三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「私はいったい、何と闘っているのか」

2021年12月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「私はいったい、何と闘っているのか」を観た。
 
 常に主人公の主観でストーリーが進んでいく。ほぼ一人芝居のような映画であり、主役には高い演技力が要求される。その点安田顕の演技力は心配ない。自省的すぎて心配だらけの伊澤春男を、観客は安心して観ていられる訳だ。
 家族以外の登場人物はたいてい類型だが、ファーストサマーウイカが演じた高井さんだけは特異な世界観の持ち主で、我が道を行く雰囲気にとても好感が持てた。最初見たときはサマーウイカだと解らなくて、女性は化粧で千変万化するものだと改めて了解した。
 家族で一番目だったのが子役だが百キロくらいありそうな亮太くんである。この子のキャラ設定がケッサクで笑える。小池栄子はいつもどおり上手に脇役を務める。お姉ちゃんの小梅を演じた岡田結実の演技力がかなり向上していて、少し驚いた。ワンパターンの岡田父とは逆に演技の幅が広い。本作品でも春男から譲り受けたのだろうと思わせる優しさを見せていた。特にタクシーから降りて振り返るときの表情がとても素晴らしい。お見逃しなく。
 
 自意識は時として行動を変化させる。他人からどのように見られるかを意識するあまり、したくもないことをしたり、逆に踏ん切りをつかせたりする。春男の場合は自意識が過剰だから、ほとんどの行動が他人の目を気にしたものとなる。するとオリジナリティがなくなって平凡な人間になってしまう。あるいは抱え込まなくてもよかった負担を抱え込む。
 それでいいのだと、それが俺の生き方なんだと自分を納得させる春男は、ある意味で悲しい。人生の悲哀がある。しかし春男は、別の生き方があったのではないかとなどとは露ほども考えない。そして自分は幸せだと思うところはとても立派である。どんな選択であれ、後悔せずに自分がした選択を受け入れる。女であれ子供であれ、一旦引き受けたものは一生引き受け続けるのだ。春男は天晴れである。
 
 春男が天晴れなら、世の中の人はたいてい天晴れだ。春男は自殺せず、くじけず、時々大食いをする。お腹が出ても、陰毛に白髪が増えても、そういうものだと納得するのだ。春男の力強さがそこにある。何でも否定せずに肯定すれば、難局を乗り切れることもある。
 情けないような、優柔不断なような春男だが、だんだん頼もしく思えてくるから不思議だ。性格俳優としての安田顕の面目躍如である。平凡でもいい、夢がありきたりでも、目標が身近すぎてもいい。平凡な人間の平凡な生き方を全力で肯定するのだ。本作品自体もまた、天晴れである。

映画「ドント・ルック・アップ」

2021年12月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ドント・ルック・アップ」を観た。
 
 アメリカ映画にしては珍しく、権力者と大富豪を徹底的に茶化した作品である。それもそのはず、監督、脚本は「バイス」のアダム・マッケイだ。同監督の「マネー・ショート 華麗なる大逆転」もそうだったが、基本的にコメディ作家である。反骨精神がそこはかとなく感じられるが、エンタテインメントとして十分に成立する作品をうまいこと作っていた。本作品にも、反骨精神でエスタブリッシュメントを笑い飛ばす豪快さがある。
 
 物理学は数式で記述される。相対性理論も量子力学も、論文の殆どが数式で埋め尽くされている。相対性理論を入門書から読んだことがあるが、初級から中級になると数式が増えていき、ローレンツ変換の数式を見たときは、自分には理解不能だということが理解できた。
 天文学も物理学と同様に数式が重要な役割を果たす。主人公ランドール・ミンディ博士も、教え子のケイト・ディビアスキーが大発見をした彗星の動きについて、数式をもとにした解説をする。しかし難解すぎて一般人には理解できない。大統領にも首席補佐官にも理解できない。
 そして、理論を緻密に積み上げてきた科学者よりも、なんとなくでしか理解できない大統領の方が圧倒的に立場が上だ。このギャップが本作品の面白さのコアになっている。世の中はいつでも、バカが利口を支配しているのだ。
 
