東平遺跡(ひがしだいらいせき)。推定安侯駅家跡(すいていあごのうまやあと)。
場所:茨城県笠間市安居338-1外。茨城県道30号線(水戸岩間線)と同43号線(茨城岩間線)の「土師T字路」交差点から、43号線を東に約3.2km。常磐自動車道の高架下を抜けた先の一帯。駐車場なし。
「東平遺跡」は、涸沼川右岸(南岸)の河岸段丘の台地上(標高約16m)にある、縄文時代中期~弥生時代~古墳時代~奈良時代~平安時代に亘る遺跡。古くから集落が形成されてきた地域であるが、その地名「安居(あご)」から古代官道の「安侯駅家」の推定地とされていた。古代東海道は常陸国府(「常陸国府跡」2018年1月6日記事)が終点であるが、そこから更に北へ向かう官道があった。それは、「続日本紀」養老3年(719年)記事に見える石城国(後に陸奥国に編入。現・福島県)に置かれた所謂「海道十駅」に連絡する道路で、「日本後記」弘仁3年(812年)条の「常陸国の安侯・河内・石橋・助川・藻島・棚島の6駅を廃し・・・」(現代語訳)記事で、その官道上の駅家が廃止されたことがわかる(陸奥国海道十駅は前年に廃止。)。なお、「河内駅家」は「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)の台地の下にあったとされ、「藻島駅家」は「長者山官衙遺跡及び常陸国海道跡」(2020年2月22日記事)として跡地が発見されている。ところが、いったんは廃止された「安侯駅家」であるが、「延喜式」 (延長5年(927年)成立) には「河内駅家」とともに「安侯駅家」も掲載されているので、時期不明ながら、復活したらしい。
さて、当地の北、約1.2kmのところ(笠間市長兎路と仁古田の境)に「五万堀古道遺跡」という古道跡があり、八幡太郎こと源義家が「後三年合戦」で奥州に向かうため5万人の兵士を率いて通ったとされる伝承があった。平成10年に発掘調査が行われ、8世紀前半頃に造られた両側にU形の溝のある幅6.2〜10mの直線道路遺構(約280m)が確認され、その先をそのまま北東方向に延長すると「河内駅家」推定地である茨城県水戸市渡里町に至ることから、「東平遺跡」が「安侯駅家」跡である可能性が高まった。その翌年の平成11年には、「東平遺跡」内の民家庭先から、「騎兵長十」と読める墨書土器が出土した。弓矢で使う雁股式鉄鏃も発掘され、駅家に付属する軍団等の存在が推定された。その後、本格的な発掘調査が行われ、「版築基壇(はんちくきだん)」という土を突き固めた土台を持つ礎石建物跡や、掘立柱建物2棟なども発見された。出土品としては土師器、須恵器などもあるが、長さ約8m、幅約2m、厚さ約15cmという炭化米の層が見つかったという。これは、建物が穀倉だったと推定され、建物の大きさなどからみて、律令期の「法倉」と呼ばれるものに相当するものとされた。ということで、「安侯駅家」跡と断定するまでには至っていないようであるが、まず間違いないと思われる。
因みに、例によって、当地にも長者伝説がある。当地には「あずま長者」(または「持丸長者」)がいて、源義家が奥州から都に帰る途中で長者屋敷に立ち寄った。長者は豪華な御馳走を出して義家一行をもてなした。出発の時になって雨が降り出して、なかなか降り止まなかったところ、直ぐに5万人分の雨具を用意して差し出した。義家は礼を言って出立したが、このような豪族をこのままにしておいたらやがて災いを起こすかも知れない、今のうちに滅ぼしておいた方がよかろう、として途中で引き返し、長者屋敷を焼き討ちにした、というものである。同様の伝説のことは、上記の「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)でも書いた。当地でも古くから炭化米が出土していたことによるものだと思われる。なお、中世には、当地は龍崎氏の知行地で平内三郎という「富有人」がいたとされる(永享7年(1435年)の古文書による。)。「あずま(持丸)長者」との関係は不明だが、「東平遺跡」の南東約800mのところ(南川根郵便局の西側辺り)に「下安居堀之内館(しもあごほりのうちやかた)」という中世城館跡があり、龍崎氏または平内三郎の居館と推定されているようである。平内三郎が「富有人」になったのは、古代官道と涸沼川の通行関税を得ていたから、とされる。
それにしても、古代官道は、現代の高速道路を造るときに発見されることが多いといわれるが、まさにこの辺りは「常磐自動車道」に沿っていて、感心させられる。
笠間市のHPから(安侯駅家推定地)
写真1:「東平遺跡」。今は畑で、遺跡を示すものは何もない。県道から北側を見る。なお、涸沼川の右岸(南岸)にあり、ここから東に向かうと「平津駅家」想定地(茨城県平戸町付近)に至る(なお、「大串貝塚」(2018年7月14日記事参照))。
写真2:同上
写真3:県道の南側にある「山倉神社」。塚原古墳群第4号墳(山倉神社古墳)上にある。南側から道路を建設していく際の目印としたのではないかという説もある。
写真4:「山倉神社」社殿。祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命・須佐之男命・猿田彦命。偶然かもしれないが、道案内の神である猿田彦神が祀られているのが意味ありげである。
写真5:「山倉神社」の南、約140mの交差点にある供養碑。道標ともなっていたようで、古くから交通の要所になっていたらしい。なお、「騎兵長十」の墨書土器が出土したのは、この石碑の裏手(南東)辺りのようである。
