このブログは、実は今年の4月24日にほぼ書き上げていた。
ところが、心のどこかで、まだ時期尚早との声がした。それで保留のままにした。
その後、いろいろなことがあったのも事実だ。
今、時が満ちたかどうか知らないが、
いつまでもお蔵にしておくわけにもいかないし・・・
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忘れられた中世の町「アナーニ」-その(3)
「第二バチカン公会議」と「トレントの公会議」
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アナーニの町に行ってボニファチウス8世と言うとんでもない俗物の教皇に出会った。
この悪徳教皇を興味をもって調べている内に、初代教会の300~400年ほどの間、ほとんどの教皇が聖人であって、
その数50人以上にも及ぶことが判ってきた。
ところが、その後の1600年ぐらいの間の200代ほどの教皇には聖人は例外的に少数いただけで、
殆どが俗物か悪徳の人たちだった。
ところが、ここ半世紀ほどの間に、また聖人教皇が輩出し始めた。
そして、まだ列聖されていない教皇たちも、みな例外なく有徳の士で、悪徳の俗物は一人としていない。
これは只の偶然か、それとも、歴史の深い必然のなせる業か。
そんなことをあれこれ考えているうちに、見えてきたものがあった。
その辺にメスを入れてみよう。
「第2バチカン公会議の教えを受け入れる人と、
それを認めようとしない人との間の亀裂には、
カトリックとプロテスタントの間の亀裂よりも深いものがある」
という意味のことを公会議に深く関わったフランスの神学者アンリ・ド・リュバックが言ったということは、今まで諸先輩からの伝聞として何度も耳にしてきた。
ド・リュバックはフランスのイーヴ・コンガールやドイツのカール・ラーナーやポーランドのカルロ・ヴォイティワ(今回列聖された教皇ヨハネパウロ2世)などとともに第2バチカン公会議を牽引した神学者の一人として知る人ぞ知る。
とは言え、上の件は伝聞ばかりで、アンリ・ド・リュバックがどの著作にそのようなことを書いたのか直接確認できないでいる(知っている人は教えてください)。いずれにしても、現教皇フランシスコがミシェル・ド・セルトーと並んで、ド・リュバックを自分が最も愛好している現代のフランスの思想家の一人だと言っていることからしても、恐らく教皇フランシスコも等しくその考えを共有するものであると推測している。
そして何よりも、私は様々な体験から「本当にそうだな」 とつくづく実感しているので、ド・リュバックの出典から切り離した私自身の思いとしても 「第2バチカン公会議とその果実として生まれたカリスマを受け入れる人と受け入れない人の間の亀裂(以下、亀裂=A)には、カトリックとプロテスタントの間の亀裂(以下、亀裂=B)よりも深いものがある」 と言いたい。
浅学菲才の身ではあるが、私の思いが届く範囲の知識を動員して、何故私がそう思うか、以下にその理由を書いてみたいと思う。
なお、手法としては―今回初めての実験として―思いつくままに未完の問題提起の形でブログの骨子を最初にアップし、日を追って逐一それを自由に補足・修正しながら発展させ、時間をかけて完成していきたいと思った。
つまり、過程では右に、左に、揺れることはあっても、結論的には誰でも認められる妥当な線に納まることを願っている。
しかも、その実験の過程で、コメント欄に自由に意見や助言や補足や資料の提供を募り、それらを完成作業に反映したいと考えている。ただし、頂いたコメントは参考に用いさせていただくに留め、全てを生の形での公開はしないつもりでいる。
以上、基本ルールをご理解いただけただろうか?では、さっそく実験にかかろう。
出発点としての問題提起:
《亀裂=A》 が 《亀裂=B》 より深い理由は:
1) 《B》 がコンスタンチン体制の枠組みの中での保守と革新の間の亀裂であるのに対して、《A》 は「コンスタンチン体制内残留か、決別か」の未来に向けた決定的な選択を含む亀裂だからだ。
イエスの弟子たちの時代からコンスタンチン体制までは、「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6章24節)とか、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22章21節)とか言うイエスのラディカルな教えに忠実に、政教分離はもとより、「神」と「この世の価値、金、富」とを峻別・対峙させ、一切の妥協を拒んで貧しさ《霊的・物質的》を生きようとした時代だと理解するとしよう。