 数学をもっとやっておけばよかったと思うのは、大人になって暫くしてからだ。世の中を理解するためには、数字を紐解かねばならない。紐解くために必要なのが数式である。どの数字をどの数式に当てはめるとどんな結果が出るのか。全体像を浮かび上がらせるための数字を導き出すにはどうすればいいのか。グロスとネットの関係がわかれば国内総生産の中身も理解できるかもしれない。
 しかし多くの人々は数学に精通していない。相対性理論を記述する数式の羅列を見ても何も理解できない。そして大抵は、理解できなくてもいいと思っている。学者が難しい話を始めると、理解しようとする前に遮って、簡単に説明してくれと言う。勢い、結果だけを伝えることになり、理論が置き去りにされる。学者にとって重要なのは結果を導き出す理論であり、元になったデータの確からしさである。
 しかし人々は結果だけを求める。結果が間違っていたら学者を非難し、当たっていたら事態の対処に追われる。もし人々の殆どが数学に精通していたら、そうはならない。結果よりも理論に興味が注がれ、多くの人が結果についての蓋然性を自分で把握することが出来るだろう。しかし教育レベルが低すぎて、誰も理論を理解しようとしない。
 
 地球温暖化について、どれだけの人が数式で記述できるだろうか。ほとんどの人が皆目見当がつかないだろうし、かくいう当方にもできない。北極の氷山が解けても海水面が上昇しないことはアルキメデスの法則で理解できるが、陸地の氷河や南極の氷が解けて海に流れ出したら、間違いなく海水面は上昇するだろう。それを数式で記述してみたい。温室効果ガスの増加と気温上昇の関係についても記述してみたい。本当なのか嘘なのか。やっぱり数学をもっとやっておけばよかった。
 
 ディカプリオは世間知らずの学者を好演。ジェニファー・ローレンスは本作ではセクシーな役をケイト・ブランシェットに譲って、ひたすら天文学に励む正義感の強い学生を熱を込めて演じている。ローレンスの新しい一面が見えた気がする。メリル・ストリープはアホな大統領を楽しそうに演じていた。この人はもう名人だ。他の役者陣についても、作品の世界観がわかりやすいから、皆のびのびと演じているように見えた。アメリカのコメディ映画としては秀作。

映画「ローラとふたりの兄」

2021年12月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ローラとふたりの兄」を観た。
 
 ほのぼのとしたコメディである。主役の三兄妹は別々に住んでいて、会うのはたいてい両親の墓の前である。そこで互いに近況を伝え合う。それぞれの人間関係を築いたり壊したりするが、一方で兄妹の繋がりはとても大切にしている。といってもそこはフランス映画だ。家族主義的な価値観を礼賛する作品ではない。
 3人とも一生懸命に生きているのだが、上手くいかないことだらけである。それに自分の都合を優先して兄妹の気持ちを疎かにするところが多々ある。長男の嫁を含めた女性たちは言葉尻に敏感すぎて、それが原因で屡々揉めることになるのだが、裏を返せば男たちが言葉遣いに鈍感すぎるということでもある。
 大した事件も起きず、時間の経過も早かったり遅かったりして、なんとも自分勝手な映画ではあるが、総じて、フランス人の人生に対する余裕のようなものがそこはかとなく感じられる。次男のピエールには出来すぎの息子ロミュアルドがいて、人生の幅を広げてくれているのだが、ピエール自身はそれに気づいていない。ロミュが母親ではなく父親といることを選んだ理由が何となく見えてくるのも面白い。

映画「189」

2021年12月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「189」を観た。
 
 誤解を招くかもしれないが、嫌なものや場所からは、さっさと逃げたほうがいいと思う。逃げずに立ち向かえというのは、他人事に対する無責任な言い方だ。「逃げるは恥だが役に立つ」というテレビドラマがあったが、逃げることは決して恥ではないと思う。
 