場所:茨城県笠間市安居338-1外。茨城県道30号線(水戸岩間線)と同43号線(茨城岩間線)の「土師T字路」交差点から、43号線を東に約3.2km。常磐自動車道の高架下を抜けた先の一帯。駐車場なし。
「東平遺跡」は、涸沼川右岸(南岸)の河岸段丘の台地上(標高約16m)にある、縄文時代中期~弥生時代~古墳時代~奈良時代~平安時代に亘る遺跡。古くから集落が形成されてきた地域であるが、その地名「安居(あご)」から古代官道の「安侯駅家」の推定地とされていた。古代東海道は常陸国府(「常陸国府跡」2018年1月6日記事)が終点であるが、そこから更に北へ向かう官道があった。それは、「続日本紀」養老3年(719年)記事に見える石城国(後に陸奥国に編入。現・福島県)に置かれた所謂「海道十駅」に連絡する道路で、「日本後記」弘仁3年(812年)条の「常陸国の安侯・河内・石橋・助川・藻島・棚島の6駅を廃し・・・」(現代語訳)記事で、その官道上の駅家が廃止されたことがわかる(陸奥国海道十駅は前年に廃止。)。なお、「河内駅家」は「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)の台地の下にあったとされ、「藻島駅家」は「長者山官衙遺跡及び常陸国海道跡」(2020年2月22日記事)として跡地が発見されている。ところが、いったんは廃止された「安侯駅家」であるが、「延喜式」 (延長5年(927年)成立) には「河内駅家」とともに「安侯駅家」も掲載されているので、時期不明ながら、復活したらしい。
さて、当地の北、約1.2kmのところ(笠間市長兎路と仁古田の境)に「五万堀古道遺跡」という古道跡があり、八幡太郎こと源義家が「後三年合戦」で奥州に向かうため5万人の兵士を率いて通ったとされる伝承があった。平成10年に発掘調査が行われ、8世紀前半頃に造られた両側にU形の溝のある幅6.2〜10mの直線道路遺構(約280m)が確認され、その先をそのまま北東方向に延長すると「河内駅家」推定地である茨城県水戸市渡里町に至ることから、「東平遺跡」が「安侯駅家」跡である可能性が高まった。その翌年の平成11年には、「東平遺跡」内の民家庭先から、「騎兵長十」と読める墨書土器が出土した。弓矢で使う雁股式鉄鏃も発掘され、駅家に付属する軍団等の存在が推定された。その後、本格的な発掘調査が行われ、「版築基壇(はんちくきだん)」という土を突き固めた土台を持つ礎石建物跡や、掘立柱建物2棟なども発見された。出土品としては土師器、須恵器などもあるが、長さ約8m、幅約2m、厚さ約15cmという炭化米の層が見つかったという。これは、建物が穀倉だったと推定され、建物の大きさなどからみて、律令期の「法倉」と呼ばれるものに相当するものとされた。ということで、「安侯駅家」跡と断定するまでには至っていないようであるが、まず間違いないと思われる。
因みに、例によって、当地にも長者伝説がある。当地には「あずま長者」(または「持丸長者」)がいて、源義家が奥州から都に帰る途中で長者屋敷に立ち寄った。長者は豪華な御馳走を出して義家一行をもてなした。出発の時になって雨が降り出して、なかなか降り止まなかったところ、直ぐに5万人分の雨具を用意して差し出した。義家は礼を言って出立したが、このような豪族をこのままにしておいたらやがて災いを起こすかも知れない、今のうちに滅ぼしておいた方がよかろう、として途中で引き返し、長者屋敷を焼き討ちにした、というものである。同様の伝説のことは、上記の「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)でも書いた。当地でも古くから炭化米が出土していたことによるものだと思われる。なお、中世には、当地は龍崎氏の知行地で平内三郎という「富有人」がいたとされる(永享7年(1435年)の古文書による。)。「あずま(持丸)長者」との関係は不明だが、「東平遺跡」の南東約800mのところ(南川根郵便局の西側辺り)に「下安居堀之内館(しもあごほりのうちやかた)」という中世城館跡があり、龍崎氏または平内三郎の居館と推定されているようである。平内三郎が「富有人」になったのは、古代官道と涸沼川の通行関税を得ていたから、とされる。
それにしても、古代官道は、現代の高速道路を造るときに発見されることが多いといわれるが、まさにこの辺りは「常磐自動車道」に沿っていて、感心させられる。
笠間市のHPから(安侯駅家推定地)
写真1:「東平遺跡」。今は畑で、遺跡を示すものは何もない。県道から北側を見る。なお、涸沼川の右岸(南岸)にあり、ここから東に向かうと「平津駅家」想定地(茨城県平戸町付近)に至る(なお、「大串貝塚」(2018年7月14日記事参照))。
写真2:同上
写真3:県道の南側にある「山倉神社」。塚原古墳群第4号墳(山倉神社古墳)上にある。南側から道路を建設していく際の目印としたのではないかという説もある。
写真4:「山倉神社」社殿。祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命・須佐之男命・猿田彦命。偶然かもしれないが、道案内の神である猿田彦神が祀られているのが意味ありげである。
写真5:「山倉神社」の南、約140mの交差点にある供養碑。道標ともなっていたようで、古くから交通の要所になっていたらしい。なお、「騎兵長十」の墨書土器が出土したのは、この石碑の裏手(南東)辺りのようである。