草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

安保関連法案を通すことは国民の命を守るための半歩前進だ!

2015年09月14日 | 安全保障

与党は平和安全関連法案を18日にも参議院で採決することで一致したという。いくら長々と議論をしても、同じことの繰り返しで、論点が絞り切れなかったのは、最初から野党の多くが反対のための反対に終始したからである。しかも、その法案の意図を歪曲するために「戦争法案」とか「徴兵制になる」とかのプロパガンダがまかり通り、それをマスコミが大々的に報道したことが混乱に拍車をかけた。政府与党も、衆議院の段階においては、日本に迫っている軍事的な危機が、中共による脅威であることを明言しなかった。それが説得に手間取る要因にもなった。いくら能天気な国民であっても、中共がどんな国であるかは理解している。安倍内閣の支持率が40パーセントを維持している現状であれば、議会制民主主義の原則にのっとって決定すればいいのである。野党やマスコミが「強行採決」とか声を荒立てるのは確実だが、野党もここらで決断してもらわないとこぶしを下ろせなくなってしまう。反対したというポーズを示せばよいのであって、後々まで引きずりたくはないのである。もともと民主党などは集団的自衛権の行使容認に傾いていた過去がある。対案が出せなかったのは党内で様々な議論があるからだろう。60年安保騒動の再現を狙っていたむきもあったようだが、安全保障環境は大きく様変わりをした。支那と朝鮮半島にある国家は、まぎれもなく反日を国是としている。それとどう向かい合うかが問われており、国民の命を守るために、私たちは今こそ半歩前進する勇気を持つべきなのである。

 

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ

               ←応援のクリックをお願いいたします。

政治 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マスコミの基盤を掘り崩す保守派のネット言論が生み出す「創発」!

2015年09月13日 | ネットの世界

鬼怒川の下流である常総市での大洪水をめぐっても、メガソーラーが建設されたことが原因かどうかをめぐって、バトルが繰り返されている。ネットでの問題提起に関しては、センセーショナル過ぎると突っぱねるむきもあるが、民主主義は討論が根本であり、そこで何かが少しでも見えてくればよいのである。保守派の牙城であったネットが最近ではそうではなくなってきた。それでもかろうじて影響力を保っているのは、日本人の多くが冷静な議論を望んでいるからだろう。ありもしないデマを流すとの批判もあるが、間違っていれば即座に反論されるのである。上から目線で解説する似非インテリとはわけが違う。日本では昔から声なき声というものがあった。マスコミが取り上げてくれなくても、「元号法制化」のように人々は無言うちの行動で意思表示をしたのである。ネットの中心も声なき声なのである。スマートモブスについての公文俊平は「最初のうちは、彼らの価値観や行動様式は、既存の組織や個人のそれにくらべると、ばかばかしいとか幼稚だとか取るに足らないといった否定的な評価ばかり、もっぱら受けるかもしれない。しかし、、いずれはその中から、既存の思想や行動の基盤を掘り崩し、それに取って代わるような新しい動きやそれが生み出す新しい秩序が、事前に計画されてというよりは、いつのまにか『創発』されてくるのでないだろうか」(『情報社会学序説 ラストモダンの時代を生きる』)と書いている。ネットの保守派は新たな可能性を秘めており、大衆に根差した声なき声の力こそが日本を救うのだから。

 

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ

               ←応援のクリックをお願いいたします。

政治 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平和を愛好する日本国民も侵略の危機には万全の備えをすべきだ!