 労働基準法を守らないブラックな企業がやっていけるのは、逃げない人が多いからだ。ブラック企業というのは労働基準法の基準とかけ離れている労働条件の企業のことである。長時間労働で超過勤務手当も休日出勤手当もなし。社長の命令は絶対で、殴られたり怒鳴られたりする。夜中の呼び出しもある。有給休暇の取得を申請すると寝言を言うなと怒鳴られる。社長の周囲の幹部は皆イエスマンばかりである。ほとんど暴力団だ。
 そういう会社は当方が知っているだけで数社ある。社員は社長に怯えながら働いている。退職する人が多いから年中人手不足だが、代わりの社員が入社してくる。社長の洗礼を受けるまでは何も知らずに働くが、昇格昇給すると、しばらくして社長に怯えながら働くことになる。
 ブラック企業だと解っていても、そこで築いた地位や転職の苦労などを考えたり、仕事に対する強い責任感があったりして退職できない人がいる。休むのは悪だという雰囲気が会社全体に蔓延していて、社員は体を壊し、心を病む。そしてようやく退職していく。もっと早く辞めればよかった。辞めても代わりの人が仕事を引き継ぐ。会社は潰れない。しかし社員の殆どが一緒に辞めたらさすがに会社は立ち往生する。そうなればいいと思うのだが、何故かそうはならない。ドストエフスキーが言ったように、人間は不安と恐怖を愛するのだろうか。
 大人でもブラック企業から逃げ出すことができないくらいだ。まして子供は親から逃げることなど思いもしない。衣食住を親に依存しているから離れようがないのだ。それでは、虐待されている子供を誰が助けるのか。
 
 本作品は児童福祉司の物語である。職場は児童相談所で、省略して「児相」と呼ばれている。都道府県や政令指定都市の機関であり、知事や市長が最高責任者である。予算は都道府県議会や市議会で決定される。
 鑑賞してすぐに思うのは、虐待事例の多さや任務の過酷さに比して、児相の予算が少なすぎるということだ。無駄な予算まで計上する必要はないが、必要な受入人数や対応人数は確保しなければならない。それが出来ていないから、事例過多、受入過多に陥る。児童の虐待や虐殺が後を絶たないのは最高責任者である知事や市長の怠慢であることは間違いないのだが、本作品の主眼は別のところにあるようだ。
 
 中山優馬が演じた児童福祉司の坂本大河は、その真面目な性格ゆえに、子供が親に殺されたのは自分のせいだと思ってしまう。同じように自分で責任を感じてしまう職員がいる一方、マニュアル通りに定刻の仕事を淡々とこなしていく職員もいる。
 大河のような熱血漢は、熱が冷めたら自分が病んでしまう。そして辞めていく。実は児相を回しているのは、淡々と仕事をこなす職員たちなのである。予算や設備や人員が限られた条件の下、出来る限りの仕事をする。しかし無理をしない。前川泰之が演じた安川チーフをはじめ、普通の職員の普通の仕事に価値があることを、観客として理解できたと思う。
 
 児相はひとつひとつの案件が同じではなく、それぞれに異なった対応が要求される。しかし出来ることと出来ないことがある。だから警察との連携が大切で、互いに少しずつオーバーラップしながら案件にあたらないと上手くいかない。自分の仕事はここまでと互いに線を引いてしまうと、間にできた溝に案件が落ちてしまう。そして子供が死ぬ。
 大河が一人前の児童福祉司となって活躍するようになるための第一歩が本作品である。児童が親に殺されてしまった事案は、大河の心から除かれた訳ではない。一生忘れない心の傷だ。これからも心の奥深くに抱えて生きていく。
 大河はどんな児童福祉司になっていくのか、そしてどんな事案に向き合うことになるのか。是非とも続編の製作をお願いしたい。その場合は映画よりも多くの人が視聴するテレビドラマがいいかもしれない。有権者は児童福祉司の仕事の実態を知るべきだと思う。

映画「The song of Names」(邦題「天才ヴァイオリニストと消えた旋律」)

2021年12月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「The song of Names」(邦題「天才ヴァイオリニストと消えた旋律」)を観た。
 
 仏教の開祖であるゴータマ・ブッダは、ひとつの著書も残さなかった。残したのは口伝のみである。彼の説法は常に口頭で行なわれた。経典に残したのは後世の弟子たちである。キリスト教のイエスも同じだ。文言をパピルスに刻んで聖書としたのは、やはり後世の弟子たちである。イエス自身は教えを始めて以降は文字ひとつとして書かなかった。
 法事で禅宗の坊さんが歌うのを聞いたことがある。お経の中には節がついているものがあるとのことだ。この坊さんの歌がやけに上手くて、テノール歌手の歌を聞いているみたいで大変に見事だった。
 ベトナムに行った際にもベトナムの坊さんのお経を聞いたことがある。日本のお経よりもキーが高くて、語尾が上がるようなアップテンポなお経だった。寺を訪れたときに聞いたのでそれがお経だと解ったが、別の場所で聞いたらベトナムのラップかと思ったかもしれない。
 
