ライブ インテリジェンス アカデミー(LIA)

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隠逸詩人、林和靖と素心 【一茶庵稽古追想】

2021-05-10 14:24:44 | 文化想造塾「煎茶」

先日の煎茶稽古では、久しぶりに隠逸詩人 林和靖(りんなせい)こと「林逋(りんぽ)」が取り上げられた。

北宋初期の代表的な詩人として、いまもその名声は伝え継がれている。

若くして身寄りがなく貧しい生活をしながら詩を学び、杭州西湖のほとりの孤山に隠居。

生涯独身を通し、梅と鶴を伴侶とした生活を送ったといわれる詩人である。

 

林和靖の詩の中でも、とくに梅花と西湖の美しさを詠った「山園小梅(さんえんしょうばい)」は

最高傑作として、いまの時代にもよく登場する。

稽古で掲げられていた、このお軸がどのように「山園小梅」につながっていくのか、

まったく見当がつかなかった。
見ての通り、お軸に描かれているのは、今年の干支「猪」のようである。

その猪が何を見ているのか、ということになる。その横に描かれているのは、たぶん梅と思われる。

「その梅だけど、なにか変とは思いませんか」、という宗匠からの問いかけに答えは見つからなかった。

宗匠曰く、梅は、枝が横に広がり、上に向く性質を持っているという。

ではなぜ、この画はあのように下向きに? と問われてみても・・・。

 

お茶は “素心”という淹れ方で煎茶をいただいた。急須に煎茶をたっぷり入れ、

水柱にいれていたお湯(ぬるめ)をお猪口ほどの湯呑に半分程度の量を入れしばし待つ。

そして煎茶が入っている急須にそそぐ。煎茶のまろやかさが存分に味わえる一煎目である。

そして二煎目はさらにぬるくなったお湯を急須にいれ、しばらく待つ。

二煎目は、予想通り渋味がたってくる。この渋味が “素心”のだいご味である。

三煎目はスペシャルが用意された。渋くなった茶葉にお酒をそそいだ。少し時間をおいて湯呑につぎ分け

試飲。おいしいとは言えないが、年始めのお屠蘇がわりに、と。

 

お茶を楽しむ合間に、お軸の梅から林和靖の “梅” の世界へと誘われていく。

梅の枝ぶりが下向きに描かれている意図は、林和靖の「山園小梅」の詩を理解したうえで

描いているからこのような梅の画になるのだろう。

さらに、鶴の代わりに猪を描いているのが、またなんとも滑稽である。

 

山園小梅に「疎影横斜水清浅」という一節がある。

“咲き始めて花もまばらな枝の影を、清く浅い水の上に横に斜めに落とし” という意味になる。

枝が垂れ下がり、まばらに咲く花の姿が水面に映し出されている。

そして続く「暗香浮動月黄昏」が対句になり、月もおぼろの黄昏どきに、

梅の香りがどこからとなく香ってくる。姿は見えぬが梅の存在を感じさせる。

梅を愛する林和靖の、隠逸の悲哀を詠った詩の一節である。

素心で淹れた淹茶(えんちゃ)の渋味、苦味が、林和靖の隠逸の悲哀とかさなってくる。

 

山園小梅 林逋

衆芳揺落独嬋妍  
占尽風情向小園  
疎影横斜水清浅  
暗香浮動月黄昏  
霜禽欲下先偸眼  
粉蝶如知合断魂  
幸有微吟可相狎  
不須檀板共金樽 

現代訳にすると、

いろいろな花が散ってしまった後で、梅だけがあでやかに咲き誇り、ささやかな庭の風情を独り占めしている。

咲き初めて葉もまばらな枝の影を、清く浅い水の上に横に斜めに落とし、

月もおぼろな黄昏時になると、香りがどことも知れず、ほのかにただよう。

霜夜の小鳥が降り立とうとして、まずそっと流し目を向ける。

白い蝶がもしこの花のことを知れば、きっと魂を奪われてうっとりするに違いない。

幸いに、私の小声の詩吟を梅はかねがね好いてくれているから、いまさら歌舞音曲も宴会もいらない。

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移りし季節の潮音庭を堪能

2021-05-09 14:13:24 | 文化想造塾「神社仏閣」

建仁寺を訪れた人のほとんどが中庭の枯山水の美しさに目を奪われる。

「潮音庭(ちょうおんてい)」という庭である。小書院と大書院、

そして渡り廊下に囲まれた一角に、いまの季節では新緑が映え、秋になると紅に染まる。

そこにはモミジと石で小宇宙が創られている。モミジはもちろん生きている。

石組みされている石も当然生きている、とこの潮音庭を作庭、監修した北山安夫氏の言葉を聞いたことがある。

 

 

「潮音庭」は4方向から観賞でき、三尊石の中央にある中尊石を中心として石が配置され、

どの方向から眺めてもバランスがとれた絶妙なる美しさが保たれている。

三尊石の東側には座禅石が据えられ、その周辺には小石を散らしてある。

これも絶妙な美意識の表れなのだろう。

建仁寺を訪れるたびに、移りし季節の潮音庭を堪能させていただく。

 

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牛と牧童ののどかな情景に杜牧の「清明」があう。【一茶庵稽古追想】