2)それに対して、コンスタンチン大帝がキリスト教をローマ帝国の宗教に取り立てた時から第二バチカン公会議の改革までの、実に1600年以上の長きにわたる期間は、「神聖ローマ帝国」と言う言葉や、近くはヨーロッパの保守政党名の「キリスト教民主同盟」などに象徴されるように、「キリスト教と地上の覇権との結合、融合、蜜月関係が当たり前の時代」、また「『イエスの天の御父の神』と『地上のお金の神様』との両方に兼ね仕えようとする折衷・妥協の時代」であったことを意味する。
整理すると、まず教会史の中では2つの大きな節目、転換点があった:
第1の転換点:「ローマ帝国によるキリスト教の国教化」は「初代教会」から「コンスタンチン体制へ」の移行を促した(312年)。
第2の転換点:「第二バチカン公会議」は「コンスタンチン体制との決別」と「第二バチカン公会議後の新時代」への移行を促した(1965年)。
もう一つの顕著な特徴は:
① 初代教会が「キリストの弟子たち主導」の時代であったのに対して、
② コンスタンチン体制を始め、それを導いたのは「地上の覇者コンスタンチン大帝」であったこと、
③ 第二バチカン公会議後の時代を開いたのは教会のトップ「ローマ教皇ヨハネス23世」であり、その後、パウロ6世、ヨハネ・パウロ1世、ヨハネ・パウロ2世、ベネディクト16世、そして今のフランシスコ教皇が一貫してその改革路線を踏襲していること(上からの革)、
④ それに対し、コンスタンチン体制内宗教改革とその結果生まれた分裂を主導したのは教会のいわば底辺の一司祭、「マルチン・ルター」とその追随者たちだったこと(下からの改革)。
ルターは初め教会を割る気はなかったのではないか。ルターは公会議を提唱(要求)したのではないか?ルターの場合、錦の御旗=教皇が保守の側に残った以上、その保守の側に追い詰められれば、心ならずも先鋭化し異端の烙印を押されるところまで突っ走らざるをを得なかったのではないか?トレントの公会議は、ある意味でルターの導き出した(ルターの望みが叶った)ものとは言えないか?ルターが望んだ公会議は教会がカトリックとプロテスタントに決定的に分裂をする以前に開かれるべきではなかったのか。しかし、教皇が保守の側に残り、ルターの多くの正しい改革の主張を退けた結果、教会分裂の悲劇は避けがたいものとなったのではないか。
⑤ 言葉を換えて言えば、トレントの公会議は「錦の御旗=教皇」が保守の側に残ったが、第二バチカン公会議の場合は「錦の御旗=教皇」は革新の側に移ったため様相が逆転している。
また、(亀裂=B)プロテスタント改革の場合は、教会のトップ、即ち時の教皇が保守の側に残ったので、保守が改革者「ルター」一人を破門することになったのに対し、
(亀裂=A)第二バチカン公会議を境とする亀裂の場合は、教会のトップが革新の旗手になり、改革を牽引したので、それに抵抗する保守の最右翼の「ルフェーブル司教」一人が改革派教皇ヨハネ・パウロ2世によって破門されることになった。これも様相逆転の表れとは言えないか。
以上の事の理解を助けるために、下手な図を描いてみた。コンスタンチン大帝からヨハネス23世(第二バチカン公会議)までの時間(黄色線が点線の下にある時代)を「コンスタンチン体制下の時代」、それ以前を「初代教会」、それ以後を「公会議後の時代」と考えていただきたい。
《コメント歓迎》
◎ このブログはこのままでは未完成である。ただの問題提起にしかすぎない。読者の協力を得て変更・補完して妥当な線に収めて完成したい。
◎ だから、こういう設問の仕方に反対、賛成の意見がおありの方は自由にコメント頂きたい。
◎ 誤りがあったらご指摘いただきたい。
◎ 見落としている大事な観点に気付かれた方はご教示いただきたい。補足資料として採用したい。
なお、今回の試みは、私のコメント欄に最近集中的にコメントを寄せられたある匿名の方(その方のコメントの多くは保留のまま残り公開されていない)に対する私流のお答えでもあるつもりだ。(私が「アナーニ」シリーズ その(1)、その(2)を書いていたころ、コメントが相次いでいた。)
(つづく)