三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「さくら」

2020年11月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「さくら」を観た。
 映画は撮影して出来上がった作品だけでは完成とは言えない。それを観た観客の想像力によって最終的に完成する。観客の受け取り方によってはいい作品にもなり駄作にもなる。それが作品として独り歩きするということだ。観客の想像力に訴える映画が幅のある作品だと言うことができる。俳句を味わうのと同じで、表現されていない部分にこそ味わいがあるのだ。
 本作品はというと、北村匠海くんのナレーションは悪くないのだが、いかんせん口数が多すぎる。解説過多で自ら作品の幅を狭めて深みをなくしているところがあるのだ。そこがとても残念だ。
 いいところは沢山ある。永瀬正敏と寺島しのぶの夫婦は、夫大好きの妻と飄々とした夫の組合せがほのぼのとした幸せを伝えてくれる。正月に餃子を食べるのは中国の習慣で、年の変わり目を祝う儀式でもある。元旦にお雑煮をいただくのと同じだ。次男役の北村匠海は名役者の素質十分で、ドラマよりも映画での演技が特に光っている。本作品では自省的で思慮深い次男を好演。長女を演じた小松菜奈は、映画「渇き」での正体不明の美少女を思い起こさせる演技で、思春期の女子らしい矛盾に満ちた存在を存分に演じきった。24歳で女子中学生を演じられる演技力が凄い。加藤雅也の優しさに満ちたオカマはケッサク。フェラーリのエピソードもいい。
 ということで犬も含めて芸達者な役者陣が、幸不幸に襲われる家族劇を上手に演じていたにも関わらず、ナレーションが延々と続くおかげでシーンに集中できず、あまり感動もしなかった。登場人物の台詞が長いのもマイナス。北村匠海や小松菜奈、永瀬正敏の沈黙の演技が素晴らしかったのに、それを活かしきれなかった。
 本作品は家族の崩壊と再生を描いていて、家族それぞれに分散して感情移入することが出来ればそれなりにいい映画のはずだが、次男の一人称に引きずられて誰にも感情移入できないまま終わってしまった。俳句のように余計な文言を極力そぎ落とせば、ひとつひとつのシーンが輝いたと思う。

映画「粛清裁判」

2020年11月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「粛清裁判」を観た。
 最後の最後に驚かされる。そして思う。この裁判は何だったのか。
 作品としてもそう思わせるのが狙いのひとつであっただろうと思うが、これがフィクションではなくドキュメンタリーであるところが凄い。ソ連は恐ろしい国だ。そしてスターリンの独裁ぶりは空前絶後である。
 裁判は舞台だ。被告人たちと裁判官、検察官が登場人物である。本当の裁判は舞台裏で秘密裏に行なわれている。そこでは、存在しなかった産業党なる秘密結社が反政府活動を繰り広げたという台本が配られ、逮捕され収監された人々はそれぞれ何らかの役割を持ってそれに加担したことにされる。被告人を演じさせられるのだ。
 確かに彼らが反政府的な言論を繰り広げていたのは事実だ。しかしそれだけでいきなり逮捕され、クーデターを計画していたことにされ、そして裁判で反省と命乞いの発言をするように命じられるのは理不尽極まりない。にもかかわらず、逮捕された誰もがこの理不尽に無条件に従って、架空の被告人を演じている。
 裏でどのような恫喝や脅迫や拷問や取引があったのかは明らかにされない。しかし大学の教授など教養のある識者たちが従わざるを得ないような状況であったことは間違いない。ソ連という国に、権力に対する恐怖感が充満していたということだ。
 裁判では五カ年計画、ボルシェビキ、プロレタリア、大衆、ブルジョアといった言葉が飛び交う。ロシア革命で使われた概念である。これらの言葉は民衆を操るためにも使われる。
 権力者が権力を維持するためには、国家の敵を想定する必要がある。ソ連では帝国主義者たちであり、破壊分子である。いなければでっち上げればいい。そこで独裁者スターリンは産業党なる秘密結社を想定し、加担した人物を想定する。裁判にするためには実在の人物でなければならない。日頃から反政府的な言動を繰り返す人々はこれにうってつけだ。かくしてシナリオ通りの裁判が幕を上げる。
 無知な民衆はまんまと独裁者の芝居を現実と思い込み、プロレタリアの敵、帝国主義の破壊分子たちに死の報いを要求して、デモ行進をする。この様子を見てスターリンはさぞかし満足したに違いない。検察官は民衆に迎合するかのように革命の大義名分を勇ましく並べ立て、被告人たちを糾弾し、全員に銃殺刑を求刑する。聴衆は拍手喝采だ。
 そして判決。裁判長は検察官に負けず劣らず勢い込んで判決文を読み上げる。気負いすぎて咳き込むほどだ。銃殺刑を含む重い判決文の読み上げが終了した途端、それに歓喜する聴衆たち。スターリンの奸計に嵌められた彼らにとって、いままさに正義が行なわれたのだと感激していたに違いない。他人の死刑を歓喜するという精神性は、観客の立場から見ると狂っているとしか思えないが、それがソ連という国なのだ。
 求刑の際に喝采を浴びた検察官の末路が銃殺刑だったことが最後に紹介されていて、それにまた驚く。裁判長の横でずっとタバコを吸っていた男の正体は何だったのだろう。傍聴席でもタバコを吸う人がいて、裁判の間ずっと誰かの咳が聞こえていた。そういう時代だったのだ。
 いまは裁判中にタバコを吸う裁判官はいないと思うが、権力者が架空の敵を想定して国民を操る事例は未だにある。代表的なのはブッシュ大統領(息子)によるイラク攻撃だ。ありもしないWMD(大量破壊兵器)をあると言い張って、イラクの民間人を何十万人も殺した。権力者による殺人だ。
 本作品で紹介された権力者による陰謀はひとつの典型で、世界各地で同じようなことが起きていると考えるのが自然である。決して特殊な事例ではないのだ。

