三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ばるぼら」

2020年11月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ばるぼら」を観た。
 二階堂ふみは今や日本を代表する若手女優である。最初に注目したのは映画「脳男」で、当時19歳ながら迫力のあるテロリストを存在感十分に演じていた。その後鑑賞した映画では「私の男」「SCOOP!」「何者」「翔んで埼玉」「人間失格」そして本作品と、まったく異なる役柄ながら、それぞれに上手に演じ切る。
 稲垣吾郎は前から演技が上手だと思っていたが、本作品では二階堂ふみの演技に引っ張られるように、これまでより一段上の演技ができていたと思う。最初から最後までほとんどのシーンに出ずっぱりだが、シーンごとに雰囲気が変わっていて、主人公美倉洋介の揺れ動く心が伝わってくる。
 さて作品は本当にこれが手塚治虫の原作なのかと疑うほどエロティックでデカダンスで反権力である。美倉洋介は売れるための小説を器用に書きこなす売れっ子作家だが、自分の作品に文学的な価値がないことを自覚してもいる。バルボラと出会って真正面からそれを指摘されて、洋介は変わっていく。
 世の中は上辺を飾らない人間には生きづらい。高級マンション、高価な洋酒。洋介はいつの間にか自分も既存の価値観に染まってしまっていたことに気づく。バルボラは女神だ。洋介が権威に絡め取られようとするピンチに現れた。バルボラを拒否してこのまま欺瞞の人生を送るのか、バルボラを受け入れて真実を追求して社会から追放されるのか。どちらも地獄へ続く道だ。
 このあたりに手塚治虫の心の闇が見える。つまり、手塚治虫が描いていた「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝」など、権威や権力の側に立つような漫画は、本来描きたい漫画ではなかったのではないかと思われる。あまり知られていないかもしれないが「バンパイア」をはじめ、既存の価値観に異を唱えるような漫画もかなりある。大量の仕事を続けながら、家族を蔑ろにしない、社会的にもきちんとした大人でありつつ、内に抱える闇を漫画にして吐き出していたような、そんな気がする。
 本作品は実写だけに漫画よりもずっと暗い雰囲気で、ひと息つく場面もない。転がり落ちるように社会を逸脱していく洋介をなんとか既存の安定社会に引き戻そうとするのが石橋静河が演じる加奈子で、建前社会の窓口としての役割を上手に演じているが、一度道を外れたアウトサイダーがインサイドに戻ることはない。
 ラストシーンもエロティックで、二階堂ふみのポテンシャルを余すところなく存分に撮り尽くした印象だ。とても美しいラストシーンである。人生の最期に死が待っている以上、ハッピーエンドは本来的にありえない。誰でも心に冷たく凍った闇を抱えて震えている。本作品はその闇を少しだけ溶かしてくれた気がした。それが手塚治虫の優しさなのかもしれない。

映画「泣く子はいねぇが」

2020年11月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「泣く子はいねぇが」を観た。
 仲野大賀は前作の「生きちゃった」に続く情けない男の役だ。よほどこういう役が合っているのだろう。主人公たすくは、これといった取り柄がなく、気が弱くて人に合わせて流されるままに生きている。世界や人生について自分で考えるということをしないから世界観も人生観もなく、生き方にも行動にも一貫性がない。普通なら結婚などできるはずのない男だが、何を間違ったのか、ことねと結婚して子供が生まれたところから映画がはじまる。
 吉岡里帆は昨年(2019年)の9月に鑑賞した映画「見えない目撃者」の演技がとてもよかったので、今年の1月に東京芸術劇場での舞台「FORTUNE」を観に行った。森田剛や田畑智子、それに根岸季衣や鶴見辰吾などの芸達者を相手に堂々とした演技をしていて、カップ麺のCMの可愛らしいキャラクターの対極にあるような複雑な役柄をこなせることがわかった。
 本作品ではとことん馬鹿なたすくとうっかり結婚して子供までできてしまった人生に、心からうんざりして悶々とする若い母親ことねを好演。後悔というか怒りというか、どうしようもない感情がもろに伝わってきて、たすくでなくても立ち尽くす以外にない。逃げ出したいたすくは突拍子もない行動に出てしまう。
 たすくのような若者は少なくないと思う。「何も考えていないでしょ」とことねから指摘されるまでもなく、そもそも考える習慣がない。その上、責任を引き受ける覚悟がない。何かあると逃げ出すし、知らんぷりをする。そのくせ自分のやりたいことは主張する。
 人間は道具と違って、目的がなくこの世に生み出される。地元に縛られる必要はないし、国家に役立つ人間になる必要もない。たすくの中にはそういうアウトローのような部分があって、自分でもわからないまま地元社会のパラダイムから逸脱していく。夫や父親といった、社会が求める役を演じたくないのだ。地元の文化そのものであった父親から逃げ出したい気持ちもあっただろう。そこにことねからの最後通牒を突きつけられたら、突拍子もない行動に出たのも頷ける。
 その後の長い漂流のあと、漸くたすくは悟るのだ。故郷に自分のいる場所はない。東京にもない。どこへ行くのかわからないが、どこかへ行く。自分の居場所は自分で決める。せめて娘には別れの挨拶が言いたい。出禁の自分が娘に挨拶する方法はひとつだけだ。地元の文化を使わせてもらう。このあたりは仲野大賀の渾身の演技である。
 必死に叫ぶたすくを迎えることねの表情がいい。台詞なしのこのシーンを吉岡里帆は顔だけで見事に表現してみせた。何かを覚悟したたすくの気持ちを推し量り、今夜だけは娘に挨拶するのを許してやる。別れた夫に対する最後の優しさだ。それまでブスにしか見えなかったことねがこのときはやけにきれいに見える。吉岡里帆の新境地である。
 地元社会のパラダイムを代表した柳葉敏郎、地元社会を少しだけはみ出し加減に生きる器用な若者を演じた寛一郎、息子を無条件に受け入れる母の余貴美子、真面目で寛容な兄の山中崇の脇役陣がとてもよかった。
 仲野大賀は本作品でも「生きちゃった」でも妻に捨てられて未練たらたらという情けない夫を演じている。どちらも無表情のシーンが多かった。人間は困難に直面すると無表情になるから、仲野大賀の無表情の演技は正解だ。しかし表情を読み取れないために、観客は想像力をフルに動員しなければ作品を理解できない。映画はエンタテインメントだから、もう少しだけ観客にもわかるような演出がよかったかもしれない。