2015年09月12日 | 思想家

日本人は心根が優しいのである。物を食べるのに、武器になりそうなナイフやフォークを用いる人たちとは違う。平和を愛好する点では世界のどの民族にもひけを取らない。日本民族は保田與重郎の『日本の橋』に代表されるような独自の文化を保持してきた。保田は「王者無敵とは権威の絶対専制の声でなく、むしろその宣言がたゞ王の負い目を作るものに過ぎなかったことは、代々の歴史が明らかに示したところである。こんな東洋人は道のやうに自然なものの果に、自然なものの延長として、けだものの作ったような橋しか作れなかった。しかしさういふところにある優雅にして深遠な哲学を今日の人々は考へねばならない」と書いた。天皇がかつてお住まいになられた御所は要塞ではなく、人々の尊皇の心によって守られてきた。そうした日本人の国民性が今の世界に通用するかとなると心もとない。日本人は否応なく国家として身構えるしかないのである。平和安全関連法案を「戦争法案」と批判する人たちがいるが、あらゆる戦争を容認しないのであれば、武器を持つ全ての国家を批判し、まさに日本に襲いかからんとする中共にも、断固抗議すべきだろう。吉本隆明によれば、シモーヌ・ヴェイユは戦争について「相手の国家の労働者や大衆によって、自分の国の労働者や大衆を殺させることだ」と定義した。相手があって戦争が起こるのであり、双方に割って入らなくてはならないのである。一方的に安倍政権を批判するのは、あまりにも子供染みている。ユーラシア大陸から離れた島国である我が国は、平和はあたりまえにように享受してきた。日本浪漫派の保田のこだわり続けた日本は、これから世界が目指すべき理想であろうが、それが実現されるのはまだまだ先のことなのである。

 

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ

               ←応援のクリックをお願いいたします。

政治 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国民を守ってくれるのは崇高な使命感に燃えた自衛隊だ!

2015年09月11日 | 自衛隊

天変地異とはよく言ったもので、人間の力が及ばない災害がいつ襲ってくるかは分からない。かつてない大雨となったこともあって、茨城県の常総市では鬼怒川が氾濫し、あっという間に住宅地が水に呑みこまれてしまった。行方不明者も12名出ている。自衛隊のヘリで次々と救出されるさまがリアルタイムでテレビで報道された。濁流が家を押し流そうとしているのに、危険を顧みず身を挺しての救出であった。日頃の訓練の成果だとしても、国防の第一線にあるからこそ、国の楯となる覚悟があるからこそ、そうした行動が取れるのだろう。人の価値というのは、他者のために何ができるかで決まる。その究極的なものは公への奉仕なのである。電線に引っ掛かればヘリはひとたまりもない。にもかかわらず、低空すれすれで飛ぶのは、他者の命を救うためには、自分を犠牲にすることも厭わない勇気があるからだろう。「国際貢献や集団的自衛権の行使にともなって犠牲者が出れば、自衛隊に入る人がいなくなって徴兵制になる」と平和安全関連法案に反対する人たちがいる。しかし、いつの時代であろうとも、崇高な使命感に共感する若者はいるのであり、そこまで心配するには及ばないのである。危機一髪のなかで、多くの国民が祈るような思いで見守っていたなかで、我が自衛隊はあくまでも沈着冷静であった。安全保障の面も含めて、自衛隊の力があるからこそ、日本の平和と安全が維持されているのを忘れてはならないだろう。彼らこそ平成の世のサムライなのである。

 

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ

               ←応援のクリックをお願いいたします。

政治 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

転向組を含む革新右翼が戦争を推進し精神右翼は親米派であった!

2015年09月10日 | 思想家

日本の政党で安定しているのは自民党だけで、それ以外は国民の一部の支持を得ているだけである。それは立党の理念が明確でないからだろう。さらに、保守とリベラルが混在していて色分けがはっきりしないことも国民に混乱を与えている。伊藤隆の『昭和期の政治』を踏まえて、見取り図をつくる必要性があるのではないだろうか。伊藤によると、昭和初期には、革新派には共産主義者やそれに近い自由主義者の「進歩ー革新派」と、より日本的な変革を志向する「復古ー革新派」があった。政府の圧迫で「進歩ー革新派」は昭和10年までに一部を除いてほぼ壊滅し、その多くが「復古ー革新」派に移行する。そして、危機的な状況下で復古的な革新論者が権力の中枢を握ることになり、そこで革新色が強い部分と復古的な部分との対立が顕在化した。前者が革新右翼であり、後者が精神右翼である。大東亜戦争を指導したのは革新右翼であった。米英との和平運動の中心になったのは現状維持派(親英米派)と精神右翼であった。それが敗戦後には現状維持派が反共国体護持を掲げて保守党を結成し、それがまとまったのが自民党であった。広い意味での革新派から共産主義の革命を目指す政党もいくつかできたが、それは批判勢力にとどまった。昭和の初めからの歴史を辿ってみると、精神右翼と現状維持派が戦争に対しては否定的であったことがわかる。中国を植民地化した敵愾心を抱いた北一輝ですら、アメリカとの戦争を望まなかったのである。精神右翼の流れをくむ人たちが、平和安全関連法案に賛成するのはある種のバランス感覚からであり、「戦争をやりたがっている」と批判するのは間違いなのである。反米を旗印にした者たちがアメリカとの戦争を引き起こしたのだから。

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ

               ←応援のクリックをお願いいたします。

政治 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お花畑政党の民主は解党ではなく消滅するしかない!