 本作品ではユダヤ教のラビが歌う。しかしラビが歌ったのは旧約聖書ではなく、強制収容所で亡くなった人々の名前だった。原題の「The Song of Names」はこのシーンに由来するのだろう。
 本作品のフランソワ・ジラール監督が2016年4月に演出した舞台「猟銃」をPARCO劇場で観劇したことがある。記憶が少しあやふやだが、中谷美紀の独演で、赤いドレス、下着姿、和服と、ゆっくりと着替えながら台詞を言い続ける。服装ごとに違う3人の女を、中谷美紀がひとりで演じるというややこしい劇だったと思う。井上靖の微妙な叙情がいまひとつ伝わって来なかったのが残念だった記憶がある。当方の感受性不足かもしれない。中谷美紀は2007年のジラール監督作「シルク」にも出演していて、流暢なフランス語を喋っていた。
 
 本作品は映画だから舞台よりもわかりやすい。少年マーティンは最初ドヴィドルに嫉妬するが、あらゆることで実力が違いすぎて、嫉妬はすぐに尊敬に変わる。罰を恐れて世の中に盲従するマーティンに対して、ドヴィドルはどんなルールや基準からも自由だ。二十歳を過ぎても友情は続くが、自由なドヴィドルと常識や規範に縛られるマーティンという図式は変わらない。
 マーティンがドヴィドルに願うのは、自分との約束だけは守って欲しいということだ。しかしいちばん大事な約束が破られてしまう。それを忘れることが出来ないまま35年が経過したある日、コンクールに出たひとりの少年が松脂の容器にキスをするのを見て、マーティンの追跡劇がはじまる。ドヴィドルの癖と同じだったからである。
 ドヴィドルと関係した3人の女たちが登場する。ドヴィドルの天才に魅せられ、ドヴィドルの我儘を愛し、ドヴィドルの人生を受け止めた女たちだ。マーティンはドヴィドルを追いかけ、35年前の真実を知る。すべての空白が埋まれば、それ以上ドヴィドルを追いかける理由はない。
 ドヴィドルを変えたのがラビの歌だ。4年前にユダヤ教を捨てて無宗教となった筈のドヴィドルだが、たった一度聞いたこの歌によって、ユダヤ教の教徒となる。しかもとびきり敬虔な教徒だ。
 ドヴィドルはヴァイオリンでは救われなかったのだ。ヴァイオリンの演奏がもたらすのは人々の賞賛と金銭だが、ドヴィドルにとってそれはゴミでしかない。マーティンはそこだけがどうしても理解できない。世界的なヴァイオリニストになれたというのに、その道を捨てたドヴィドル。彼を救った信仰とはどんなものなのか。覚束ないラテン語で祈りを唱えてみるマーティンなのであった。
 
 ジラール監督はラビの歌声をハイライトシーンにしたかったのだと思うが、やはり目立つのはヴァイオリンの演奏シーンだ。ヴァイオリンが演奏されるたびにストーリーを離れて思わず聞き入ってしまう。どの演奏も驚くほど音色が美しい。演奏したレイ・チェンは21世紀を代表するヴァイオリニストだ。本物の天才である。

映画「パーフェクト・ケア」

2021年12月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「パーフェクト・ケア」を観た。
 
 悪党と被害者と無能な裁判官だけが登場する。善人はほとんど登場しない映画である。悪党は合法マフィアと非合法のマフィアだ。いずれも血も涙もないが、必要に応じて涙を流すフリをする。ほぼ白人しか登場しない映画で無能な裁判官を黒人にしたのはどうしてか。悪意を感じてしまうのは当方だけではないと思う。
 裁判所の命令は絶対だ。期限内に異議申立をしても、命令が覆ることはない。裁判官も役人だから、自分の間違いは絶対に認めない。認めるのは死ぬときだ。そういえば日本でも誤審を認めて自殺した裁判官がいた気がする。
 
