神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

伝 占部館跡

2023-06-24 23:34:20 | 史跡・文化財
伝 占部館跡(でん うらべやかたあと)。
場所:茨城県行方市羽生。「橘郷造神社」(前項)参道入口付近から、茨城県道360号線(大和田羽生線)を南へ約280m。駐車場なし。なお、「羽生郵便局」付近からは、県道を北東へ約800m。
「萬葉集」に常陸国の防人の歌として採録された10首の1つとして、助丁 占部廣方(すけのよぼろ うらべのひろかた)の「橘の 下吹く風の 香ぐはしき 筑波の山を 恋ひずあらめかも」(現代語訳:橘の花の下を香りのよい風が吹いている筑波山を恋しく思わずにいられようか)(巻20ー4371)がある。その歌碑が「橘郷造神社」の近くの「東陽会館」という地区集会場?の敷地内に建てられている。この歌碑は、「若常館跡」(2022年6月10日記事)入口付近の若舎人部 廣足の歌碑と同時期(昭和48年)に建てられたものである。
さて、この歌については、作者の出身地が記載されていない。筑波山を懐かしく思うというので、筑波郡かとも思われるのだが(因みに、「筑波山神社」(2020年9月12日及び19日記事)境内にも、この歌の歌碑がある。)、常陸国の中~南部には筑波山が見える場所が多い。そして、「橘の 下吹く風の」という1~2句が「香ぐはしき」の序詞であるという説があって、そうなると、橘の香りということにはあまり意味がないことになる。ところで、廣方の身分「助丁」であるが、防人の身分には、国造~助丁~主帳丁~火長~上丁~防人という序列があったとされている。つまり、助丁というのは、国造の副官のような地位にあったと考えられる。そこで、常陸国府(現・茨城県石岡市、「常陸国府跡」(2018年1月6日記事参照))があった古代・茨城郡に住んでいたと推定する。そして、古代・茨城郡内には橘(立花)郷があった。郷名の由来は定かではないが、かつては橘の木が多くあって、実際に橘の花の香りと筑波山の風景が連想されたのかもしれない。ということで、実際にはかなり根拠薄弱かもしれないが、古代には茨城郡橘(立花)郷、近代には行方郡立花村(明治22年~昭和30年)であった当地に占部氏の居館があったとして、占部廣方の万葉歌碑が建てられることになったようである。
蛇足:「いばらきデジタルマップ」では、「若常館跡」は奈良~平安時代の城館跡として掲載されているが、「伝 占部館跡」はノーマークとなっている。


写真1:「東陽会館」。この辺りが占部廣方の居館跡とされている。


写真2:占部廣方の万葉歌碑


写真3:説明板
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若常館跡(茨城県行方市)

