「安倍やめろ」のコールは今後も続くのだろうか。国会前を取り囲んだ労働組合員やシールズを名乗る若者は、次の闘争の目標を見出すことができるのだろうか。それはあくまでも政治的な運動のように見えるが、実際は不満のはけ口を求めたいだけではないか。エリック・ホッファーが『大衆運動』(高根正昭訳)で書いているように、狂信者がいなければ、社会を混乱させることなどできないのである。今回の場合も、いくら説得されても聞く耳を持たないのは、狂信者には議論が通じないからである。ホッファーは「理性や道徳的観念への訴えによっては、狂信者をその大義から引き離すことはできない」と述べるとともに、「その反面で彼は、何の困難もなく、突然しかも乱暴に、一つの神聖な大義から他の大義へと動揺するのである」との見方を示した。「あらゆる種類の狂信者は正反対の極にいるように見えるけれども、実際には一方の極にひしめきあっている」からなのである。狂信者を右と左と区別すること自体が間違っており、「熱狂的な共産主義者にとっては、穏健な自由主義者になるよりも、ファシズム、排外主義、あるいはカトリック主義に回心する方が容易なのである」というのだ。冷静な討論を求めるのは、決まって穏健な保守主義者である。熱情によって突き動かされることに、ためらいがあるからだろう。マスコミが煽りたてて、それに便乗して騒ぎまわった者たちは、局面が変われば「戦争をやれ」と街頭に繰り出す者たちなのである。ネットが冷静であったのは、穏健な保守主義者が多いからだろう。絶対に狂信者には政治を任せてはならないのである。
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