性が探求を続けているというその多面性が、桃子さんという人格をとても深い存在にしている。思春期の少女のように自由を求める一方では、娘を軽くいなしてしまう老獪さも持っている。あれもこれも、みんな桃子さんなのだ。
 田中裕子は桃子さんという人間の多面性をすべて見せる見事な演技だった。そういえば田中裕子も「タ」ではじまる。蒼井優はまだ世界観の狭かった青春時代を若々しく演じる。東出昌大は例によって思い込みの激しい単純な男をステレオタイプに演じる。昭和の典型的な亭主をよく表現できていたと思う。
 人間は多面的で矛盾だらけで、正直でもあり狡猾な嘘つきでもある。そしていくつになっても人生に悩む。大江健三郎の「洪水はわが魂に及び」では、主人公大木勇魚は最期に鯨の魂、樹木の魂に対して「すべてよし!」と挨拶を送る。この宇宙の生きとし生けるものすべてを力強く肯定する言葉だ。本作品の世界観はそれに似ていて、桃子さんの存在自体が素晴らしいと主張し、人間の生と死を力強く肯定しているように思えた。