2023-06-10 23:31:12 | 史跡・文化財
若常館跡(わかづねやかたあと)。別名:若舎人部館跡(わかとねりべやかたあと)。
場所:茨城県行方市捻木524外。捻木の「香取神社」(前項)参道入口から南東へ約240mのところに「万葉歌碑」があり、「若常館跡」はそこから北へ約120m。ただし、「万葉歌碑」から先、奥のお宅の私有地を通らないと行けないらしいので、許可が必要とのこと。駐車場なし。
「若常館跡」は、中世、若舎人氏の居館跡とされるもので、現在の住所は行方市捻木だが、元は「若常」という地名で、「若舎人(わかとねり)」が訛ったものという。「若常館跡」は台地の先端、30~40m四方の方形となっており、字名は「古館」といった。また、その周囲に堀跡があって、「長堀」という字名もあったらしい。土塁などの築造が少ないため、中世より古い形式とも考えられ、これが、「萬葉集」(8世紀後半頃成立)に採録された茨城郡 若舎人部廣足(うばらきぐん わかとねりべのひろたり)の一族の居住地だったのではないかといわれている。そこで、その入口のところに、「萬葉集」に採録された廣足の歌のうち1首、「防人に 立たむ騒きに 家の妹が 業るべきことを 言はず来ぬかも」(現代語訳:防人に出発する慌ただしさで、家の妻に生業(生活のためにすべきこと)について話をしないで来てしまったなぁ)(巻20-4364)を刻した石碑が建てられたという。防人に選ばれた者は武器・食料等を自弁して持参しなければならない上に、兵役期間が終わっても無事に帰れるとは限らず、税の免除も無かったため、壮年男子を徴兵された家族の負担は非常に大きく、そうした心配が表現されたものとされる。なお、廣足の歌は「万葉集」にもう1首、「難波津に 御船下ろ据ゑ 八十楫貫き 今は漕ぎぬと 妹に告げこそ」(現代語訳:難波の港に官船を下ろし、多くの櫓を立てて、もう漕ぎ出したと妻に告げてほしい)(巻20-4363)が採録されている。因みに、「舎人部」というのは、大王(天皇)・貴族の側に仕えて雑役・警衛などで奉仕した人々の集団・組織とされ、「若舎人部」という正式名称はないようだが、おそらく皇子等に奉仕した人々で、廣足もその一員とみられる。雑用などが主な任務とはいえ、貴族らの近くに仕えていたことから、地方にあっては、それなりの地位・教養があったものと思われる。なお、江戸時代中期の国学者・海北若沖(契沖の弟子)の著「万葉集作者履歴」において、廣足を百済国出身の利加志豊王の後裔としているが、その出典は明らかでないようである。
さて、現在、当地(捻木)は現・行方市(旧・行方郡玉造町)に属するが、「萬葉集」では廣足の出身地を「茨城郡」としている。これは、当地が梶無川の右岸(西岸)にあり、「常陸国風土記」行方郡の条で、梶無川が「茨城郡」と「行方郡」の境になっている、という記述と合致する。ただし、平安時代中期頃に編纂された「和名類聚抄」には、「茨城郡」にも「行方郡」にも「若舎人郷」という郷名は見当たらない。当地は、おそらく古代には茨城郡橘(立花)郷内だったと思われる。時代が下って、常陸国一宮「鹿島神宮」に伝わる所謂「鹿島神宮文書」の中に、康永2年(1343年)の日付で「常陸国行方郡若舎人郷内根地木村」という記載のある文書等が存在することから、平安時代末期から中世に至る間に「行方郡」が北西に広がったとみられる。これは、常陸大掾氏の一族や「鹿島神宮」などの領地争いの結果で、ここでは詳細は省くが、中世の若舎人氏は、若舎人部廣足とは血縁的なつながりはなく、その子孫ではないだろうとみられている。常陸大掾氏の支流・行方氏の庶子とする説もあるが、橘郷は治承5年(1181年)に源頼朝から「鹿島神宮」に寄進され、大禰宜・中臣則親の一族が派遣されて橘郷羽生(現・行方市羽生)に館を築いて支配するようになったことから、若舎人氏は、この中臣氏(後に羽生氏を名乗る。)の庶子ではないか、とする説が有力となっている。