映画「タネは誰のもの」

2020年11月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「タネは誰のもの」を観た。
 昨年(2019年)の7月に鑑賞したドキュメンタリー映画「SEED〜生命の糧」では、モンサント(現バイエル)のような巨大多国籍企業が農民から種を奪った経緯が描かれていた。強力な除草剤を開発、販売し、その除草剤に耐性を持つGMO(遺伝子組換植物)を開発して特許を取る。GMOは知的財産として保護される。ということは農家の自家増殖が禁止になるということだ。既にインドでは禁止になっていて、農家は毎年モンサントのような巨大多国籍企業から種子を買うしかない。その際にモンサント社製の肥料と農薬もセットになっている。貧しいインドの農家は借金をして買うが、自然に左右される作況のために借金が返せない場合もある。インドでは毎年15,000人の農家が自殺している。そういう作品だった。
 日本ではどうなっているのかをわかりやすく伝えるのが本作品である。2018年の種子法の廃止と2020年の今年まもなく採決される種苗法の改正に対するアンチテーゼが主体で、日本の農作物の安全性と安定供給が脅かされていることについて、元農林水産大臣の山田正彦さんが中心になって解説している。簡単に言えば、安倍政権からスガ政権へ続く自民党は、日本国民の健康をアメリカに売り渡しているということである。
 上映後には山田さん本人が登壇して、来る11月17日の種苗法改正法の成立に向けて全力で反対行動をするとのこと。御歳78歳の山田さんに座り込みは堪えるだろう。
 仕事や用事を抱える我々には座り込みは出来ないが、次の選挙に向けて、国民の健康を脅かす化学薬品まみれの農作物やGMOを排除する政治家に投票することは出来る。誰に投票するか迷った場合は、この基準で判断すればいい。問題なのは、こういう大きな問題をテレビや新聞が報道しないことだ。
 確かに知らなければ反対もできないが、少しでも関心を持てばインターネットその他ですぐに調べることが出来る。知ろうとしない国民に支えられ、スガ内閣の支持率は57%と高水準で推移している。日本国民は、子供がアトピーになったり奇形になったりしても構わないという政治家に未来を委ねたいのだろう。国民は自分たちのレベルに合った政治家しか持てないという原則は未だに真実であり続けるのだ。