2015年09月09日 | 政局

解党すればいいわけではないだろう。しかし、民主党内でそれを求める声が上がっているのは、岡田執行部が平和安全関連法案で、がむしゃらに共産党と同じような対決姿勢を取ったからだ。それによって政権を狙える政党としての要件を喪失してしまった。以前であれば、自分たちだって集団的自衛権の行使容認に踏み切ろうとしていたのに、安倍政権を倒すためには何でもありなのである。共産党に指導されたシールズの集会に顔を出したりで、まさしく同伴者であった。議会の力ではなく、デモの力を頼りに法案を阻止しようと呼びかけるにいたっては言語道断である。解党を主張するグループがもう一つ迫力に欠けるのは、政策的に岡田克也代表を批判しているわけではないからだ。目先を変えなければ選挙ができないこともあって、国民に目くらましをしたいだけだろう。かつて政治改革の旗手であった小沢一郎ほど晩節を汚している政治家はいない。政党の壊し屋に終始したからである。民主党が駄目なのは、安全保障の面で自民党との歩み寄りを拒否し、経済政策で金融緩和を行わなかったからである。国家をそのものを認めず、アナーキーな言動に終始する勢力に加担し、日本の国柄をぶち壊そうとする政党を、日本人の多くは支持しないのである。大阪維新の会が自民党との連立を目指せば、なおさら民主党の影は薄くなるだろう。消滅するのは確実である。いくら看板を掛け替えても、民主党に期待する国民は一握りしかいないのだから。

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ

               ←応援のクリックをお願いいたします。

政治 ブログランキングへ

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熱に浮かされて騒ぐだけの安保反対デモを嗤う!

2015年09月08日 | 思想家

今ではあまり言わなくなったが、かつては日本共産党は「科学的社会主義」を唱えていた。マルクス主義を現代にふさわしいように発展させていく。そうした考えがあったからだろう。しかし、その定義そのものはあやふやであった。マルクス主義自体ある種の宗教であり、信仰によって支えられているのは、周知の事実である。カール・ポッパーは『科学的発見の論理』において「科学は、常に反証できるものである」と書いている。ポッパーの研究家でもある竹内薫は「もしその理論がうまくいかないというような事例が一回でもでてしまえば、つまり反証されれば、その理論はダメになってしまうということです」(『99・9%は仮設』)と解説を加えている。「科学的社会主義」も反証可能性によって無効を宣言されて久しい。「戦争をするのは資本主義国家であり、社会主義国家ではない」「計画経済こそが人間を幸福にする」「憲法9条があれば日本は侵略されない」。信仰に過ぎない思い込みが次々と反証されてしまったのである。にもかかわらず、日本共産党のプロパガンダに振り回される人が今もいるのは、「信じる者は救われる」という人間の弱さゆえだろう。最近の安全法制関連法案をめぐっる反対デモの参加者が国会前で太鼓をたたいて、ラップ調で怒鳴るのも、宗教的行為として理解すれば納得できる。それを持ち上げるマスコミは宗教団体への加勢でしかなく、科学に立脚した政治とは無縁であり、熱に浮かされているだけなのである。

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ

               ←応援のクリックをお願いいたします。

政治 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「祖先を捨てて顧みない人々」(バーク)の暴走が衆愚政治だ!