写真1:若舎人部廣足の「万葉歌碑」。この右の道路の先(突き当り)に「若常館跡」があるが、私有地を通るというので、行くのは遠慮した。


写真2:同上。この歌碑の前の道路の先(北西)約240mのところに「香取神社」参道入口がある。


写真3:「若常館跡」(竹林のところ)。
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現原の丘

2023-05-06 23:31:26 | 史跡・文化財
現原の丘(あらはらのおか)。
場所:茨城県行方市芹沢(「現原の丘」碑)。茨城県道50号線(水戸神栖線)「榎本」交差点から北西へ約1.7km、「現原の丘 五百m現地」という案内看板があるところを左折(南へ)、狭い道路を道なりに約650m。駐車スペースあり。
「常陸国風土記」行方郡の条によれば、「倭武天皇(日本武尊)は「玉清井」(2023年1月14日記事)から更に車駕(みこし)を廻らせて、現原の丘に至り、そこで食事を召し上がった。四方を見渡して、「山が入り組み、海が湾曲している様は、高低長短入り交り、くねくねとしていて美しい。この地を「行細国」(なめくわしくに)というがよい。」と仰った。これにより、後に「行方」(なめかた)というようになった。その丘は、高く立ち現れているところから、現原の丘と名付けられた。」(現代語訳。一部省略)という。この「現原の丘」がどこかについては諸説ある。遺物があるわけではないので何とも決めがたいところだが、「常陸国風土記」の記述ぶりから、いくつかの候補が挙げられている。最も有力とされているのが、行方市芹沢から若海にかけての、現・「玉造ゴルフ倶楽部 若海コース」のある辺りである。玉造町郷土文化研究会は、比定地の条件として、①古代行方郡内にあって、平らで広く開けた台地であること、②古代大益河(現・梶無川)に接していること(「常陸国風土記」には、日本武尊は現原の丘を下りて、梶無川を遡ったという記述がある。)、③展望が「常陸国風土記」の記述に似ていること等をあげて、当地付近を「現原の丘」と推定した(「玉造史叢第45集」)。このゴルフ場だけで広さ約80ヘクタールあるとのことで、どこで日本武尊が食事したかはわかるはずもないが、ゴルフ場のフェンス脇に石碑と説明板が建てられている。
一方、「玉造町の昔ばなし」などの著者・堤一郎氏は、当地(芹沢)からでは海(現・霞ケ浦)は見えない、として、「現原の丘」は現・行方市谷島の台地だろうとしている。ここは、霞ヶ浦に臨んだ高台で、玉造地区で最も高い場所だという。現在は、浄土宗「正念寺」や旧「玉造西小学校」に加えて住宅も多いので、やや狭く感じるが、それらを取り払ってみれば、それなりの広さがあるのだろう。確かに、ここからの霞ヶ浦の眺めは素晴らしかっただろうと思われる。また、この高台から東側に下りれば、すぐに梶無川がある。ただし、難を言えば、谷島は梶無川の右岸(西岸)に当たり、梶無川が茨城郡と行方郡の郡境である(「常陸国風土記」による。)ということからすれば、古代には茨城郡に属していたということになる。
蛇足:「和名類聚抄」(平安時代中期)によれば、常陸国行方郡に「荒原郷」があった。また、中世(鎌倉~室町時代)の古文書に「荒原郷」又は「荒原庄」という記載があるという。明治22年に捻木村・若海村・芹沢村・谷島村が合併して行方郡現原村が発足した(~昭和29年まで存続)。村名は古代の地名に因むというが、古代「荒原郷」の範囲と一致するかは不明である。


写真1:「現原の丘」碑と説明板


写真2:同上。碑の背後は農地、向かい側はゴルフ場。


写真3:浄土宗「得生山 宝池院 正念寺」(場所:茨城県行方市谷島201。国道355号線「玉造町浜」交差点から東の道路に入り、直ぐ左折(北東へ)、約400mで右折(南東へ)、約45mで参道入口。駐車場有り。)


写真4:「正念寺」の向かい側にある旧「玉造西小学校」(平成26年廃校)グラウンド。閉鎖されているので、フェンスの外から撮影。グラウンドの南側(写真の左手奥)が崖になっている。


写真5:旧「玉造西小学校」敷地の南東端から南を見る。霞ヶ浦と湖畔に立つ「虹の塔」が見える。
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手賀長者館跡