映画「ドクター・デスの遺産-BLACK FILE-」

2020年11月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ドクター・デスの遺産-BLACK FILE-」を観た。
 安楽死や尊厳死についての議論は脳死と心臓死の議論と合わせて、人格とは何か、死とは何かという形而上的ないし医学的な議論になり、結着をつけるのは難しい。
 周防正行監督の「終の信託」では安楽死に関わった医師の法的責任が追及される。大沢たかおの冷酷非道な検事ぶりが印象的な作品で、人間の生死に関わる哲学的な問題と倫理に国家権力が介入する不条理を描く。安楽死の問題を考えるときに必ず思い出す名作だ。
 本作品では安楽死を殺人と決めつける刑事が主人公で、綾野剛は短絡的で思慮の浅い筋肉バカの刑事を上手に演じていたが、映画「楽園」や「影裏」の主人公みたいな、複雑な人間性を演じるのが得意な俳優さんにしては、少し物足りない役柄だった気がする。世界観も周防監督の作品よりも大分こじんまりとしていた。
 見どころは木村佳乃の怪演とパンツスーツの北川景子の後ろ姿である。木村佳乃はあまり主演作はないのだが、脇役としてとてもインパクトのある演技をする。本作品ではこの人が最も印象に残った。安楽死についての考え方をもう少しまともに表現する場面があれば、本作品の世界観ももう少し広がった筈だが、少し残念である。北川景子は今回は熱血漢の女刑事。私生活ではクックパッドのレシピ通りに料理を作るとのことで、演技もレシピ通りみたいな気がする。どんな役もそれなりにこなす器用な女優さんではあるが、いつか代表作みたいな作品に出逢えればもう一皮剥けるかもしれない。

映画「ホテルローヤル」

2020年11月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ホテルローヤル」を観た。
 言葉はいつも時代のパラダイムの変遷に引き摺られるように変わっていく。日本語ではイメージが変わって不便になってしまった言葉もある。「保母さん」が「保育士」になるとなんだか畏まってしまうし、「婦警」を使わないと「女の警察官」と言わなければならなくなる。新しい言葉が生まれるのは言葉の本質からして当然だが、旧い言葉も便利なときがある。そしてそれを使うのを咎めようとする風潮はよろしくない。そういった風潮は言葉狩りと呼ばれている。
 いつの間にか「スチュワーデス」が「キャビンアテンダント」になってしまい、それが女性の場合は「女のキャビンアテンダント」と表現しなければならなくなった。いちいち「女の」と言う必要なんかないでしょうと反論する人もいるかも知れないが、小説でも日常会話でも、登場人物が男なのか女なのかが重要になることがある。だから今後も「保母さん」や「スチュワーデス」「婦警」「看護婦」を使わせてほしい。
 その他にも、ここで挙げることは控えるが、現在では差別用語とされる言葉が日常的に使われていた時代があり、その時代の風俗を表現するには、やはり当時の言葉を使ったほうが雰囲気が出る。それに、言わずもがなだが、差別は言葉そのものにあるのではなく、差別する側の不寛容な精神性にある。言葉狩りをして表現が穏やかになっても、差別そのものは潜行して存在し続ける。言葉狩りには表現の幅を自ら狭くするだけの役割しかない。
 さて本作品のタイトルにもなっている「ホテルローヤル」は所謂ラブホテルである。性行為を目的として部屋を借りる施設だ。最近では「ブティックホテル」などと呼ばれているが、その前は「連れ込み宿」とか「連れ込みホテル」などと言われていた。それらよりは「ラブホテル」の方がいい気もするが、その呼称に慣れただけかもしれない。
 実家が蕎麦屋や中華屋という有名人はその情報を隠さないが、実家がラブホテルだったらどうだろうか。職業に貴賤はないといいつつも、世の中には尊敬される職業とされない職業があるのは事実である。実家がラブホテルというのはそれだけでコンプレックスになる。
 波瑠の演じる主人公は割とステレオタイプだが、育った環境が通常とは異なるだけに、主人公まで異常だったら収拾がつかない。雅代をごく普通の人間に設定したので、物語が安定した。
 ラブホテルは外国人観光客には安く泊まれる便利なホテルに映るらしく、コロナ前の渋谷の円山町では結構そういう人たちを見かけた。多分海外にはラブホテルに相当する施設がないのだろう。その用途や目的を教えてあげると面白いかもしれない。ラブホテルも立派な日本の文化のひとつだ。
 両親を含めた周囲の人間たちをなかなか肯定できない主人公だが、ラブホテルを舞台に経験を重ね、年月を経るうちに徐々に男女の性愛を理解していく。くっついたり離れたり、信じたり疑ったりしながら、人間は喜んだり悲しんだりして、そして歳を取っていく。ラブホテルにはその人間模様の典型がある。褒められることではないかもしれないが、悪いことでもない。作品としても悪くなかった。

