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聖母マリアの被昇天の祝日の説教
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みなさん。今日、8月15日は聖母マリアの被昇天の大祝日です。
どれぐらい大きな祝日でしょうか。私に言わせれば、復活祭につぐ二番目に重要な祝日だと言うにふさわしいと思います。理由は追い追い説明いたしましょう。
そして、今夜は4人の赤ちゃんの洗礼式も行われます。共同体の大きな喜びです。その事についてもひと言述べるつもりです。
被昇天のマリア ルーベンス画
さて、8月15日の被昇天の祝日は日本の終戦記念日でもあります。同盟国イタリア、ドイツが相次いで降伏した後も日本はなおも頑張り続けようとしましたが、8月6日の広島、9日の長崎のあと、次は東京かと思われたとき、この新型爆弾の破壊力から推して、100万人を下らない死者を出し、天皇の命も危ういとあっては、全面降伏しかなかったのでしょう。
長崎に落とされたファットマン 浦上天主堂の上に立つキノコ雲
八月九日と言えば、お盆で帰省した大勢のカトリック信者が、15日の聖母マリアの被昇天を清い心で祝おうと、告解(懺悔)のために大挙浦上天主堂に集まっていました。そして、その上空500メートルで広島型の1.5倍の威力のプルトニューム爆弾がさく裂し、教会は数千度の火の玉によって瞬時に破壊され、おびただしい数の犠牲者が出ましたが、その浦上天主堂は不思議にも「無原罪の聖母マリア」に奉献された聖堂でした。
無原罪の聖母に捧げられた浦上天主堂の廃墟
無原罪の聖母と言えば、その祝日は12月8日ですが、ちょうどその日、真珠湾に奇襲攻撃をかけ戦争に突入したのは、ただの偶然だったでしょうか。
日本にとって、第二次世界大戦は聖母マリアの「無原罪の御宿りの祝日」に始まり、聖母マリアの「被昇天の大祝日」に終わり、しかも、終戦のために「無原罪の聖母」に捧げられた大浦天主堂で多数のカトリック信者の魂の生贄が必要でした。
私は、天国に行ったら、なぜ第二次世界大戦の節目の日がマリア様の記念日と重なったのか、神様にお聞きしたいと思っています。単なる偶然?しかし、神様に偶然はありません。
ところで、現代のカトリック信者は、「マリア様の被昇天」とか、「マリア様の無原罪の御宿り」という教えは、遠い昔から教義として定められていたと思っている人が多いのではないでしょうか。カトリック教会の一連のドグマ=信仰箇条=教義=は、全て2世紀から4世紀ごろまでに公会議で決定され、以来、変わることなく伝承され、その何れかを信じないものは異端とされてきました。
ところが、実は、無原罪の御宿りの教義はわずか125年前に教皇ピオ9世によって定められ宣言された新しいドグマです。「無原罪の御宿り」とは、神様の特別な計らいで聖母マリアがアダムとエバの犯した罪、「原罪」から奇跡的に免れた状態で母アンナの胎に宿ったという信仰です。
それを受けて、終戦から5年目の1950年には、ピオ12世が、マリア様は死を味わうことなく霊肉共に天に上げられた(被昇天)、という教義を新たに宣言されました。今日の大祝日の始まりです。しかも、それらは1870年の第1バチカン公会議で「教皇の不可謬権」が新たな教義として宣言されたことの連鎖反応によるものでした。
無原罪の聖母 ムリリョ画
つまり、教会は2世紀から4世紀にかけて、一連の公会議を経て信仰箇条の骨格を固め、以来1500年間にわたって安定した状態にあったのに、19世紀の「教皇の不謬権」(ローマ教皇が信仰および道徳に関する事柄について教皇座から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づくものとなるため、決して誤りえない)という新しい教義の制定に呼応して、「聖母の無原罪の御宿り」と、「聖母の被昇天」の新しい教義を相次いで付け加えたのです。そして、これらの祝日は、人類の救いの歴史にとって決定的な意味を持っています。