2021-05-07 15:53:29 | 文化想造塾「煎茶」

「春」を表わす季語は数えきれないほどある。花や動物など自然界のものも多い。

春といえば誰もが思うのが「桜」。桜によく似た「杏」も春の季語としてよく使われる。

そして、春を象徴するもので珍しいものがいくつかある。代表例が「牛」、そして「ブランコ」もそう。

牛は、その昔、春の農耕に欠かせない家畜として季語にも使われる。

牛と言えば、春。あまり馴染みがないかも知れない。ブランコは、もっとピンとこない。

ブランコはもともと中国の異民族が好んだ遊びで、春の遊びの一つだったようである。

だから、ブランコと言えば、春をイメージさせる季語になっている。

 

稽古では春の象徴を、掛け軸(写真)を通して教えていただいた。

この牛の絵を見て、季節は、時間は、情景は、なにをしているところ? という問いが宗匠から投げかけられた。

茶席では牛のお軸が掛けてあるのをよく見かける。茶席で見れば、もしかして「十牛図」と思うかも知れない。

牧童が牛を探し捕らえるまでの過程を描く十牛図は、代表的な禅宗的画題のひとつ。

牛は心理、本来の自己、仏教における悟りを象徴している。

十牛図は、すなわち本来の自己を探し求める旅、悟りへの道程である。

 

宗匠はそんな堅い話ではなく、夕暮れ時に、牧童が牛に乗って家に帰るところですよ。

のどかな情景を想像するでしょ、と。

そう言われると確かに牛もひと仕事を終え、どことなく微笑んでいるように見える。

この絵は、"理想の世界"を描いている。儒教精神で言うならば、のんびりと豊かな社会を作ることにある。

その象徴が、この絵で表現されている、ということのようだ。

 

画と一緒に、今宵の稽古の題材に上がったのが中国で有名な漢詩、杜牧の「清明」ある。

清明時節雨紛々  
路上行人欲断魂  
借問酒家何処有  
牧童遥指杏花村

清明は花の季節であるが、雨が多い。

その季節を詠った詩である。

現代訳すると

 

清明の時節にしきりに降る雨。

雨の降りしきる道を、ひとりの旅人がゆく。

旅ゆく人の胸は、かえってさみしさにしめつけられる。
せめてこのさみしさを酒にまぎらわそうと、ちょっとたずねてみる。

居酒屋はどのあたりにあるのかね。

牛の背にまたがった牧童は、黙ったままゆっくりと指さした。

それは杏の花咲くかなたの村だった。

 

このお軸の賛に書くなら「清明」だろう。これしかない。

お軸の画を見ながら清明を唱和した。

その後にいただく玉露の味は、また格別なものであった。

記事は、2012年12月に心と体のなごみブログに投稿したものを修正し転載。

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建仁寺 法堂では時空を超えた体感が得られる

2021-05-06 15:01:01 | 文化想造塾「神社仏閣」

緊急事態宣言が発令されるまえに京都を訪ねた。用事を済ませ建仁寺に立ち寄った。

四条通から徒歩圏内なので訪ねた回数では最多である。

行くたびに日常では味わえない発見や体験をさせていただく。

今回は、緊急事態宣言期間ではなかったもののやはり人出は少なかった。

お陰で書院や方丈、粘華堂(法堂)などで仏像や庭園並びに画など時間をかけて楽しむことができた。

 

建仁寺といえば、数々の見どころがある。その中でも法堂は未曽有の世界。

その世界を心と体で感じることができる舞台だと思っている。

ご存じ、天井一面の双龍図が本尊を護り、舞台監督として見つめ続けている。

その舞台中央に腰を据えておられるのが本尊「釈迦如来坐像」。

本尊の両脇に脇侍として、お釈迦様の十大弟子の迦葉(かしょう)尊者と阿難尊者が祀られている。

迦葉尊者は、お釈迦様の後継とされ、お釈迦様の死後にお釈迦様が唱えた経典の編纂をしたといわれている。

一方、阿難尊者はお釈迦様の侍者として、お釈迦様の教えを多く聞いていたことから多聞第一と称され、

迦葉尊者とともにお釈迦様を支え続けた尊者である。

 

薄暗い法堂にひときわ神々しく輝いてみえる釈迦如来坐像と尊者像が双龍図に見守られながら鎮護されている。

その空間には時空を超えた瞬間があるように思う。

訪れた日は、法堂に入った時はだれ一人もいなく、その瞬間を五感で味わうことができた。

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李白、杜甫、杜牧、そして芭蕉もお猿さんが大好き。 【一茶庵稽古追想】

2021-05-05 13:25:14 | 文化想造塾「煎茶」

今宵の煎茶の稽古の題材は「猿」だった。

猿は秋の季語ではないが、漢詩や俳句で晩秋を表現する動物としてよく登場する。

その昔、中国の有名な詩人の李白、杜甫、杜牧などの長江の三狭の下りで詠まれた詩の中に「猿」がよく登場する。

そのほとんどは悲哀のストーリーに使われている。

芭蕉が詠んだ句にも「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」というのがある。

芭蕉が46歳のときに、奥の細道の旅を終えて帰郷の折、

伊賀越えの山中で初時雨にあって詠まれたものとされている。芭蕉最高傑作の一つとして有名である。

この句にも「猿」が登場している。ただの風景描写ではない。

芭蕉も、そのときの情感を「猿」に例えたのだろう、と想像を巡らしてみた。

では、なぜ? 猿が悲哀のストーリーによく登場するのか、というと。

それは、猿の「鳴き声」にあるようだ。鳴き声が、中国の詩人たちの悲哀の感情をさそい、

聴覚的な特色つまり「かん高く鋭い声」がそれに結びついた、といわれている。


そんなことを思いながら飲む玉露の味と、お茶の花と実の香りがなんともいえない秋の深さを感じさせてくれた。

記事は、2013年11月にブログに掲載されたねものをリメイクし転載

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