 介護ビジネスの業者が法定後見人になるというアイデアは素晴らしい。しかし介護ビジネスを営んでいれば合法的な後見人になれて、財産を管理することができるというのは本当だろうか。日本でも同じことができるのだろうか。もしかすると既にやっている介護事業者がいるのだろうか。業者と医者と裁判官が結託すればどの国でも出来そうな気がする。邦題の「パーフェクト・ケア」は身柄を押さえて財産も管理するという意味で、原題よりも秀逸なタイトルだ。
 
 日本にも法定後見人という制度はある。成年後見制度だ。親族でなくても市区町村長や検察官が申立をすることが出来る。裁判官や検事を巻き込むのは難しそうだから、介護事業者は医者と市区町村長に金を渡して結託すればいい。金持ちの老人を狙って申立をし、財産を管理する。高額の介護費用を請求して、管理している財産から合法的に振替える。財産がなくなる頃に死んでもらえば部屋が空く。
 
 生活保護制度を悪用した貧困ビジネスというのがあるのは有名な話だ。住所がないと生活保護を貰えないから、アパートを借りてひとり1畳程度のスペースに分割してホームレスを住まわせて住民登録をする。支給日にはホームレスを行列させてひとりずつ現金で受け取らせて、住居費として巻き上げる。ホームレスの手元に残るのは1ヶ月生きていけるかどうかのはした金だ。それでもないよりはいい。取り締まるのは生活保護を支給するのと同じ役人だが、相手はヤクザだ。暴力を恐れて逆らわない。警察の組対係が取り締まればいいのだが、これは民事だとして取り合わない。警察の中にはヤクザと裏でつながっている人間もいる。持ちつ持たれつだ。しかし忘れてはならないのは、生活保護費は国民の税金だということである。
 
 主人公マーラ・グレイソンの永遠にうまくいきそうな介護ビジネスだが、序盤からずっと割り切れない印象が続く。この悪女はいつ罰せられるのか。あのアホな裁判官がいる限り、悪女のやりたい放題が続くのだろうかと想像して、嫌な気持ちになる。ストーリーが進んで悪女の運命が二転三転しても、やっぱり嫌な気持ちは続いた。
 どう考えてもグレイソンは日本の貧困ビジネスのヤクザと同じなのだ。窮地に陥っても詐欺師らしく知能で乗り切るのかと思いきや、暴力には暴力で対抗する。合法ヤクザから非合法ヤクザへの転落である。ジムで鍛えているシーンはその伏線だったのだが、それがまた不愉快きわまりない。不愉快な気持ちは映画を観終わってもしばらく消えなかった。

映画「悪なき殺人」

2021年12月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「悪なき殺人」を観た。
 
 不思議な作品である。登場人物ごとにエピソードがあって、それぞれの登場人物に感情移入する。人間の弱さを描いた作品で、その弱さに感情移入してしまうのだと思う。
 山崎ハコは「流れ酔い唄」で ♫誰でも弱いうそつき ♫ 弱いほどに罪深い♫ と歌った。当時二十歳の山崎ハコが人の世の何を見て、この唄を作ったのかは不明だ。多分、本人に聞いてもわからないだろう。
 アリスは独善的だが悪意はなく、奉仕の気持ちがある。無口で真面目でおそらく巨根のジョゼフが好きだ。アリスはセックスが好きなのだ。一方のジョゼフは人間が苦手である。会話が不得意なのだ。無口な女性がいたらと思う。アリスの夫のミシェルは冴えない中年の農場主で、多分アリスとはセックスレスだ。だからネットに慰めを求める。
 フランス映画の「アデル、ブルーは熱い色」は最初から最後まで強烈なレズビアンの作品だった。アメリカ映画の「キャロル」はケイト・ブランシェットとルーニー・マーラという有名女優二人のレズビアンで話題になった。この2作品を鑑賞していたおかげで、本作品のエヴリーヌとマリオンの雰囲気もあっさりと読めた。性を楽しむだけの筈だったエヴリーヌと、愛をぶつけてくるマリオン。破局は必定だ。
 コートジボワール共和国は貧しい国だ。格差も大きい。人々はいい暮らしだけを求めている。平和や寛容などといった概念は人々の脳裏に浮かびさえしない。若者は仕事がなく、悪事ばかりを考えている。アルマンも例外ではない。同世代の女性に産ませた子供を面倒見ることも出来ない。
 アリスとジョゼフ、エヴリーヌとマリオン、そしてアルマン。それぞれの視点からの物語をつなげていけば、物悲しい全体像が浮かび上がる。性欲に抗いきれない弱さ。誘惑に負ける弱さ。虚栄心のために金を求めてしまう弱さ。虚栄では愛を買えないことに気づこうとしない弱さ。原題の通り、みんな獣と変わらない。
 本作には人の欲望と弱さ。そして誤解がある。行き着く先は悲劇しかない。それぞれの登場人物は他人事ではない。いつ彼らと同じ行動をしないとも限らない。その差が紙一重だということを感じるから、彼らに感情移入してしまう。そして同じ悲劇を味わう。悲しいのはみな同じだ。

