■ スパイダースとゴールデン・カップスのお話。 まずはスパイダース、お噂の域を超えませんが、昭和 43 年当時、ワンステージのギャラが 7 万円と聞いております。
そして私たちのワンステージのギャラが 2 万円でした。 かたや 7 人ですから一人 1 万円。 こちらは 4 人ですから一人 5000 円。 何が言いたいかというと私たちはスパイダースのギャラの半分ですが、一日で当時の大卒サラリーマンの初任給の 1/5 ~ 1/4 も稼いでいると言う事です。
私たちは米軍相手のパーティーバンドです。 残念ながらパーティーが毎日あるはずもなく、結果的にサラリーマンの給料に追い付かない訳です。 スパイダースは休みなくステージ ( 7 万円 ) があるのですから、所得の差は歴然としています (笑)。
かまやつひろしさんが 「 風が泣いている ( 浜口倉之助・作詞・作曲 ) 」 を貰った時、スパイダースは終わったと、思ったそうです。 彼は洋楽志向でしたから気に入らなかったに違いありません。 しかし彼の危惧とは反対の結果になりました。 この悩みは GS の共通のものと言っていいでしょう。
■ ゴールデンカップスのお話。 彼らは横浜のゴールデン・カップの 箱バン ( 専属バンド ) として、主に米兵を相手に洋楽を演奏していました。 あるプロデューサーの目にとまり GS としてデビューする事になります。
デビュー曲は 「 愛しのジザベル ( なかにし礼・作詞 / 鈴木邦彦・作曲 ) 」。 GS の楽曲は歌謡曲やフォークソング等の作曲家が、一生懸命洋楽 ( ロック ) に寄せようと努力をしているため、実に不思議なサウンドになっています。 逆にそれが GS の音楽として特殊なジャンルを形成していると思われます。 そのデビュー曲を引っ提げて全国ツアーで我が町、佐世保市のダンスホール 「 乙女 」 ( 今で言うディスコ ) に来ました。
佐世保市には米軍基地があり米兵も多く ( 当時 10 人に 1 人の割合 )、彼らは思いっ切り洋楽を演奏し、最後の最後に 「 愛しのジザベル 」 を演奏してステージを終わります。 私たちのバンドは前座です。 アマチュアですから、好きな音楽を 30 分ぐらい演奏しました。 ライブ終了後ゴールデン・カップスのメンバーと 「 スリー Q 」 と言う飲み屋で打ち上げをしました。
横浜と佐世保では音楽土壌が似ているので話ははずみ、次にリリースされる LP に我々のレパートリーと共通の曲、或いは互いにリスペクトした楽曲が多数収録されています。 青い影 / アンチェインド・メロディー / ヘイ・ジョー / スプーキー / ドック・オブ・ザ・ベイなどです。 特にヘイ・ジョー とスプーキーは話題の中心になった曲です。
GS として売れた彼らですが、一番ヒットした 「 長い髪の少女 ( 3 枚目のシングル ) 」 はもう歌いたくないと言っています。 GS 用に作曲された、歌謡曲 ( あえて歌謡曲 ) は前述のスパイダースもゴールデン・カップスも意にそぐわない楽曲だった訳ですが、ファンのために仕方なく歌っていたのが現状だったそうです ( 傍から見れば贅沢な悩みではあります ) 。 そう言えば、時代は少し違いますがチェッカーズも最初に貰った 「 ギザギザ・ハートの子守歌 」 にメンバー全員がこんな歌は歌いたくないと思ったと言っています。
■ 【 番外 】 私たちが米軍主催のダンスパーティーをよくやっていた会場の袖にレコードプレーヤーがあり、その上に赤や黄色の LP レコードが数枚ありました。 ジャケットの品質は見るからに日本製と比べると劣っており、尋ねると台湾製だとか、しかも一枚 30 円で買えたとの事。 ベートーヴェンのエグモント、ライチャス・ブラザース、ローリングストーンズ等があり、それぞれのラベルに、トンモグエ、正直兄弟歌唱集、転石合唱団 とありました。 皆でバカ受けしたのを覚えています。
■ 私は体調不良のため 9/1 ~ 9/14 まで入院していました。 別に 「 どうって事はない自主入院なんですが 」 一か月ぐらいを考えていました。 ところが院内でコロナが発生し ( まだ収束していないのか ) 、元気な患者 ? はすぐに退院しろ ・・・ と言うお達しで 9/14 に戻って来ました。 可愛い看護師さんに 「 また来てね~ 」 なんて ( キャバクラかっ ‼ ) 言われて複雑な心境で破顔一笑しながらの退院でした。