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■ スパイダースとゴールデン・カップスのお話

2023-09-24 16:23:01 | ノンジャンル



 スパイダースゴールデン・カップスのお話。 まずはスパイダース、お噂の域を超えませんが、昭和 43 年当時、ワンステージのギャラが 7 万円と聞いております。

 そして私たちのワンステージのギャラが 2 万円でした。 かたや 7 人ですから一人 1 万円。 こちらは 4 人ですから一人 5000 円。 何が言いたいかというと私たちはスパイダースのギャラの半分ですが、一日で当時の大卒サラリーマンの初任給の 1/5 ~ 1/4 も稼いでいると言う事です。

 私たちは米軍相手のパーティーバンドです。 残念ながらパーティーが毎日あるはずもなく、結果的にサラリーマンの給料に追い付かない訳です。 スパイダースは休みなくステージ ( 7 万円 ) があるのですから、所得の差は歴然としています (笑)。

 かまやつひろしさんが 「 風が泣いている ( 浜口倉之助・作詞・作曲 ) 」 を貰った時、スパイダースは終わったと、思ったそうです。 彼は洋楽志向でしたから気に入らなかったに違いありません。 しかし彼の危惧とは反対の結果になりました。 この悩みは GS の共通のものと言っていいでしょう。

 



 ゴールデンカップスのお話。 彼らは横浜のゴールデン・カップの 箱バン ( 専属バンド ) として、主に米兵を相手に洋楽を演奏していました。 あるプロデューサーの目にとまり GS としてデビューする事になります。

 デビュー曲は 「 愛しのジザベル ( なかにし礼・作詞 / 鈴木邦彦・作曲 ) 」。  GS の楽曲は歌謡曲やフォークソング等の作曲家が、一生懸命洋楽 ( ロック ) に寄せようと努力をしているため、実に不思議なサウンドになっています。 逆にそれが GS の音楽として特殊なジャンルを形成していると思われます。 そのデビュー曲を引っ提げて全国ツアーで我が町、佐世保市のダンスホール 「 乙女 」 ( 今で言うディスコ ) に来ました。

 佐世保市には米軍基地があり米兵も多く ( 当時 10 人に 1 人の割合 )、彼らは思いっ切り洋楽を演奏し、最後の最後に 「 愛しのジザベル 」 を演奏してステージを終わります。 私たちのバンドは前座です。 アマチュアですから、好きな音楽を 30 分ぐらい演奏しました。 ライブ終了後ゴールデン・カップスのメンバーと 「 スリー Q 」 と言う飲み屋で打ち上げをしました。

 横浜と佐世保では音楽土壌が似ているので話ははずみ、次にリリースされる LP に我々のレパートリーと共通の曲、或いは互いにリスペクトした楽曲が多数収録されています。 青い影 / アンチェインド・メロディー / ヘイ・ジョー / スプーキー / ドック・オブ・ザ・ベイなどです。 特にヘイ・ジョー とスプーキーは話題の中心になった曲です。

 GS として売れた彼らですが、一番ヒットした 「 長い髪の少女 ( 3 枚目のシングル ) 」 はもう歌いたくないと言っています。 GS 用に作曲された、歌謡曲 ( あえて歌謡曲 ) は前述のスパイダースゴールデン・カップスも意にそぐわない楽曲だった訳ですが、ファンのために仕方なく歌っていたのが現状だったそうです ( 傍から見れば贅沢な悩みではあります ) 。 そう言えば、時代は少し違いますがチェッカーズも最初に貰った 「 ギザギザ・ハートの子守歌 」 にメンバー全員がこんな歌は歌いたくないと思ったと言っています。

 


 【 番外 】 私たちが米軍主催のダンスパーティーをよくやっていた会場の袖にレコードプレーヤーがあり、その上に赤や黄色の LP レコードが数枚ありました。 ジャケットの品質は見るからに日本製と比べると劣っており、尋ねると台湾製だとか、しかも一枚 30 円で買えたとの事。 ベートーヴェンのエグモント、ライチャス・ブラザース、ローリングストーンズ等があり、それぞれのラベルに、トンモグエ、正直兄弟歌唱集、転石合唱団 とありました。 皆でバカ受けしたのを覚えています。


 

 私は体調不良のため 9/1 ~ 9/14 まで入院していました。 別に 「 どうって事はない自主入院なんですが 」 一か月ぐらいを考えていました。 ところが院内でコロナが発生し ( まだ収束していないのか ) 、元気な患者 ? はすぐに退院しろ ・・・ と言うお達しで 9/14 に戻って来ました。 可愛い看護師さんに 「 また来てね~ 」 なんて ( キャバクラかっ ‼ ) 言われて複雑な心境で破顔一笑しながらの退院でした。

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■ nakasu ( nakazu ) スマホからの投稿

2023-09-02 15:39:02 | ノンジャンル


 以前、博多中洲のママさんの話を少ししましたが、他にも凄いママがいたのを思い出しました。 友人 M が行き付けの、あるスナックに、私を連れて飲みに行きました。 M がママに私を紹介しました。 三か月程経って、私一人でそのスナックに行くと、ママが 「 あら M さんの友達の誰々さんね 」 と覚えていました。 このママは一度袖触れ合うと、その人を忘れないと言われています。 じゃんけんが強い、他に高級クラブも経営していて、中洲新聞 ( 通信? ) ・・・ と言えば博多の人なら、あ〜と思い当たる有名なママさんです。

 客の名前は勿論、趣味、誰の紹介だったかなど ・・・ 記憶力は営業努力を超えて天才的な感じがします。 じゃんけんがめっぱう強いと言うので、テレビで検証番組があり 50人中 なんと 49人に勝利しました。 私もいくら巻き上げれたか。 本当に勝てないのです(悲)。 某有名大学の物理学を専攻した友人もどうして勝てるのか分からないと言っていました。 世の中には不思議な力を発揮する人がいますが、全てにタネがあると自分は思っています。

 彼女が経営するクラブのホステスさんは全員日経新聞を読んでいるそうです。 特に訃報欄は必読なんだとか。 一流会社の上客を相手するにはそれなりの努力が必要なのですね。
 

 あるキャバクラの話です。 私はキャバクラで長居をしないと決めています。 90 分ワンセットで帰ります。 その事は入店時に、あらかじめマスターに伝えておきます。

 ついつい話が盛り上がったところでマスターに 「お時間ですがどうしますか 」 なんて割り込まれたら、男たる者 「 じゃあ帰ります 」 なんて言えません。 「延長だ~」なんて見栄張ってしまいます。 私の場合はマスターが時間になると「お客様お会計です」と伝票を持って来ます。 女性は「わ~もう帰るの~」なんて言いますが、「どうします」と聞かれるよりよっぽど区切りがいいんです。

 いやいや、一番飲み歩いていた 40 代の頃の思い出です。


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