6月24と25日の見学はアントニン・レイモンド「軽井沢新スタジオ」で最後。
フランクロイドの「帝国ホテル」の設計で同行したレイモンドは、そのまま東京に事務所を開いた。
夏の間は軽井沢の「夏の家」に事務所ごと引っ越して仕事をしたという、何とも現世離れをしたうらやましい話だ。
今回は現在の持ち主の許可を取り、本人立ち会いの元に見学をする事が出来た。
緑の中に包み込まれるような円いスタジオと左右に延びた四角い部屋。
階段を数段上りこじんまりとした玄関から入ると、
唐傘を広げたような12角形の部屋の真ん中に
傘の柄のような暖炉がどっしり。
部屋にはスタジオそのままに製図板がおかれている。
所有者の北澤氏の話を聞けたのが今回の宝物。
1962年から72年にレイモンド氏がアメリカに帰るまでスタッフとして働いていた。
とても怖いレイモンド氏に脅え、氏の定位置の長イス(引き出すとベッドになる)から死角に当たる製図板に貼付いていた。
夏の家(現在はペイネ美術館)はすぐ裏手にあった。
今は西側にある小さい家を先に建ててそこに寝泊まりしながら
「新スタジオ」を監理していた。
吉村順三氏は弟子でライバルだった。
などゆっくりしてくつろいだ口調で話して下さる。
今でも北澤氏の事務所には丸太で作った「レイモンド式」の設計依頼があるとか・・
うれしいような悲しいような話が続く。
中でも一番面白かったのはこのスタジオを手に入れた時の事。
財産処分で他を売った所すぐに壊されたり、
変に改装されたりしたのでこのスタジオはぜひ北澤氏が手に入れたかった。
4万円の給料の時に売値は3000万円、キャッシュで1500万円を積み上げて反対を押切買ってしまった。
レイモンド事務所で買う話が出たりした揚げ句、
1500万円が利いてどうにか所有できたとか。
それにしても3000万円はどうしたのでしょう?
なんて、聞けなかった。
しかしいろんな所で昔の名建築が公開されているが、
どうも「違うな」と思ってしまう。
記念碑的に絵や写真で飾り立てたり、
説明文が邪魔だったり、
「どうにかしてよ!」と感じる中、
この建物は本当に愛されて大事にされている気がする。
いくつか家具が増えたりする物の、
ふすまもソファーの布地もそのまま。
唯一円い屋根の「萱」が外され赤い瓦棒の鉄板が露出しているのが悲しい。
「萱が傷んで屋根まで悪くなるので外した。
萱職人がいなくて、手入れが出来ない」
個人で所有する事の難しさを感じる。
ゆっくり畳に座ったり、椅子に腰掛けたり、
あっという間に1時間以上過ぎてしまった。
10年ほど前に[外観だけよ]といわれてきた時に
たまたま北澤氏がいて中まで見せてもらった事があった。
あの時はまだ萱は健在だった。
やはり萱が無いとちょっと間が抜けて見える。
仲間のミチマサさんが突然
「この図面の工事の時にレイモンド氏を見掛けました。
やり方が悪いといって、すごい勢いで怒っていました。
中学生の僕は呆気にとられていました」
思い出したみたいだ。
中学生の時から工事の所を見ていたなんて
ただならぬ中学生だ。
だから今の彼があるわけだ。
いろんな事の凝縮した2日間。
この後も仲間の設計した別荘を見学によったり
建築漬けの2日間。
軽井沢銀座は車で通り過ぎるだけ・・
アウトレットショップは一歩も踏み入れないまま・・
ホームの待合室で缶コーヒーを飲んだだけ・・
それでも十二分に満足した2日だった。
建築家北澤興一氏