今は令和6年1月20日土曜、午前8時14分
起きたら暖房のない室温は9度、そのまま一階の台所へ行ったが「ひんやり」するが寒くはない。
そのまま、畑になっている庭に出た、ここにももう雪は無い
パジャマのままでも寒さは感じない
12月に2日間雪が続いて40cmほどの積雪になって以来、大雪と言う雪は降らず
積雪も多い時で数センチだ、そしてもう1月も10日を残すだけになった
安心はしていられない、本格的な冬はこれからだ
たいがい2月5日頃から2月いっぱいが大雪になる例が多い、それでもあと40日もたてば(寒い)春がやってくる。
1995年の日記を転記していたら、じいさんの逸話が出て来た
また繰り返しになるが、私の爺さんは二人いる、爺さんAはばあさんの家に婿に入って、父を作って間もなく離婚して戸籍上他人になった爺さん。
いま私が住んでいる町で、新しい家族と暮らして87歳まで生きた。
もう一人は爺さんB、ばあさんが離婚して7~8年後に婆さんと結婚した東京の自称「株のブローカー」その実態は今も不明、ばあさんと東京大空襲で死んだ。50歳だった。
今日書くのは爺さんAのこと、大した話ではない、私が生まれる45年以上も前に父と他人になってしまった爺さんだから、私もよくわからない。
そんなじいさんAの一面を見た話し。
子だくさんの貧しい家の次男坊として生まれた、1899年生まれ
茨城県で離婚してから東京に出て、そこで山形市生まれの教会のシスターと再婚、空襲が激しくなり食うに食われなくなって家族三人で故郷の北陸に帰って来た。
終戦後は「クズい~ お払い」の今でいう個人の廃品回収業、リヤカー1台で町を歩くが食うにギリギリの生活、家も本家の塩炊き小屋を借りて住んでいたらしい。
それから3年後に、東京で家族ゼロになった23歳の父も、この町に食と職を求めてやって来たが、爺さんは全く頼りにならず、父は独立独歩で魚の行商を始めた。
爺さんとは違い、父は仕事一筋の男だったから2年後に私が生まれることになると100%借金だが小さな平屋を建てた。 25歳の時だった。
それから7年後には別の場所で二階建ての魚屋店舗兼住宅を建てた、その時には私の妹、弟も生まれていた。 父は32歳だった。
どちらの家の時か忘れたが、家を建てるための資金を高利貸しから借りた
高利貸しというのは女高利貸し、永山ヒデ(仮名)
父より5歳くらい年上で、デップらと太った獅子鼻の男勝りで気が強い女
若いころ看護婦として東京の巣鴨の病院で働き、巣鴨プリズンで戦犯として収容されていた東条英機を見たと言うのが彼女の自慢だった。
金もなく力もない父だったが、戦後の上野、新宿の闇市で営業をしていただけに男前で気っ風がよく、若いのに負けん気で物おじしない挑戦的な姿にヒデは惚れて、「おれから金を借りれば利息が高いぞ、おじさん(ヒテの亭主、代書業)から借りれば利息はつかんぞ、聞いてみろ」すでに亭主には手をまわしてあるヒデだったから、すんなり貸してもらえた。
父はヒデさんを「ねえさん」と呼んで慕った、ヒデさんも「おまえ」と呼んで可愛がった。
私が40代まで付き合いはずっと続き、子供が居なかったヒデさんは私を下の名前で呼んで可愛がってくれた、私も「おばさん」と呼んでいた。
その頃の話だが、ヒデさんの土地を借りて店の案内看板を建てさせてほしいとお願いに行ったが話はすんなりと決まった
高利貸しだけに金に関してはシビアな人だった。
「お茶飲んでけ、yottinもっと頻繁にここへ立寄ってくれ、おれも一人で寂しいんだから、それと来るときにはゲサン(燗をつけた酒で飲まずに残った酒) も持ってきてくれ」
もう遥か昔に稼ぎが無い夫を追い出して一人暮らしになっていたヒデおばさんは、この頃70代半ばくらいになっていたが相変わらず太ったままだった。
このとき、おばさんが話してくれたのは意外にも、爺さんAの若いころの話だった。
祖父Aは、私の婆さんと別れた後、しばらくたって故郷に帰ってきていた、まだ20代後半だった。
そしてヒデさんの兄が経営していた工場で働いていた。
この頃、ヒデさんは高等小学校を卒業して隣町の看護婦養成学校の受験をすることになった、それには履歴書が必要であった。
ところがヒデさんや、その兄さんの周りにはまともに履歴書を書ける人間が居なかった。
何しろ田舎町故、地元の就職はみなコネ、人脈で決まるから履歴書など必要なかったのだ。
兄さん社長は自分の工場の職人の中に本をよく読むのが居たので、こいつなら書けるのではと聞いてみたら「書けます」という
それで喜んで任せたら書いて持ってきた、それを看護養成学校へ送ったらすぐに返却されてきた。
申請人の所に、ヒデさんの家族や親戚の名前を書き並べてあったので、「申請人は誰ですか」という具合だった。
社長は困って考えたら、爺さんを思い出した、爺さんはここに就職したものの、仕事がしたくない日は出てこないという調子だったので、社長も忘れるほどだった、それでも締め切りは迫るし、文句も言わず「あれは親戚うちでも物知りだと評判らしい、すぐに呼んでこい」と使いをやった。
爺さんがやってきて返却された履歴書を見ると「カラカラ」と笑って、小さくなっている工員を横目に「これではだめだ、通るわけがない」と言って、すぐに新しく書いた、それを送ると受理されて、ヒデさんは晴れて入学となった。
社長は感激して本採用にしようと思ったが、いかんせん3日働けば10日休むといった調子だから呆れてしまい、首にせざるを得ないと思ったが、それ以前に本人が辞めてしまった。
「あれで仕事が好きなら、この町に置いておくのは惜しいほどの人物になっただろうに」と社長がヒデさんに言ったそうだ。
爺さんは閑であろうと、なかろうとしょっちゅう本を読んでいたそうだ、本家も親戚も「本家が豊かであれば学問をさせて、学者になったかもしれんのにのう、惜しいことだ」と、ことあるごとに言っていたという。
結局、爺さんは一生この調子で87年の人生を終えた、その心の内を書いた色紙を5年ほど前に父の遺品整理をしていて見つけた。
初めて爺さんの本音を知った思いだ。 実父のこれを見て一生働きづくめだった父はどう思っただろうか?想像はつく。
48年前、77歳のときに書いたものである、「成城」とは終戦まで東京の成城で借家住まいしていたので、それを号にしていた。