2023-02-11 23:32:23 | 史跡・文化財
手賀長者館跡(てがちょうじゃやかたあと)。唐ヶ崎長者館跡ともいう。
場所:茨城県行方市手賀4248外。茨城県道50号線(水戸神栖線)と同183号線(山田玉造線)の「井上藤井」交差点から県道50号線を北へ、約2km。交差点の角に「りさき牛乳店」があるが、その北側辺り。駐車場なし。
平安時代後期の武将・源義家が奥州征伐の折、富裕な長者から厚いもてなしを受けたのに、それほどの財力のある長者は後の災いになるかもしれないとして長者を滅亡させた、という伝説が茨城県内各地に残っている(現・茨城県水戸市の「一盛長者」など。「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)参照)。長者というのが、駅長又は郡司の後身ではないか、という考えもあって、こうした伝説の残る場所が古代官道の駅家や郡家を探す手掛かりになったりしている。当地では「手賀長者」、別名「唐ヶ崎長者」がそれに当たるが、手賀長者が他と違う点が2つある。1つは、長者の一族が皆殺しになったのではなく、長者の娘が生き残り、地元の「西蓮寺」(前項)の常行三昧会を始めた、という伝承である。これは、仏教による救済という話になっている。もう1つは、長者が富裕になった経緯が語られていること。手賀長者は、元は貧しい若者だったが、大変な親孝行で、あるとき草刈りに行って湧き水を探して飲んだところ、酒の味がした。喜んで家に持ち帰り、父親に飲ませたところ、美味しい酒だと言って喜ばれた。これを知った他の村人も飲んでみたが、ただの水だった。ある夜、若者の枕頭に白髪の老翁が立ち、「わしは原の稲荷だ。お前の孝行に免じて水を酒に変えたのだ。」と言って消えた。そこで、夜明けに若者が湧き水のところに行って探すと、稲荷の祠があった。厚くお礼を申し上げ、その酒を売って財を築いたという民話である。こちらは所謂「養老の滝」伝説で、全国に同様の民話がある。ただし、当地でなぜこのような話になったのかはわからない。因みに、「原の稲荷」というのは、「手賀ふれあいの森」公園内にある「小座山稲荷神社」のことらしい。
さて、「手賀長者館跡」とされるところは、今は同じ行方市だが、概ね県道50号線の西側と東側、旧・玉造町手賀と旧・北浦村行戸に跨っていて、字はどちらも「唐ヶ崎」という。両地から布目瓦や須恵器・土師器の破片が出土している。行戸は、元は手賀の一部だったが、五十戸(さと)単位で村としたとき、足りなかったので余戸の里となり、これが訛って行戸という名になったとのこと。伝説では、長者の館は300間(約545m)四方の土手を廻らせ、建物30棟、門の扉は白檀(ビャクダン)製で、井戸7つ、召使50人、馬十数頭あったというが、今では何の痕跡もないようである。上記の通り、当地は現・行方市手賀の最も東に当たるが、手賀は「常陸国風土記」行方郡条にある「提賀の里」、「和名類聚抄」所載の「行方郡提賀郷」の遺称地とされ、常陸国分寺系瓦が出土した「手賀廃寺跡」のほか、貝塚・古墳・集落跡などが発見されている。つまり、往古から人の住みやすい場所であったのだろう。ただし、手賀長者(唐ヶ崎長者)が何時の頃の人物かはよくわかっていない。長者は、唐ヶ崎四郎左衛門(あるいは四郎兵衛)という名であったというが、「井上神社」(2023年1月21日記事)の棟札にその名があるほか、室町時代の明応8年(1499年)に常陸大掾氏の一族・井上維義が小田氏勝と戦ったとき、維義の本陣を固める旗本頭であったとされることなどから、少なくとも、源義家に滅ぼされたというのは伝説に過ぎないのかもしれない。要するに、古代~中世~近世のいずれかに手賀長者あるいは唐ヶ崎長者という豪族・分限者がいたことは確かでも、それが何時の時代か、どのような人物だったのかは確かめることができないようである。

小座山稲荷神社(こざやまいなりじんじゃ)。
場所:茨城県行方市手賀4099付近。「手賀長者館跡」付近の交差点から県道を北へ約500mで左折(西へ)、約400m。更に約50m進むと、駐車場・トイレがある。
社伝によれば、1千年前から「原の稲荷様」があり、「子稷(ししょく)の神」(子供の夜泣きを治す神)として人々の信仰を集め、茨城郡・新治郡・鹿島郡などからも参拝者があった。しかし、時が経って荒廃したのを憂いた手賀村の名主・茂木彦平が、文化14年(1817年)に社殿を再建し、氏神として祀った。弘化・嘉永年間(1845~1855年)、新田・井上・西蓮寺から当地(小座山)に移住してきた人々7戸が、当時の手賀村名主・茂木三平の計らいによって荒れ地や山野を開拓するようになった際に、茂木家が祀ってきた稲荷社を奉斎した。平成7年、当地が公園として整備されるに当たり、社殿を改築・整備した。祭神:倉稲魂命。