映画「Au Hasard Balthazar」(邦題「バルタザールどこへ行く」)

2020年11月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Au Hasard Balthazar」(邦題「バルタザールどこへ行く」)を観た。
 19世紀フランスの文豪オノレー・ド・バルザックの「谷間の百合」という小説の中に「C'est la vie」という台詞が出てくる。大概は「これが人生なのです」と少し大仰に訳しているが、英語の「So it goes」と同じように「こんなものさ」と、半ば諦めたような慨嘆の意味合いに訳してもいいと思う。サントリーのテレビCMでヴァンサン・カッセルも「セラヴィ」と言っていた。フランスでは日常的に使う言葉だ。
 本作品のイメージも「C'est la vie」そのままである。そしてこの台詞を言うのに最も相応しい役柄が、ロバのバルタザールだと思う。もちろんバルタザールはロバだから何も喋らないが、擬人化すれば言いそうな台詞が「Au revoir. C’est la vie」(「あばよ、人生なんてこんなもんさ」)なのである。
 秋元順子が歌ってヒットした「愛のままで」の歌詞の中心は、「あぁ、生きてる意味を求めたりしない」である。この言葉に作詞作曲者花岡優平の哲学が集約される。もう若くはないから人生の意味を考えるなんて無駄なことはしない。どうせ人生に意味なんてない。ただあなたがいる。それだけでいい。そういう人生観であり恋愛観だ。この感覚はエディット・ピアフの「Hymne A L'Amour 」(邦題「愛の讃歌」)の歌詞に似ている。「あなたが愛してくれるなら、空が崩れてもいい、地球なんて割れてもいい」ではじまる歌だ。本作品のヒロインであるアンヌ・ビアゼムスキー演じるマリーも「あの人を愛している、死ねと言われればそうするわ」と、エディット・ピアフの歌と同じような台詞を言う。
 本作品に登場するのはマリーの他に、プライドを重んじるマリーの父と平穏無事を願うマリーの母、倫理観がなくて欲しいものは力づくで手に入れようとする若い男、臆病で礼儀正しい男になった幼馴染み、現世の利益のみを追求する老人、退廃的なアル中の浮浪者、法と秩序だけを拠り所とする警察官などである。これらの人々の世界観のぶつかり合いがそれぞれの行動として描かれる。
 マリーにはプライドも平穏無事も現世の利益も要らない、そんなものに何の意味があろうか、ただ男の愛が欲しい。しかし当の男はマリーを欲しがったがすぐに飽きてしまう。マリーよりもロバに執着し、ロバは可愛いから逆に虐める。捨てられたマリーには臆病な幼馴染みの愛は物足りない。プライドを重んじて平穏無事を願った父と母は窮地に追い詰められる。浮浪者に望外の幸運は荷が重すぎた。警察官は銃をぶっぱなす。
 バルタザールの周辺で起きたこれらのドラマすべては、バルタザールにとっては何の意味もない。プライドと平穏無事のつましい両親とその場限りの若い男は正反対だが、人間の生き方なんてどっちにしても大した違いはない。マリーの愛は束の間の気の迷いだ。臆病な幼馴染みは世間の価値観に、警察官は共同体の仕組みに人生を蹂躙されている。アル中の浮浪者が本当に望んだのは金ではなかった。
 人間はロバの前では本音を隠さない。本作品は登場人物が本音しか言わないから、逆に難解に感じられるかもしれないが、噛み砕いてしまえばそこら辺に転がっている人生ばかりだ。愛は言葉で飾らなければ続かない。本作品が真実だとすれば、世の中の幸せは修飾語によって美化されているに過ぎない。
 ロバの視点を借りて人生の真実に迫った秀作である。