映画「スティール・レイン」

2021年12月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「スティール・レイン」を観た。
 
 序盤の衛星写真に日本列島がなかったので、沈没したのかと思ってしまった。その後の写真にはちゃんと映っていたので、大きな雲に隠されていたのだろう。
 独島(竹島)が韓国の領土なのか日本の領土なのかは当方はわからないが、本作品では韓国の領土だとする意見が強いように扱われていた。日本の外務省のHPを見ると日本固有の領土だとされている。しかし韓国の領土だという可能性もある。そもそも世界史では領土は絶え間なく変遷している。どちらの国の領土なのかは歴史のどの時点を基準にするかによって変わってくる訳だ。中国はかつての歴史上の領土を取り戻そうとしているという報道がある。朝貢国まで入れるとインドシナ半島のほとんどが中国となる。沖縄も中国だ。
 
 尖閣諸島の領有権の問題は日中国交正常化以来、ずっと棚上げにされていた。国交が成立して相互に経済的な利益が生まれた以上、両国の間に戦争は考えづらく、あえて問題にするべきではないという大人の結論に達した訳だ。ところが東日本大震災の復興もままならないうちの2012年に、当時都知事だった石原慎太郎が尖閣諸島を買うなどという馬鹿げた発言をしたのである。右翼政治家の面目躍如だとでも思ったのだろうか。
 当然、その動きは中国の反発を招いた。尖閣諸島の領有が不問でなくなり、軍事的な問題になってしまった。中国の軍人が反発したのである。独島の問題と同じで、領有権を問題にするのは軍人たちだ。世界的に国家観が安定した現代では、軍人がいるから衝突が起きる。 他国との衝突に対応するのが軍人で、平和が続いてしまうと税金泥棒として非難される。場合によっては人員が削減され、失職する軍人が出るかもしれない。国際紛争は軍人にとって生き残るための唯一の術なのだ。だから軍需産業と一緒になって武器を作り、弾丸や爆弾を消費する。
 
 本作品は朝鮮半島とその近海が舞台だけあって、韓国政府と北朝鮮政府は多面的で複雑に表現されている。日本の描き方も客観的だ。いろんな方面に気を遣いながらの映画製作であったことが伺える。
 主人公はハン韓国大統領で、演じたチョン・ウソンは背が高く筋肉質の二枚目である。ハン大統領は失政もあるが、真面目に職務に取り組んでいる。支持率のために仕事をしていないところに好感が持てる。
 北朝鮮の三代目の若い指導者は実際と違って痩せていて、こちらも真面目に職務に取り組んでいるが、喫煙習慣が残っていたりと、いかんせん時代遅れである。インターネットでどれほど情報を得ても、生活習慣そのものが変わらなければ時代遅れなのだ。北朝鮮問題を解決するのは政治ではなく、文化交流であり経済関係であろう。
 トランプを模したと思われるアメリカ大統領は、実際よりもずっと洞察力があり、状況を瞬時に分析する。一方で、軍事では解決しないと知っているにも関わらず、米韓合同演習を実施する。大統領といえども軍部の圧力をすべて押さえつけられるわけではない。ビジネスマンのトランプは多分、心の底では軍人を軽蔑していたと思う。しかし軍事力は信じていた。
 
 本作品では軍隊も決して一枚岩ではないことを示す。人間の集まりだから当然だ。多様な人間が集まって、能力と適性によって部署に振り分けられる。同じ部署でも能力と適性に差があるのは民間企業と同じである。エキスパートがいて、ジェネラリストがいる。優秀な人と普通の人たちと低能の人がいる。2対6対2の法則は軍隊にも当てはまるだろう。
 北朝鮮海軍の人間関係が潜水艦内の緊迫した状況で描かれる。一蓮托生の潜水艦の中で、対潜哨戒機や他の潜水艦との魚雷戦が繰り広げられる一方で、軍人や要人の争いがあるのだ。これで盛り上がらないはずがなく、後半は目を離せない展開だ。
 韓国のアクション映画は、ハリウッドの一本道の作品と違って、ひねりが効いている。本作品もとても見ごたえがあった。ただハン大統領の知性に欠けた暴力的な奥さんはいただけない。もう少しマシな奥さんにしないとハン大統領が気の毒だ。

映画「ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ」

2021年12月05日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ」を観た。
 
 前作では未知の凶悪な寄生獣が暴れまくるが、結局落ち着くところに落ち着いて、悪と立ち向かって勝利する話だった。本作は続編だが、コメディ色をより強く出している。コンビのやり取りで笑わせる脚本なのだが、それが意外なほど笑えない。雑貨屋のおばさんのシーンがちょっと笑えたくらいだ。
 バトルのシーンは触手を互いに活かしながら、変身したり元に戻ったりと、前作でお馴染みのシーンで特に真新しさはないが、CGは前作と同様によく出来ていて、それなりに楽しめる。本作品では芸達者のミシェル・ウィリアムズが演じたアンが重要な役割を果たす。ウィリアムズが41歳とは思えぬコケティッシュな魅力を存分に振りまいているのが見事だった。

映画「JOINT」

2021年12月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「JOINT」を観た。
 
「JOINT」というタイトルはとてもいい。人間と人間、人間と組織、組織と組織は、はまる場合とまったく受け付けないときがある。上手くはまったように見えても、小さな部分が違っていたりすると、結局はうまくいかない。うまくいくためにはどちらかか、あるいは両方がどこかで妥協するしかないのだが、妥協できない人間がいて、妥協できない組織がある。
 
 本作品の主人公タケは大抵のことには妥協する。世話になったヤクザには挨拶するし、朝鮮人とも一緒に商売をする。カタギのヤスから紹介されたベンチャー企業の浮ついた青年たちとも上手くやった。このまま順風満帆に行くように見えたが、好事魔多し。稼いでいる奴を見つけたらハイエナのようにタカりにくる人種がいる。それにヤクザや半グレなどの裏社会を毛嫌いする企業もある。刑務所で罪を償っても、社会は前科者を許さず、受け入れない。
 もう一度立て直すことも出来たはずだが、タケにはハグレモノの自覚がどこまでもついて回る。所詮自分は半グレのチンピラだ。表の社会では生きていけない。ヤスは破滅に向かおうとするタケを必死に諭すが、タケの心は荒れ果てていた。
 
 面白いセリフがあった。「裏から見れば、表の社会が裏だよ」である。どちらの社会でも人間はシノギをして生きていく。裏社会は暴力を武器にして人の上前をはねる。荒っぽい割に稼ぎは少ない。詐欺も騙される年寄が減ってきた。警察も周到な対策を練っている。ゆきづまるのは時間の問題だ。
 表社会には裏社会のような荒っぽさはない。しかし法律を上手く使ったり、政治家を頼ったりする。シノギをしているのは裏社会と同じだが、シノギの額では裏社会は表社会にまったく敵わない。ヤクザがフロント企業を設立したり、表の稼業に乗り出したりするのは当然の流れだ。ヤバい組員とは手を切る。仁義なんか知らん。
 
 しかしタケは仁義の男だ。弟分を任せられたら最後まで面倒を見る。でなければ兄貴分としての顔がない。昔気質の半グレのタケが、近代化を目指すヤクザと上手くはまらなくなってしまったのだ。皮肉なものである。
 どんな時代も人は真っ直ぐには歩けない。真っ直ぐに歩こうとすると頭を押さえつけられる。足をすくわれる。タケにもそんなことはわかっている。わかっているけれども真っ直ぐに歩きたいときがあるのだ。ここにも人生の真実があった。