先日、知り合いの仏師を訪ねた折に、いくつか気になる場所があり写真におさめた。知人の仏所工房は上長者町通りを西へ入り土御門町にある。訪ねる途中に、烏丸通から上長者町通りを西に歩いていると、マンションらしき建物に挟まれ、昔ながらの格子門があった。目に留まったので近づいて見ると、「弘道館」という看板が掲出されていた。反対側の掲示板には「有斐斎 弘道館」と書かれ、その下に、江戸中期の京都を代表する儒者・皆川淇園(みながわきえん)が創立した学問所とあった。
この文言を読んで初めて気づいた。江戸時代の画家である円山応挙や池大雅などと深い親交のあった人物で、先日、京都国際近代美術館で開催されていた「京の大家と知られざる大坂画壇」という展覧会で皆川淇園の作品を観たので記憶に新しく残っていた。
その皆川淇園の学問所がここなんだ、と偶然の出会いに驚くとともに皆川淇園をさらに知るキッカケとなった。知人の仏所の帰りにもう一度、門の前に立ち寄り写真を撮った。格子の門からは路地が見えるが玄関らしく物は見えない。複合住宅に挟まれながらきっと奥がふかいのだろうと想像はつくが、中の様子はうかがい知れない。想像だけが膨らむ。
格子門からみる玄関までの路地
帰って調べてみると、その様子が記されてあった。
路地を抜けるともうひとつ門があり、それをくぐると、その脇に「腰掛待合」という茶室に備えられる小さなベンチのようなものがある。正面には古い数寄屋建築の建物があり、左手には庭が広がっている。建物内には、L字型に四間続きの広間と茶室があり、手入れが行き届いた庭が広がる。
整えられた中庭
江戸中期に皆川淇園が学問所を開いていたと伝わる場所のようだ。そのことを示す石碑が現在も有斐斎弘道館の門の前に立っている。淇園のもとには多くの門弟が集まって学問に励んだという。特に易学の研究者として有名で,公家,諸侯など教えを請う者 3000人に及び、1805年に私塾弘道館を設立。門弟を指導するかたわら、詩や書、画にも凌駕していた。画は円山応挙に師事し山水、人物、花鳥の図画にも非才を発揮し、画家の養成にも尽したといわれている。門下には木村蒹葭堂らがいるようだ。
皆川淇園の老松図
京都はご存じのとおり、歴史的な事象が多く残っているところである。文化芸術面では歴史的人物の宝庫だった。だから、学びたい多くの人びとが京都に集まってきた。その空気はいまも感じられ、その証となる建物や場所は、今の人たちが引き継ぎ残していく必要がある。その文化伝承活動の一つとしてこの有斐斎弘道館も残され、いまに伝えられている。そして未来へも。
リポート&写真/ 渡邉雄二 写真/ 皆川淇園画像を転載・有斐斎弘道館画像を転載
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