映画「パピチャ 未来へのランウェイ」

2020年11月11日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「パピチャ 未来へのランウェイ」を観た。
 日本にも戦前には特高(特別高等警察)という組織があって、天皇制政治に反対する人々を取り締まっていた。「蟹工船」で有名な小林多喜二は特高に捕えられ、拷問を受けて獄死した。太平洋戦争が行き詰まるにつれて国粋主義が国中に蔓延して、派手な格好をした女性を愛国婦人会が注意するような場面もあったようだ。酷い時代だった。
 しかし本作品のアルジェリアの状況は、悲惨さの点で日本の戦前の状況を遥かに上回る。それは日常に武器を携えたイスラム原理主義のゲリラがいるということだ。イスラム原理主義者は男女の別なく存在し、暴力的、攻撃的である。時として重装備だ。安全な場所などどこにもない。
 主人公ネジュマの服飾デザインに対する情熱は並ではない。服飾と言えばパリコレクションに代表されるようにフランスのパリが究極の発信源である。アルジェリアは帝国主義時代のフランスのアフリカ横断政策によって19世紀のはじめ頃からフランスの植民地になっていて、フランス語が広く行き渡った。現代では公用語はアラビア語だが、一般で使われるのはフランス語だ。本作品のネジュマもフランス語を話す。服飾デザインをやりたくてフランス語が話せるなら、パリに出て勝負してみると考えるのが当然のような気がするが、ネジュマはそうしない。そして武装ゲリラがあふれるアルジェリアで無謀な行動に出る。
 イスラム原理主義の恐ろしいところは、その不寛容さにある。一般に人間が腹をたてるのは、主に被害意識である。物理的、金銭的に損をしたとき、自分や家族を身体的に傷つけられたとき、人格を蔑ろにされて自尊心を傷つけられたときなどだ。しかしイスラム原理主義者の怒りは自分の被害にとどまらない。他人が反イスラム的であったりハラムであったりすることが我慢ならない。そして彼らは武器を持っている。ネジュマのように、愚かな人たちが信仰をたてに暴走しているだけと割り切るにはあまりにも危険である。
 弱い人は自分の価値観を信じきれない。だから自由を恐れる。生きる拠り所がないからだ。だから自由を投げ出して宗教に価値観を委ねてしまう。教えられたとおりに生きるならそれほど楽なことはない。しかし自由への未練は残る。だから自分が捨ててしまった自由を謳歌する人が許せない。街でヘイトスピーチをする人々と同じ不寛容な精神性である。
 イスラム原理主義者に限らず本作品のような精神性が世界に蔓延していて、更に増え続けているとすれば、人類から戦争は永久になくならない気がしてくる。現実主義者はだから武器が必要なのだとせっせと兵器開発に勤しむかもしれないが、武器があるから原理主義者が過激になるという見方もできる。日本で武器の売買が自由だったら、重大犯罪の発生数は現在の比ではないだろう。武器を取り締まることが犯罪を重大化させないことでもある。ナイフや包丁で人を殺すのは大変だが、大型の拳銃なら非力な人間でも人を殺せる。
 人間が臆病なのは臆病であることが生き延びるのに必要だからだ。武器は人間から臆病さをなくし、変な勇気を与えてしまう。寛容と言葉による話し合いを放棄して暴力で他人の自由を封じ込めるのが武器だ。ヘミングウェイが「武器よさらば」を発表したのが100年近く前の1929年。何年経っても人間は弱くて武器に頼る。人類に平和は訪れない。