神様の宇宙万物の創造という壮大な事業は、その完成に際して、人祖アダムとエバが神様から戴いた最高の恵みである理性と自由意思を正しく使うかどうか試されました。ところが、こともあろうに、天使たちが固唾をのんで見守る中、人祖たちはその恵みを濫用して「不従順の罪」(楽園の禁じられた木の実を食べた=傲慢不遜にも神よりも偉くなろうとした)を犯し、神様のテストに見事に落第してしまいました。そして、アダムとエバの罪のウイルスは、「原罪」のパンデミックを引き起こし、その結果、自然の調和が破れ、死と腐敗が歴史に入り、男は額に汗して日々の糧を得、女は産みの苦しみのうちに子を産まねばならなくなりました。さらに、罪への傾きとしての「欲望」がDNAにキッチリと組み込まれてしまったわけです。
一見するところ、神様の創造の御業は最後の仕上げの段階で大失敗に終わりました。
しかし、神様はその失敗を立て直すために、直ちに長い救いの歴史を始められ、時が満ちると、一組の男女(聖母マリアと救い主キリスト)を選んで、人祖が見事に落第したのと全く同じテストに、あらためて再挑戦するチャンスをお与えになりました。その場合、受験者は人祖と全く同じ条件で追試に臨まなければなりません。つまり、彼らは人祖から受け継がれた原罪と言うハンディから奇跡的に除外される必要があったのです。
ここで1895年に教皇ピオ9世によって「聖母マリアの無原罪の御宿り」の教義の制定されたことが重要な意味を持ってきます。聖母マリアはこの世に生を受けた最初の瞬間から原罪を免れて、第一のエバと全く同じ無原罪の状態に置かれたという信仰は、初代教会から民間に広く信じられてきたとは言え、4世紀ごろまでに確定した教義(信仰箇条)の中には含まれてはいませんでした。その意味で、キリスト教の教義はまだ発展途上にあったと言えるでしょう。
では、第二のアダムであるナザレのイエス(キリスト)についてはどうでしょうか。原罪は生殖によって親から子にDNAの一部であるかのように伝えられていきます。マリアが奇跡的に無原罪の状態で母親の胎に宿ったとすれば、処女のままのマリアの胎に聖霊の働きで宿って生まれた幼子イエスも無原罪であったのは自然です。だから、教会が聖母の無原罪を特別盛大に祝うのは当然なのです。
さて、死が原罪の結果として人類の歴史に入ったのであれば、無原罪の状態でこの世に生を受けたマリア様が死を経験することなく昇天したことも理に適っています。そして、聖母マリアから無原罪性を受け継いだイエスも、死の束縛から自由ではあったのも当然でした。
しかし、イエスの場合は敢えて自由にすべての人類と同じく死を受け入れ、自らの力で死者の中から復活することを通して、全人類の死を決定的に打ち滅ぼし、その結果として全人類のために復活の命を勝ち取られました。また、聖母マリアも十字架の下に佇み、イエスがその肉体に負った恐ろしい苦しみを、そっくりご自分のこころで味わい尽くすことを通して、人類の共贖者としての役割に参加されたのです。
空の墓と復活のキリスト ジオット画
こうして、人祖の罪の結果は、第二のアダムと第二のエバの贖いの業によって贖われ、死に勝利して、全人類に復活の命が与えられました。
ここに「キリストの復活祭」と「聖母マリアの被昇天祭」が教会の最大の祝祭と呼ばれるにふさわしいと言う私の主張の根拠があります。
教会は、回心して福音を信じ洗礼を受ければ、原罪もそれまでに犯した個人的罪も全て赦されて、見える教会のメンバーになり、死後キリストの復活の命に与かって天国に入ると教えます。
ただし、キリストの復活の後も、人類は原罪の後遺症のもとにあります。原罪とは実に厄介なもので、人は洗礼を通していずれはキリストの復活の命に与るとは言え、いったんは死に、その後、世の終わりに復活する日まで眠ることに変わりはありません。さらに、死を免れないだけではなく、自己愛、金銭欲、食欲、肉欲、名誉欲、支配欲、等々、人を欲望の奴隷として日々罪を犯す傾きから逃れることが出来ないのです。これが、歴史を生きる人類の存在の条件です。
さて、今夜、聖母マリアの被昇天の祝日に4人の赤ん坊が洗礼を受けます。
