■ 関西人の常識?として、自分から話しかけるなら基本的にオチが必要らしい。 オチがなくて話が終わりそうな時は 「 それで ? 」 「 それから ? 」 とオチを要求される事もあるとか ・・・。 こういう世界で育っていると、話も自然と上手くなりそうです。 飲み会などで話し始めると、今か今かとオチを待っているかのように、聞き手が前のめりになって来ると、どうしようと困り果ててしまいます。 テレビ番組で 「 松本人志のすべらない話 」 と言うのがあります。 全て実話が縛りです。 人から聞いた話や作り話をしてはいけません。 全て自分の体験した話です。 芸人さんはエピソードトークを余程沢山持っているのでしょう。 話し上手はモテる要素でもある様です。
■ 古い話です。 アメリカの原子力潜水艦は、昭和 39 年初めて佐世保市に入港し、昭和 41 年( 学生運動が活発な頃 ) にかけて都合 8 回入港しています 。 米兵は一週間程休養をして、ここから、ベトナム戦争 ( 昭和 39 年 ~ 昭和 50 年 ) へと出港していきます。 以降は年に 10 回ほど頻繁に入港する様になります。 直近では令和元年に 11 回、令和 2,3 年は寄港なし、令和 4 年は 3 月までに 4 回寄港しています。 最近はもう誰も騒ぎません。
放射能の測定は湾内 七か所に設置されたモニター局により、三か月に一回および原子力潜水艦が入港する度に行われており、放射能漏れなどの異常はなかったと報告されています。 我が国は、非核三原則 ( 昭和 42 年 ) 「 核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず 」 を国是としていますが、「 持ち込ませず 」 については立ち入り検査等は行わないとし、非核三原則がある以上、原子力潜水艦に核は装備されているはずはないと、ご都合主義的解釈で対応しました。 佐世保港から、正にベトナムの戦争領域に出陣する訳ですから、一般的には、当然 「 核 」 を装備していたに違いないという主張の方が強かったと思います。 立ち入り検査については 甘~い 弱腰外交でした。 現在も。
■ 佐世保市に住む友人からの話です。 都会に住んでいる人が、” 家庭菜園 ” とかで一坪くらいの土地を借りて、なす・きゅうり・トマトなどを栽培して楽しんでいます。 それと同じ様な事でしょうか ?。 彼は海の一区画を借りて海産物の収獲権を得、漁を楽しんでいるようです。 「 今年の牡蛎は成育が悪く小さくてごめんね 」 とか言いながら海産物を送ってくれます。 彼が毎年言っているのは、海水の温度が高すぎるため従来の海の様子からすると、全く別の世界に見えるそうです。 見た事もない様な魚が以前の魚に置き換わって、亜熱帯の様になってしまっているそうで、従来のいるべき魚がいなくなったと言います。 確かにそんな事が全国的に起きている様で、在来種の収穫量が減っている等とニュースで見た事があります。 由々しき事態です。
■ 1972 年頃、私より 6 才下の後輩が電通大の事務官に就職しました。 私が 24 才の時でした。 彼は頭がよく高いレベルの大学にも合格できたはずですが、母子家庭と言う事情もあり、高卒での就職でした。 私たちは就職祝いにと六本木に繰り出しました。 渋谷よりの怪しいディスコや、材木町 ( NET ( 旧テレビ朝日 ) のあったところ ) の行きつけのスナックなどで、しこたま飲みました。 あっ ! 彼は 20 才になっていなかったかも ・・・。 彼は酒の飲み方も知らないまま勢いで深酒をしたので、翌日の朝二日酔いで頭痛がひどく食欲がなかったため、母親がせめてトマトジュースでも飲んで行けと ・・・ そんな訳で家を出たのですが、駅のホームで吐き気をもよおし、吐いてしまいました。 トマトジュースしか飲んでいなかったので、まるで吐血の様に見えたのでしょう。 周りの人間が大騒ぎし救急車を呼ぶ事態になってしまったとか ・・・。 その後の経緯は詳しく聞いていませんが大した事にはならなかったと、言っていました。
程なくして彼は電通大の事務官を辞めたと聞きました。 理由が振るっています。 与えられた仕事をさっさと終わらせて上司に持って行くと、曰く、この仕事は 「 定時までゆっくり時間をかけてやりなさい 」 と ・・・ ” 出来る ” 彼にはこんな仕事が耐えられなかったそうです。 彼はその後 「 スコラ 」 と言う雑誌社の編集部に入社したと聞きました。 何年かしたある日、彼が私の所に顔を出しました。 彼が 24 才ぐらいの時です。 なんと彼は ポルシェ に乗っていました。 そう言えば、あの酔っぱらった夜 「 夢ですか ~ 僕はポルシェに乗りたい 」 って言っていました。 彼は 「 もちろん中古ですけど 」 と謙遜はしたものの、私に ポルシェ に乗れたよとの報告だったのでしょう。 一回りも二回りも大きく、たくましく輝いて見えました。 世の中に若い時の夢 ( 例えどんな小さな夢でもいいんです ) を叶える事が出来た人間がどれだけいるのでしょうか。 今時はむしろ夢さえ持ってない ( 持てない ) 若者が多いのかも知れません。
■ 1970 年、日本の映画が斜陽になり大手 5 ( 6 ) 社が方向転換や倒産をしました。 代わりに独立プロを支えた ATG ( アート・シアター・ギルド ) が顕在化し多くの芸術作品を生み出しています。 その頃、香港では映画が大ブームとなっており、観客も総入れ替え制といった具合です。 香港の映画制作会社は人手不足に悩んでいて、日本に人材を求めて来ました ( 我が社にも求人が来ました )。
条件は住宅 ( マンション ) は無料貸与、月給は 25 万円というものです。 当時の私の給料は 4 万円くらいでしたから、喉から手が出るほどの好条件に手を上げそうになったのですが、業界に入ってまだ 1 年半しか経っておらず ( 助手になり立て ) 先方の条件には、技術的に達していないと思い諦めました。 もし 3 年経っていたら絶対に応募したと思います。 結果的に我が社からの応募はなかった様です。