2015年09月07日 | 思想家

人間のやることは間違いが多いのである。絶対などというのはあり得ない。議会制民主主義にしても絶対ではない。それが他と比べてマイナスが少ないだけである。非合法的なクーデターではなく、ナチスも選挙で権力を手にしたのである。大衆がよいと思って投票をしたのだ。デモの数で政治が動かされてはならないが、生きている者たちの声を絶対視するのも問題である。選挙を重視する橋下徹大阪市長の意見は大筋においては正論だとしても、国民主権を行使に当たっては前提がなくてはならない。エドモンド・バークの「革新好みの精神は、一般的には利己的精神や視野の偏狭さの結果です。祖先を捨てて些かも顧みない人々は、子孫に思いを致すこともしないものです。それだけではありません。相続という観念は、確実な保守の原理、確実な伝達の原理を涵養し、しかも改善の原理をまったく排除しないということを、イングランドの民衆は熟知しています」(『フランス革命の省察』半澤孝麿)との言葉こそが正しいのである。過去から受け継がれた守るべき価値がまずあって、それを保存し、育てていくための改善でなくてはならない。生きている者は時として失敗をやらかす。謙虚であるためには、死者となった祖先の思いに耳を傾けなくてならない。政治的な考えを意思表示する手段としては、選挙やデモがある。しかし、それ以前にバークが主張するように「誤り易くか弱い人間理性の考案物を補強すべく自然の不謬強力な本能の援けを求める」ことこそが大事なのである。生きている者たちの力を過信しないことが保守の原点であるわけだから。

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ

               ←応援のクリックをお願いいたします。

政治 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茂木健一郎や山口二郎の安保法案反対の国会前パフォーマンスを嗤う!

2015年09月06日 | 世相

平和安全関連法案に反対している文化人や芸能人は、それなりの覚悟をもってやっているわけではない。空気が読めないだけなのである。テレビなどに出してもらいたいから、パフォーマンスをした方がいい、と勝手に思い込んでいるのである。脳学者の茂木健一郎や政治学者の山口二郎などは恥をさらしただけだ。茂木はくだらない歌を披露し、山口の場合は安倍首相を抹殺するかのようなことを言い放った。愚かにもほどがある。中共は抗日戦勝利70年の軍事パレードを行って、戦争をする気が十分であるのに、それには抗議しないで、独裁国家のお先棒を担いでいるのである。茂木は鳩山由紀夫シンパであり、山口は小沢一郎のシンパであった。そうした過去をなぜ総括しないのだろう。その程度のレベルの学者がテレビに登場し、いい加減なことをコメントしていたのである。マスコミへの信頼がなくなるのは当然である。今回の法案はもうじき可決されるだろう。安倍内閣の支持率は回復してきており、障害物は取り除かれつつある。一部ではあっても、反対派の主張ばかりでなく、賛成派の意見もマスコミで紹介されるようになってきた。「戦争法案」とかの誤ったレッテル貼りも、通用しなくなってきたのだ。ネットでは以前から冷静な議論が行われてきたが、ようやく日本人も現実を直視しつつある。アカデミズムの世界においては、テレビに出るような学者は、二流、三流といわれてきた。限られた時間に断定口調で物事を述べるのは、学者は得意ではないからだ。時流に乗りたいからと、国会前に出かけていくのは、自分が脚光を浴びたいからなのである。茂木も山口もお茶を引くのが耐えられないのだろう。

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ

               ←応援のクリックをお願いいたします。

政治 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

押し付けられた憲法を痛烈に批判した中野重治こそが真の左翼だ!

2015年09月05日 | 思想家

日本に本当の左翼はいなくなってしまったのだろう。お花畑の議論が横行しており、日本のどこに行っても「憲法9条は世界の宝物」とかの看板が目立つ。日本共産党が中心になっているグループが建てたものだ。「豪傑」という詩をつくっている中野重治は、自らが「彼は書物を読み/嘘をつかず/みなりを気にせず」の侍であった。日本国憲法がいかさまであることを見抜いていた。「じっさいは憲法でたくさんのことが教えられねばならぬのだ。あれが議会に出た朝、それとも前の日であったか、あの下書きは日本人が書いたものだと連合軍総司令部が発表して新聞に出た。日本の憲法を日本人がつくるのにその下書きは日本人が書いたものだと外国人からわざわざことわって発表してもらわねばならぬほどなんと恥じざらしの自国政府を日本国民が黙認していることだろう。そしてそれを、なぜ共産主義者がまず感じて、そして国民に訴えぬだろう」(「五尺の酒」)。さらに、そこでは「枢密院は、みな百三条ある憲法を二十分で片づけてしまった」と痛烈に批判した。共産主義者の中野ですら、押し付けられた憲法に怒っていたのである。しかも、この文章は連合軍総司令部の検閲でズタズタにされてしまった。当時の日本共産党は軍備を否定してはおらず、お花畑とは無縁であった。日本人としての屈辱も保守派と同様に共有していた。右であれ左であれ、押し付けられた事実を忘れてはならないのである。

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ

               ←応援のクリックをお願いいたします。

政治 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする