神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

東平遺跡(茨城県笠間市)

2020-07-04 23:48:39 | 古道
東平遺跡(ひがしだいらいせき)。推定安侯駅家跡(すいていあごのうまやあと)。
場所:茨城県笠間市安居338-1外。茨城県道30号線(水戸岩間線)と同43号線(茨城岩間線)の「土師T字路」交差点から、43号線を東に約3.2km。常磐自動車道の高架下を抜けた先の一帯。駐車場なし。
「東平遺跡」は、涸沼川右岸(南岸)の河岸段丘の台地上(標高約16m)にある、縄文時代中期~弥生時代~古墳時代~奈良時代~平安時代に亘る遺跡。古くから集落が形成されてきた地域であるが、その地名「安居(あご)」から古代官道の「安侯駅家」の推定地とされていた。古代東海道は常陸国府(「常陸国府跡」2018年1月6日記事)が終点であるが、そこから更に北へ向かう官道があった。それは、「続日本紀」養老3年(719年)記事に見える石城国(後に陸奥国に編入。現・福島県)に置かれた所謂「海道十駅」に連絡する道路で、「日本後記」弘仁3年(812年)条の「常陸国の安侯・河内・石橋・助川・藻島・棚島の6駅を廃し・・・」(現代語訳)記事で、その官道上の駅家が廃止されたことがわかる(陸奥国海道十駅は前年に廃止。)。なお、「河内駅家」は「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)の台地の下にあったとされ、「藻島駅家」は「長者山官衙遺跡及び常陸国海道跡」(2020年2月22日記事)として跡地が発見されている。ところが、いったんは廃止された「安侯駅家」であるが、「延喜式」 (延長5年(927年)成立) には「河内駅家」とともに「安侯駅家」も掲載されているので、時期不明ながら、復活したらしい。
さて、当地の北、約1.2kmのところ(笠間市長兎路と仁古田の境)に「五万堀古道遺跡」という古道跡があり、八幡太郎こと源義家が「後三年合戦」で奥州に向かうため5万人の兵士を率いて通ったとされる伝承があった。平成10年に発掘調査が行われ、8世紀前半頃に造られた両側にU形の溝のある幅6.2〜10mの直線道路遺構(約280m)が確認され、その先をそのまま北東方向に延長すると「河内駅家」推定地である茨城県水戸市渡里町に至ることから、「東平遺跡」が「安侯駅家」跡である可能性が高まった。その翌年の平成11年には、「東平遺跡」内の民家庭先から、「騎兵長十」と読める墨書土器が出土した。弓矢で使う雁股式鉄鏃も発掘され、駅家に付属する軍団等の存在が推定された。その後、本格的な発掘調査が行われ、「版築基壇(はんちくきだん)」という土を突き固めた土台を持つ礎石建物跡や、掘立柱建物2棟なども発見された。出土品としては土師器、須恵器などもあるが、長さ約8m、幅約2m、厚さ約15cmという炭化米の層が見つかったという。これは、建物が穀倉だったと推定され、建物の大きさなどからみて、律令期の「法倉」と呼ばれるものに相当するものとされた。ということで、「安侯駅家」跡と断定するまでには至っていないようであるが、まず間違いないと思われる。
因みに、例によって、当地にも長者伝説がある。当地には「あずま長者」(または「持丸長者」)がいて、源義家が奥州から都に帰る途中で長者屋敷に立ち寄った。長者は豪華な御馳走を出して義家一行をもてなした。出発の時になって雨が降り出して、なかなか降り止まなかったところ、直ぐに5万人分の雨具を用意して差し出した。義家は礼を言って出立したが、このような豪族をこのままにしておいたらやがて災いを起こすかも知れない、今のうちに滅ぼしておいた方がよかろう、として途中で引き返し、長者屋敷を焼き討ちにした、というものである。同様の伝説のことは、上記の「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)でも書いた。当地でも古くから炭化米が出土していたことによるものだと思われる。なお、中世には、当地は龍崎氏の知行地で平内三郎という「富有人」がいたとされる(永享7年(1435年)の古文書による。)。「あずま(持丸)長者」との関係は不明だが、「東平遺跡」の南東約800mのところ(南川根郵便局の西側辺り)に「下安居堀之内館(しもあごほりのうちやかた)」という中世城館跡があり、龍崎氏または平内三郎の居館と推定されているようである。平内三郎が「富有人」になったのは、古代官道と涸沼川の通行関税を得ていたから、とされる。
それにしても、古代官道は、現代の高速道路を造るときに発見されることが多いといわれるが、まさにこの辺りは「常磐自動車道」に沿っていて、感心させられる。


笠間市のHPから(安侯駅家推定地)


写真1:「東平遺跡」。今は畑で、遺跡を示すものは何もない。県道から北側を見る。なお、涸沼川の右岸(南岸)にあり、ここから東に向かうと「平津駅家」想定地(茨城県平戸町付近)に至る(なお、「大串貝塚」(2018年7月14日記事参照))。


写真2:同上


写真3:県道の南側にある「山倉神社」。塚原古墳群第4号墳(山倉神社古墳)上にある。南側から道路を建設していく際の目印としたのではないかという説もある。


写真4:「山倉神社」社殿。祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命・須佐之男命・猿田彦命。偶然かもしれないが、道案内の神である猿田彦神が祀られているのが意味ありげである。


写真5:「山倉神社」の南、約140mの交差点にある供養碑。道標ともなっていたようで、古くから交通の要所になっていたらしい。なお、「騎兵長十」の墨書土器が出土したのは、この石碑の裏手(南東)辺りのようである。
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下総国の古代東海道(その8・延喜式以前のルート)

2013-12-28 23:55:09 | 古道
古代東海道の駅路のルートは、「延喜式」(康保4年(967年)施行)に記載された駅名を辿って考証が行われることが普通だが、「延喜式」以前にルート変更されたケースも多いようだ。下総国のルートもその例で、当初は相模国(現・神奈川県)から東京湾を船で渡って一旦上総国に上陸してから、下総国を縦断(北上)して常陸国に向ったらしい。
当初のルートは、本路として上総国(大倉駅)~鳥取駅~山方駅~荒海駅~(香取海を渡り)常陸国(榎浦駅)があり、上総国(大倉駅)~河曲駅~浮嶋駅~井上駅という下総国府に向う支路Aと、山方駅~真敷駅~香取神宮~常陸国(板来駅)という支路Bがあったと考えられている。ただし、現在も、この本路の具体的なルート、駅の所在地は確定できていない。通説では、鳥取駅が佐倉市内、山方駅が印旛郡栄町内、荒海駅が成田市内(「荒海」という遺称地がある。)とされ、また、支路Bの真敷駅は成田市(旧・香取郡大栄町)南敷付近とされている。なお、支路Bは香取神宮及び鹿嶋神宮への参拝路だったと思われる。全体としては、現・千葉市中心部から成田市方面に向うので、現・国道51号線か、これに沿うようなルートだったのだろう。
それが、宝亀2年(771年)には武蔵国が東山道から東海道へ編入されたことにより、支路Aが本路となる。つまり、井上駅から河曲駅まで下ってきてから、鳥取駅以降のルートを進むことになる。ただし、これでは遠回りになるので、下総国府から北へ向う既存の伝路が本路になり、延暦24年(805年)には鳥取、山方、荒海、真敷の各駅は廃止された(以後は、「延喜式」記載のルート)。
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下総国の古代東海道(その7・河曲駅)

2013-11-23 23:07:06 | 古道
古代東海道の、下総国で最も南の駅家は「河曲(かわわ)」駅となる。実は、古代東海道には、伊勢国にも「河曲」駅があり、現・三重県鈴鹿市木田町付近と推定されている。伊勢国には河曲郡があり、郡名を取って名づけられたものと思われる。なお、推定地の近くには白鳳寺院の「南浦廃寺跡」、「伊勢国分寺跡」、河曲郡衙跡とみられる「狐塚遺跡」(いずれも鈴鹿市国分町)があり、最寄の駅はJR東海の関西本線「河曲」駅である(ただし、駅名は「かわの」と読む。)。
一方、下総国の「河曲」駅には、対応する郡名や遺称地はない。所在地については、かつては諸説あり、現在も発掘調査等による証憑はないが、千葉県千葉市の市街地中心部付近(千葉県庁を中心とする地域)と考えられるようになっている。古代東海道のルートは、幕張・検見川付近までは国道14号線に沿って進んできたものとみられるが、その先は北側にずれていたと思われるものの、直線的な道路痕跡もなく、よくわからない。にも関わらず、千葉市市街地中心部に推定されるのは、他の駅家との距離のほか、千葉市市街地を流れる都川が古代には大きく北に曲流していたとみられることによる。「河曲」駅の所在地をピンポイントで指し示すことは困難であるが、木下良氏(古代交通史研究会長)は、千葉県庁の東側にある現・「亥鼻公園」(住所:千葉市中央区亥鼻1-6-1)の台地上を「河曲」駅の所在地と推定している。ここは千葉氏宗家の本拠地であり、俗に「千葉城」と称することもあるようだが、歴史上では中世の城(館)であり、現在ある鉄筋コンクリート製の「亥鼻城」のような近世風の城ではない(誤解されるとして、歴史ファンからは不評を買っているらしい。)。「亥鼻公園」の北端の台地下には、千葉氏の祖・平良文の子忠頼が生まれた時に湧き出し、以来千葉氏の産湯の水として使われたと伝わる「お茶の水」の湧水跡がある。その名は、源頼朝が当地に来たとき、千葉常胤がこの水でお茶を立てて接待したという伝承によるが、もし、ずっと古くから湧き出していたとすれば、旅人のオアシスだったかもしれない。
ところで、千葉都市モノレール1号線「県庁前」駅の東側(千葉県議会棟の南側)にある羽衣公園内には「羽衣の松」がある。かつて、この辺りに蓮の花が多く咲く、美しい池があり、「池田の池」と呼ばれていた。夜になると、天女が舞い降りて蓮の花を眺めるといわれた。時の千葉介・平常将(1010年~1076年)は、天女の羽衣を隠して地上に留め、妻とした。この話に感激した天皇の仰せにより、千葉の蓮花に因んで「千葉」と名乗るようになったという(このため、千葉氏の系図では常将を初代当主とすることが多いとされる。)。「池田の池」というのはちょっと変な名前だが、かつてこの辺りが池田郷という里であったからで、菅原孝標女の「更級日記」では寛仁4年(1020年)旧暦9月15日に下総国の「いかた」という所に泊まった、と記している。この「いかた」というのが、池田郷のことだとされる。「野中に岡だちたる所に、ただ木ぞ三つたてる」とも描写しているが、この岡(丘)が現・「亥鼻公園」の丘かもしれない。


写真1:千葉県庁(住所:千葉市中央区市場町1-1)。すぐ横を都川が流れている。この水路は、ショートカットのための人工河川とみられている。川を隔てた北側の現・千葉地方裁判所がある辺りが「御殿跡」と呼ばれる場所で、千葉氏の館があった場所ともいう。


写真2:「羽衣の松」


写真3:「亥鼻城」(千葉市立郷土資料館)。写真左下に見えるのは千葉常胤の銅像。


写真4:「御茶の水」。既に湧水は涸れている。なお、徳川光圀(水戸黄門)が通ったときには「東照公御茶ノ水」と呼ばれていたという。
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下総国の古代東海道(その6・浮嶋駅)

2013-09-21 23:45:29 | 古道
古代の東海道は当初、相模国(現・神奈川県)の観音崎から東京湾を船で渡って上総国(現・千葉県南部)に上陸、そこから北上して下総国を縦断(現・千葉県千葉市~佐倉市~成田市)して「香取海」に到り、再び船に乗って常陸国(現・茨城県)に入った(終点は常陸国府(現・茨城県石岡市))とされる。それが、宝亀2年(771年)には、相模国~武蔵国(現・東京都)~下総国府(現・千葉県市川市)~常陸国府というルートに変わったとされる。しかし、このルート変更に関わらず、下総国府と上総国府(現・千葉県市原市)を結ぶ支路があったようだ(ルート変更で、上りと下りが逆になるが。)。その間に、延喜式には、下総国に2つの駅家があったと記されており、それが「浮嶋(うきしま)」駅と「河曲(かわわ)」駅となる。その擬定地には諸説あるが、現在では、「河曲」駅は現在の千葉県庁付近とされていて、(発掘調査による証拠はないが)異論は少ない。また、ルートも、「下総国府」付近にあったと考えられる「井上」駅(2013年6月8日記事)から「河曲」駅までは、現在の国道14号線に沿う見事に直線的な道で、国道14号線がそのまま古代東海道の後身とまではいえないにしても、ルート自体に異論はない。このルートは、「市川砂州」と呼ばれる標高2~8m程度の砂丘上にあり、「千葉街道」、「房総往還」などとも呼ばれ、古くからの街道になっている。
そうした中で、「浮嶋」駅の擬定地はいくつかあり、現・船橋市本町付近、現・習志野市鷺沼付近、現・千葉市花見川区幕張町付近などが挙げられている。こうした「浮嶋」駅の候補地については別項で書くことにするが、「井上」駅(現・市川市市川?)から先の史跡として、まず「葛飾八幡宮」があり、かつては、その門前に海(東京湾)が広がっていたことは既に書いた(2013年3月23日記事)。更に進むと、京成電鉄本線「鬼高」駅の南に、「鬼高遺跡」がある。この遺跡は、古墳時代後期の集落跡で、海辺に住居を築いて漁撈を行っていた場所とされるもの。古墳時代後期(5~6世紀頃)には既に、この辺りが海岸線となっていた証拠となっている。


市川市のHPから(鬼高遺跡)


写真1:国道14号線(千葉街道)に面した「葛飾八幡宮」の一の鳥居と社号標(再掲)


写真2:「史跡 鬼高遺跡」の石碑(場所:千葉県市川市鬼高1-1-2。住宅展示場「ABCハウジング市川」の南側。駐車場なし)


写真3:同上。現在は「鬼高遺跡公園」になっている。
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下総国の古代東海道(その5・於賦駅)

2013-07-27 23:19:48 | 古道
「延喜式」所載の下総国最後の駅家は「於賦(おふ)」駅となる。ただし、例によって、その具体的な場所は不明である。
最近の研究によれば、承平年間(931年~938年)に編纂された「和名類聚抄」(略して「和名抄」)に記載されている相馬郡の「意部郷」という郷名と同じであり、この郷内にあったものと考えられる。また、正倉院文書の中に「下総国倉麻郡意布郷養老五年戸籍」というものがあり、養老5年というのは西暦721年で、「延喜式」の時代からは大きく遡るが、「倉麻郡」は相馬郡、「意布郷」は意部郷と同じものとされる。で、この戸籍に記載された人々の姓は殆どが「藤原部(ふじわらべ)」であるが、その後に台頭してきた藤原氏に遠慮して、天宝宝字5年(757年)の勅により「久須波良部(くすはらべ)」に改姓させられてしまったということがわかっている。ところで、千葉県我孫子市新木地区のいくつかの遺跡から「久須波良部」と記された墨書土器が発見された。その1つには「意布郷」の文字も合わせて記されたものがあり、これらの土器の年代が9世紀前葉~中葉と判定されたことから、我孫子市新木地区を中心に「意布(部)郷」があったことがほぼ確実になった。
こうして、この新木地区と相馬郡家の正倉跡とされる「日秀西遺跡」とはかなり近い位置(遺跡群の中心に近いJR成田線「新木」駅は「日秀西遺跡」の東、約2km)にあることから、まだ見つかっていない相馬郡家と於賦駅家の所在地もこの付近にあったのだろうという説が有力になっている。
なお、古代交通研究会会長・木下良氏は、次の常陸国「榛谷」駅(茨城県龍ヶ崎市半田町付近?)への道が低湿地を通ることになるため、舟を利用することも考え、古代の我孫子台地の先端となる現・利根町役場(茨城県北相馬郡利根町布川)付近に想定している(木下良著「事典日本古代の道と駅」)。ただし、古代の相馬郡には「布佐郷」があり、これが現在の我孫子市布佐付近だとすると、利根町役場は布佐の現・利根川対岸にある(古代には地続き?)。果たして、利根町役場付近は意部(布)郷に属したのだろうか。
ところで、下総国式内社「蛟蝄神社」(2013年1月5日記事参照)門の宮は、JR「新木駅」の東・約6km、利根町役場の北東・約3.5km(いずれも直線距離)の場所にある。古代東海道の守護神であった可能性も考えられる。
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