教会が善悪の分別もつかない、従って自分で罪を犯すはずもない、無垢な赤ん坊に急いで洗礼を授けるのには訳があります。その背景に、原罪を負って生まれた幼児が、洗礼を受けて原罪を赦されることがないまま死んだら、復活して永遠の命に入ることが出来ないのではないかと心配したことに加え、昔は幼児の死亡率が高かったこともあります。
今夜、1歳未満の4人の子供たちが洗礼を受けます。教会は、幼児にも原罪の罪が纏わりついていることを認め、それから解放されるために洗礼を授けるのです。
原罪は生殖を通じて親から「うつされた」罪です。その罪は洗礼によって拭い去られますが、先にも言った通り、原罪の結果は残り、自然の秩序と調和は損なわれ、人間は相変わらず欲望と誘惑に弄ばれ続けます。
つまり、洗礼は人間を無原罪にはしないと言うことです。
それでも、教会は洗礼によって人の罪(原罪も自罪も)が赦され、天国の門が開かれ復活の命が与えられると信じているので、全世界に行って福音を述べ伝えなさい、人々に回心を勧め洗礼を授けなさい、と教えます。
教会は、人生の目的を知らず迷いながら罪の闇に沈んでいている人々に「福音を信じ、回心して洗礼を受ける者には、永遠の命が与えられる」という善い知らせを告げ知らせる義務を信者に負わせます。その意味で、キリスト教は福音を宣教する宗教であり、人々に改宗を勧める宗教です。
では、キリスト教徒が自分の義務を果たさず、宣教する使命を怠った結果、救いのメッセージに出会って洗礼を受ける機会に恵まれなかった無数の魂はどうなるのでしょうか。
そのような魂たちに対しては、神様ご自身が直接的に責任を取られ、神様だけが知っている秘められた方法によって、彼らもキリストの復活の命に与かり、救われるように配慮されます。そして、宣教の使命を怠った信者は、厳しくその責任を問われるに違いありません。
現代では、あらゆる先端技術の分野において、QCというものが常識になっています。QCとはクオリティー・コントロールの略で、品質管理の理論と実践であります。冷戦時代、後れを取ったアメリカが、国威をかけてソ連より先に人を月に降り立たせるためにアポロ計画を立てました。
月着陸船とそれを運ぶサターンロケットは数万個、いやそれ以上の数の部品から成り立っていたと思われます。その部品の一個でも不良品だと、ミッションが失敗に終わる可能性が高まります。従って、すべての部品を限りなく欠陥の無い品質に保つためにQC理論をNASAは打ち立て、それを借用して日本の企業がいち早く生産活動に応用し競争力を高めました。
神様が創造された1億2600万人の日本人の内、カトリック信者はたった40万人に過ぎず、プロテスタント教会で洗礼を受けキリスト者を合わせても100万人に及ばないでしょう。もし、洗礼を受けた信者だけが救われて天国に入るのだとすれば、つまり日本人の126人に一人しかキリストの復活の命に与れないなどと言う馬鹿馬鹿しい話がカトリックの教えだとすれば、私はさっさとカトリックの神父をやめ、キリスト教信者であることもやめたいと思います。私の愛する友人の多くが、洗礼を受けたキリスト者ではないのですから。
神様の創造活動の中で人間の魂の救いは最優先課題でしょう。救われる人間に関する神様のQCが、合格率0.8%で、それ以外の99.2%が不良品として地獄に落ちるなどという話を、私は到底受け入ることが出来ません。
では実際はどうでしょう。
第二のアダム・キリストが、無原罪の身でありながら、進んで死を受け容れ、その死を滅ぼして自らの力で復活したこと、第二のエバである無原罪のマリアが、死と腐敗を免れて天に昇られたことは、全人類にとって最高のグッドニュース、良い知らせ、「福音」です。このよい知らせに接してそれを信じ、洗礼を受け、神の恵みに留まって生涯を終えたものは、死後復活して永遠の命に入ります。それはまあ当然です。
他方、生涯この福音に出会う機会に恵まれず、従って洗礼を受けず、見える教会のメンバーになることのなかった実に多くの人々も、神様だけが知っている秘密の道を通してキリストとマリアの共同作業で獲得された死に対する勝利と永遠の命に与かることが出来ると教会は教えます。これなら納得です。
では、福音と出会い信じて洗礼を受けたものと、死ぬまでその福音と出会わなかったものとどこに違いがあるのでしょうか。もし、どちらの場合もキリストの死に対する勝利に与かり、復活の命をいただくのであれば同じことではないでしょうか。
そうではありません。福音を聴いて、神様の存在を知り、その愛に触れ、回心して洗礼を受けて教会の一員になった人の生涯と、神と出会うことなく、生きる意味と目的を知ることもなく、ただ精神の暗闇の中で迷いながら人生を終わった人の場合とでは、一回限りの人生の豊かさの面では雲泥の差が生じるかもしれません。
しかも、この雲泥の違いは、神様に出会った人間が、戴いた恵みの上にあぐらをかいて、その恵みと喜びを人々に分かち合おうとしなかった怠慢の結果として生じます。言葉をかえて言えば、無償で戴いた信仰と洗礼の恵みを私物化して、自らはその恩恵にあずかりながら、それを人々に分かち与えようとしなかった信仰者の怠慢は、多くの人たちから信仰に出会う権利と機会を奪った点において最後に厳しく裁かれることになるでしょう。
今夜、ここに集って聖母マリアの被昇天祭を祝う共同体は、実に恵まれた選ばれた幸いな集団だと思います。この60人ほどの群れの平均年齢は極めて若く、半数近くが子供達で、洗礼を受ける4人の赤ちゃんの他に、居並ぶ若い母親のおなかの中には来年洗礼を受けることになる胎児たちが予備軍として控えています。真っ裸の赤ちゃんを、司祭は大きな洗礼盤の水の中に、次のように唱えながら、3度頭まで沈めて洗礼を授けます。
父とー!(ザブン) 子と-!(ザブン) 聖霊のみ名によってー!(ザブン)
洗礼を授けまーす!
これは、今夜の祭りのハイライトと言ってもいい出来事です。
この赤ん坊たちの若い親たちは熱心にミサに与かり、熱心に聖書に親しみ、熱心に教会の祈りをし、子供達にはしっかりと信仰教育をほどこしています。彼らはこの信仰生活を護り保つために、実に多くの犠牲を払い、世間の風潮に逆らって信仰生活を生き抜いていますから、神様は豊かな恵みをもって報いて下さるに違いないだろうと私は信じます。
私の切なる願いは、彼らが熱心な宣教者でもあってくれることです。
この罪深い私は、もし無事に天国に辿り着いたら、そこで生前にキリスト教の信者にならなかったおびただしい数の魂と出会うことを楽しみにしています。その人たちの中に、著名なカトリックの聖人をも凌ぐ聖なる魂たちがいても私は決して驚かないでしょう。さらに、この世でキリスト教と相容れないと言われていた宗教やイデオロギーの信奉者たちについても同じことを言いたいと思います。
他方では、地上のキリスト教会の中では正統派と目され、熱心な信仰者として尊敬を集めていた人たちや、多くの高位聖職者、修道者が天国には見当たらず、まさかと思いつつ地獄を覗いたら、ちゃんとあちらに住んでおられるのを知って、神様の計らいの不思議さに改めて畏れと驚きを禁じ得ないだろうと思います。キリストが言われた通り、「あとのものが先になり、先のものが後になる」と言うのが神様のなさり方なのでしょう。
では、登山口は異なっても目指す富士の高嶺は同じということになるでしょうか。一見そのようにも見えますが、実際はそうではないと思います。
私は、どの登山口から登っても、救われる人はみなイエスとマリアの救いの業によって救われるのであり、キリストの十字架の贖いとその復活の業によることなく天国に入り永遠に生きる人は一人もいないと信じています。だから、早いか遅いかはとにかくとして、キリストの救いの業に出会ってその道を歩く人は恵まれていると思います。
「死後の人間に悔い改めの余地がない」というのはカトリック教会の厳しい教えです。その意味で、天国も地獄も実は死ぬ前にこの世から準備され、始まっているもののように思います。生きているうちに一度も人を愛さなかった人は、危ないです。傲慢に膨れ上がって、神の憐れみを断り、神より自分を正しいとする人も自分で地獄を準備しているのだと思います。
これは普段のブログの長さの倍近くになってしまいました。去る8月15日の被昇天のミサでの説教は、もちろんもっと短いものでした。それは、参列した信者の集中力と忍耐力には限度があり、長い話を受け付けないからです。
今回、ブログのために言葉を補っているうちに長くなりました。読者の皆様の集中力が途中で切れないことを祈りながら、恐る恐るアップします。