写真1:「手賀長者(唐ヶ崎長者)館跡」付近。中央の道路は県道50号線。遺跡の痕跡は殆どなく、どの辺りかよくわからない。あるいはもう少し先(北)かもしれない。


写真2:「小座山稲荷神社」参道石段


写真3:同上、鳥居


写真4:同上、社殿
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井上長者館跡(茨城県行方市)

2023-01-28 23:35:57 | 史跡・文化財
井上長者館跡(いのうえちょうじゃやかたあと)。
場所:茨城県行方市井上2439-8外。茨城県道50号線(水戸神栖線)と同183号線(山田玉造線)の「井上藤井」交差点から北へ約700mのところにある交差点の西側(現況:畑)。駐車場なし。
現・行方市井上に古くから「長者郭(曲輪)」という場所(字)があり、戦前までは土塁や堀の一部が残っていて、「金塚長者」という長者の館(屋敷)跡との伝承があった。昭和37年、地籍調査のため茨城県農政課からの依頼で航空測量会社が撮影した写真に、約110m四方の土手が回り、二重堀の跡が写し出されていた。現場は概ね平坦な畑が広がっているだけだったが、「ソイルマーク」と言って、表土層の厚さの差が乾燥の差となり、航空写真で見ると、深い溝が埋まっているところは黒く写るというものが検出された。この発見は偶然だったが、直ぐに読売新聞社も航空写真を撮って確認したという。当時も発掘調査が行われたらしいが、結果の詳細は不明になっている。平成元年になって玉造町教育委員会(当時)が発掘調査を行ったところ、幅約4mの二重の空堀が検出され、奈良~平安時代の須恵器や瓦などの遺物が発見された。外堀の復元規模は東西120.5m×南北119.7mのほぼ正方形で、堀の深さは2m以上あり、主軸は北東に18度傾いていることが判明した。築造時期には諸説あるが、鉄砲伝来(16世紀)以降の城館の堀はジグザグ型に造られるようになるので、少なくともそれ以前(中世以前)のものと考えられるという。調査報告書では、出土物の須恵器や瓦片からして8~10世紀(古代)としているが、出土物が極めて少なかったこともあり、中世の城館跡とする説もある。なお、地元に伝わる「高野助右衛門家文書」という古文書(作成年代不明)の中に「金塚長者郭の図」と呼ばれる絵図面があり、これが発見された堀跡の形と一致した。この古文書によれば、長者館の主は源茂義といい、康平5年(1062年)から320年居住して、後に金塚氏と名乗ったという。
さて、行方郡家の所在地については、「常陸国風土記」の記述に基き、「国神神社」(2022年11月12日記事)の鎮座地から逆算して現・行方市(旧・麻生町)行方とするのが通説だったが、現在では現・行方市(旧・玉造町)井上とする説が有力になってきている。また、「常陸国風土記」編纂の時代には現・行方市行方にあったが、その後、現・行方市井上に移転したとする説もある。ただし、「井上長者館跡」が行方郡家の跡かどうかはまだ確定されていない。もし中世のものとすれば、郡司の後身が長者となり、その長者が築いた城館跡かもしれない。


写真1:「井上長者館跡」付近。東側(県道側)から見る。


写真2:同上、南側(農道側)から見る。


参考画像:発見のきっかけとなった航空写真。二重になった正方形のソイルマークがはっきり見える。右側の、上下に走る白い線が県道50号線。この辺りでは、県道がほぼ大字の境界と重なっており、古代官道のルートに近いと思われる。行方郡家が「井上長者館跡」付近にあったとすれば、古代官道を抜きには考えられないだろう。ただ、「井上長者館跡」の主軸の向きがやや北東向きなのに対して、県道はやや北西向きで、一致しないのは多少気になるところではある。
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