映画「AK-47最強の銃 誕生の秘密」

2020年11月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「AK-47最強の銃 誕生の秘密」を観た。
 ロシア人から「祖国」という言葉を取り上げたら、他にどんなテーマが残っているのだろうか。そう思うほどロシア文学やロシア映画には「祖国」という言葉が多く出てくる。「我が祖国」「愛する祖国」「祖国のために」といった具合だ。「祖国」の象徴はスターリンではなく「ロシアの民衆」だ。ロシアでは「祖国のために」尽力するという言い方がいまでも日常的に使われるようだ。
 日本では戦前の「お国」という言葉に当たるのだろうか。日本では「ロシアの民衆」の代わりに「天皇陛下」が「お国」の象徴である。天皇陛下の国ということで「皇国」という言葉も使われた。しかし日本では「お国のために」という言葉は「非国民」という言葉同様、もう殆ど使われない。スポーツの日本代表選手が「お国のために」頑張りますとは言わないだろう。代わりに「日の丸を背負って」といった言い方はするが、国のために頑張るという意味ではない。そもそも国のために頑張るといっても、具体的なイメージが湧かない。それよりも協力しくれる人や応援してくれる人だとか、自分のために頑張るといったことのほうがわかりやすい。現代では、スポーツ選手が負けても日本の名誉を傷つけたということにはならない。しかし戦前は違ったのかもしれない。
 さて本作品は「祖国のために」武器を開発する話である。戦線で多くの人間を殺してきたミハイル・カラシニコフが、壊れにくくてどんな状況でも撃てる銃を目指して作ったのがアサルトライフルAK-47である。ソ連軍の制式銃だ。同じアサルトライフルでもアメリカ軍の制式銃はゴルゴ13でお馴染みのM16である。イスラム教の過激派は反アメリカ主義が多く、必然的にロシア製のAK-47を使うことになる。砂漠の砂にまみれても撃てる銃だから、場所柄からして重宝するのだろう。
 武器の目的は他人を殺傷することである。カラシニコフは「祖国のために」と言いつつ、結局は自分の承認欲求を満たすために優れた武器の開発をした。戦争が終わると武器開発ができなくなると危ぶんだほどの武器開発オタクである。カラシニコフの頭には殺される人やその家族のことなど少しも浮かばないのだろう。
 オクテの恋物語も銃開発のライバルも「祖国のために」という偽善の上にドラマがあるような気がして、鑑賞中にずっと違和感を感じていた。銃に限らず、武器開発者というのは人間や人類に対する想像力が欠如した武器オタクなのかもしれない。沢山の人を殺してきたカラシニコフが自分の子供の誕生を喜ぶのは偽善である。同じような偽善をアメリカのトランプ支持者にも感じる。全米ライフル協会がトランプを支持するのは、最後は武器で紛争を解決すればいいという戦争主義の精神性のためである。そしてミリシアを始めとする武装した市民たちも、カラシニコフと同様に人間や人類の不幸にかかわる想像力が欠如している。
 自分が正しくて相手が間違っているという主張は、相手は悪だ、悪は敵だ、敵は殲滅しなければならないという短絡的な結論に陥る。自分と他人の主張が異なっていても、相手がそれを主張する権利を認めなければならない。言論の自由である。こちらにも言論の自由があるから、互いに話し合って解決策を決める。それが議会制民主主義だ。武器というものは究極のところ民主主義を否定し、人間の自由を否定するものだ。本作品は好きになれない。

映画「461個のおべんとう」

2020年11月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「461個のおべんとう」を観た。
 松本穂香主演の「みをつくし料理帖」と同じく、観るとお腹のすく映画である。「みをつくし料理帖」が時代考証を踏まえた料理づくりだったのに対し、こちらは現代劇で、おべんとうという制約はあるものの、比較的自由自在に作ることができる。フードコーディネーターの腕の見せ処であり、主人公鈴本一樹を演じた井ノ原快彦が練習の成果を発揮するシーンであった。
 卵というのは万能の食材で、至る処で使われるし、どんな食材との組合せでもそれなりに美味しい。ハンバーグやトンカツにも使われるし、お菓子にもたくさん使われる。最近はTKGなどと言って、そのままご飯に割り落として食べる昔ながらの食べ方が見直されている。しかしなんと言っても玉子焼きとオムレツだ。最も卵のそのままに近い料理でありながら、最も作るのが難しい料理である。はじめのうちはテフロン鍋で焼いていた一樹お父さんも、こだわりが高じて銅鍋に手を出す。銅鍋で作る玉子焼きは大変に難しいが、テフロンに比べて熱伝導がいいので短時間でホワッと焼ける。その食感の違いに、使い方が難しくても後戻りできない。ちなみに当方の卵と玉子の使い分けは、材料は卵、料理は玉子の漢字を使っている。
 さて思春期は自意識の肥大に理性が追いつけなくなってしまう年頃で、本作品の虹輝のように高校入試を失敗してしまうと人格が崩壊してしまう例もある。当方の知り合いにも高校受験に失敗して自殺した女の子がいた。普段はそんなふうに見えなかったので衝撃を受けたが、真相を確かめる術がなかった。
 本作品の虹輝は割と弾力的な精神性の持ち主で、親に反発する部分と尊敬する部分を合わせ持ち、それを自覚している。精神的に余裕があるのだ。だから自殺したり自棄になったりグレたりすることなく担々とやり直しの努力ができる。その余裕は親が経済的に切羽詰まっていないことと、既存の価値観を押し付けず、好きなことをとことんやれという自由主義的、個人主義的な教育方針であることから生まれていると思う。
 しかしそれでも思春期だ。自分の人生を生きるのは自分しかいないという覚悟がいまひとつ出来ていない部分がある。後押しをするのは親の役目だが、ともすれば価値観の押しつけになるところを、何も言わずに弁当を作り続けるところが素晴らしい。虹輝にとってゴールのないマラソンのように見える将来だが、走り続ければ見えてくる景色もある。結局は本人の足で走るしかないから、親は自分の価値観で風を送るより、倒れないように横について並走するのがいい。それが親の優しさであり愛情だと思う。
 井ノ原快彦は普段着の人間を演じるのがとても上手い。アド街ック天国の司会をやっている雰囲気と殆ど変わらないのがいい。虹輝を演じた道枝駿佑は歌が上手い。思春期の少年は自意識にとらわれすぎて、逆に無表情になる。しかし納得したときはとても元気に笑顔で返事をする。その落差がそのまま物語のメリハリになる。なかなか気の利いた演出だと思う。森七菜は最近あちこちで見かける。物怖じしない演技は今後も期待できるだろう。
 本作品には一樹お父さんの愛情が満ちていて、それがお弁当の形をとって出現する。「みをつくし料理帖」ではごりょんさんが「料理は料理人の器量次第」と啖呵を切るが、お弁当も、食べる人のことを思う作り手の愛情次第なのだろう。抱えきれんばかりの愛情を漸く受け止めた虹輝は、感情が溢れてもう泣くしかない。全体に緩やかで穏やかでほっこりする作品だった。ああ、お腹が空いた。


