草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

会津在住の作家笠井尚氏の『白虎隊探究』補足!

2015年09月02日 | 思想家

聖典は土津霊神碑文なり白虎の死は崇高なりし  笠井尚 

 今回の『白虎隊探究』は、あくまでも思想的なアプローチであったために、少しばかり難解になったようです。しかし、言わんとしたことは単純明瞭です。会津藩の教学はそれに先行した会津の精神風土があったからであり、会津松平藩の祖であった保科正之公や朱子学者の山崎闇斎の力だけではなく、その受け皿としての、会津の学問のレベルの高さを強調したかったからです。  
 そこで注目をしたのが、葦名の重臣山内氏の流れをくむ横田俊益の存在でした。父親が近江から会津にやってきて成功した商人の家に養子に入り、その子どもとして若松城下で生まれました。
 俊益は優秀であったために、加藤明成公の側近となって仕えました。しかし、殿様が会津を離れることになったために、仕官の道をあきらめて、学問を究めるために江戸に遊学をしました。中途になったのは、自分に代わって家督を継いでくれた弟が死んだからです。このため急きょ会津に戻り、一般の人たちを集めて学問の場を作り、それが後に稽古堂となったのでした。
 校長は肥前生まれの岡田如黙が務め、会津藩家老までもが話を聞きに来ました。その俊益が会津にいたことで、闇斎の朱子学を広めることができたのでした。
 さらに、保科正之公の時代には、会津の庶民レベルでは藤樹学が広まっていました。近江聖人と呼ばれた中江藤樹が打ちたてた学問で、その当時は高弟であった淵岡山が京都で教えていました。そこに荒井、大河原という若松の医師が出かけて行って学び、それが喜多方地方を中心にして、一時は千名を超える門弟を確保するにいたったのです。
 如黙自体も藤樹学の感化を受けたために、会津藩の教学も根本においてはそれを無視することはできませんでした。如黙は喜多方市の真木に流されそこで一生を終ることになりますが、藤樹学が弾圧された期間は長くはありませんでした。
 朱子学は身を修めることが国を治めることであり、徹底した精神性に結びついています。藤樹学おいても、誰しもに良知があるといわれ、それを自覚することを求めています。目先の利益ではなく、もっと根本的なものを大事にしたのです。
 また、いずれも儒教に属し、魂と魄を呼び寄せることが先祖を祀ることでありました。このため、仏教とは違って、死者を荼毘にふすことは許されませんでした。共通点が大きかったのです。
 藤樹学の北方後の三子といわれた中野義都が、一方では会津藩教学の中興の大家と評されたのでした。共通したベースがあったからです。正之公の功績を讃えた闇斎の「土津霊神碑文」の解釈文を残し、「予、幼より霊神碑文を読むことここに四十余年、初は文字を読んでこれを喜び、中ごろはその成功の美を識ってこれを喜び、終にはその徳の広大なるを識ってこれを喜び、これを読むこといよいよ久うして意味の深長なるを覚えた」と記述しています。
 『白虎隊探究』ではその解釈文も掲載しています。昭和になって郷土史家の相田泰三も一部手を加えていますが、ほとんどは中野の手になるといわれています。
 それを何度も読み返すことが会津の精神風土を理解することにもなると思います。朱子学や藤樹学を詳しく知らなくても、まずは「土津霊神碑文」なのです。ぜひ本を購入いただいて「意味の深長なるを覚えた」という境地になってもらえればと願ってやみません。

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「安倍やめろ」だけで「友と敵」との区別もできぬお花畑を嗤う!

2015年09月02日 | 思想家

平和安全関連法案の成立に反対するデモ隊は、なぜ廃案に追い込まなくてはいけないかをまったく語っていない。「安倍やめろ」「戦争法案を許すな」の連呼だけである。一個人である安倍首相への憎悪を掻き立てれば、国民の支持を得られると勘違いしている。本来の政治は憎悪や愛情とは無縁であり、もっとも重要なのはカール・シュミットが述べているように「友と敵」との識別なのである。橋川文三は『政治と文学の辺境』で、シュッミットのその識別について「敵というのは『少くとも究極的には敵として戦うことになるかもしれない現実の可能性をもった人々の総体』にほかならない」と書いている。それを見分けるにあたって「『人々の総体』を現実のものとして意識するためには、人はかなり豊かな想像力をもたねばらないであろうし、その想像力に見合った象徴形成の欲求をもたねばならない」とも指摘している。首相官邸前などで騒いでいるデモ隊には、そこまで「豊かな象像力」はもっていない。だからこそ、個人レベルでの誹謗中傷しかできないのである。そもそも日本人には「敵」という概念を理解することができないのではないだろうか。個人的な感情とは無縁でありながら、物理的には抹殺の対象となるのが「敵」である。その識別が政治の世界では大きな力を発揮するのである。安倍首相に関しては憎しみの対象とするが、日本を侵略しかねない中共のような国家は良く思いたい。そんなお花畑では政治を語るのは迷惑千万な話なのである。


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