映画「サントメール ある被告」を観た。
フランス映画にしては、精神的な不自由さを感じた。裁判の証人尋問で「アフリカ出身の黒人女性」という言葉が何度も出てくる。明らかな差別意識が感じられた。子供の父親とされる初老の男性を卑怯者と決めつけるのも、フランス人らしくない。サントメールは田舎だから、自由と多様性を認めるパリとは精神性が異なるのかもしれない。
劇中映画とそのBGMで流れる雅楽風の音楽も意味不明だし、被告ロランスの裁判の合間などに流れる女性のスキャットもよくわからない。
女性が妊娠と出産と育児の重荷からマタニティ・ブルーに陥るのは割とよくあることで、母親が乳児を殺す事件もときどき起きている。それを母体と胎児の相互影響によるキメラ現象と結びつけるのは牽強付会だし、非科学的だ。
逆に言えば、家父長主義的な考え方で育てられた不自由な精神性の女性が、フランスの田舎の不自由な精神性と反りが合わず、うまく生きていけない苦痛から逃れるために乳児を海に置き去りにしたという解釈もできる。「アフリカ出身の黒人女性」は、フランス語を完璧に話し、成績優秀であること、つまりフランス社会のパラダイムで高評価されることをレーゾン・デートルとしている訳だ。そこに彼女の不自由があり、不幸がある。元々セネガルはフランス帝国主義のアフリカ横断政策で植民地にされた国だ。今でも公用語はフランス語である。「完璧なフランス語」は、実はなんのステータスにもならない。
登場する黒人女性が被告のロランスだけだと、無知で利己主義のアフリカ女性が非常識な犯罪をしでかしただけの物語になってしまうから、フランス生まれの真に教養のある黒人女性ラマを登場させる必要があったことは理解できる。
ラマもまた、子供の頃に母親から家父長主義的な教育を受けた。そこから脱却したつもりになっていたが、裁判を傍聴しているうちに、自分の中にも不自由な精神性が残っていることを自覚して打ちのめされる。思い出の中の母。金の腕輪、金の指輪、金の耳輪、金の首輪を身に着けた母を思い出す。まともな精神ではない。しかしそのまともでない精神を自分も確実に受け継いでいる。
どうすれば精神的なバランスを崩さないで、優しさを獲得できるのか。つまりこの映画は、裁判を傍聴してアイデンティティの危機に陥ったラマのスランプ脱出の物語だ。そう解釈することがこの作品の本質に一番近いと思う。
弁護士の演説は不出来で、検察官はステレオタイプだった。しかし被告ロランスの発言には、心が揺れながらもなるべく真実を話そうとしている真摯さがある。裁判官は発言の矛盾を突きつつも、人間は矛盾した発言をするものであることを理解している様子だった。そのあたりは評価できる。
裁判官も弁護士も女性。裁かれるのも女性。女性のための映画だと考えれば、それなりの役割を果たしているかもしれないが、アリス・ディオップ監督には、シャーロット・ウェルズ監督の映画「アフターサン」で感じたような才能は感じなかった。