映画「おらおらでひとりいぐも」

2020年11月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「おらおらでひとりいぐも」を観た。
 設定が面白い。原作は未読なので同じなのかは不明だが、図書館の司書のおばちゃんがすすめるのは大正琴、太極拳、卓球と、全部「タ」ではじまるものだ。主人公の名前は日高桃子で、何のメタファーかはわからないが、日高さん、大正琴やんない?というのはゴロがいい。
 それにもうひとつ、桃子さんは意外に人が悪い。オレオレ詐欺の電話を軽くあしらう場面のあとで、疎遠にしている娘から金をねだられる場面がある。詐欺で250万円も取られたと娘から非難されるのだが、実はそれは桃子さんが予め予防線を張っていた訳だ。人の悪い桃子さんは心の中で舌を出していたはずだ。桃子さんの豊かな想像力が発揮されるのは娘に嘘を吐くことだけではない。
 1977年放送のテレビドラマ「ルーツ」は黒人の作家アレックス・ヘイリーが自分のルーツを辿る内容で、アフリカから連れてこられたクンタ・キンテまで遡るが、桃子さんが遡るのはふたつ。ひとつは岩手県の田舎を飛び出してから今に至る自分の半生であり、もうひとつは自分も含めた人類がよって来るよりも遥か過去、先史時代である。テレビで紹介されておなじみのアノマロカリスが古生代を象徴するアイコンとして描かれ、人類が登場してからはマンモスがアイコンとなる。
 炬燵にちょこんと座ってお茶をすする桃子おばあちゃんだが、その頭の中では想像力が時空間を超えて、宇宙全体の過去から未来に広がっている。生身の人間として日常生活を慎ましく営みつつ、一方では知性が探求を続けているというその多面性が、桃子さんという人格をとても深い存在にしている。思春期の少女のように自由を求める一方では、娘を軽くいなしてしまう老獪さも持っている。あれもこれも、みんな桃子さんなのだ。
 田中裕子は桃子さんという人間の多面性をすべて見せる見事な演技だった。そういえば田中裕子も「タ」ではじまる。蒼井優はまだ世界観の狭かった青春時代を若々しく演じる。東出昌大は例によって思い込みの激しい単純な男をステレオタイプに演じる。昭和の典型的な亭主をよく表現できていたと思う。
 人間は多面的で矛盾だらけで、正直でもあり狡猾な嘘つきでもある。そしていくつになっても人生に悩む。大江健三郎の「洪水はわが魂に及び」では、主人公大木勇魚は最期に鯨の魂、樹木の魂に対して「すべてよし!」と挨拶を送る。この宇宙の生きとし生けるものすべてを力強く肯定する言葉だ。本作品の世界観はそれに似ていて、桃子さんの存在自体が素晴らしいと主張し、人間の生と死を力強く肯定しているように思えた。