神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

駿河国の古代東海道(その12・横走駅)

2011-11-08 23:00:21 | 古道
古代東海道では、近世東海道の三島~箱根ルートは支路であって、本路(駅路)は「長倉」駅(静岡県駿東郡長泉町本宿付近?)から真っ直ぐ北に向かい、足柄峠を越えて相模国に入った、と考えられている。「長倉」駅の次は「横走(よこはしり)」駅であるが、遺称地はない。しかし、「富士山を横に見て走る」という意味から、富士山の東麓と箱根山外輪山の西麓の間を通るルートのどこかにあったことは間違いないとされている。現在も、JR御殿場線、東名高速道路、国道246号線は、このルートを通る。
ところで、天暦10年(956年)の「駿河国司解」という資料に「清見横走両関」とあり、「息津」駅に近くにあった「清見関」(2011年7月20日記事)のほかに、「横走関」があったことがわかる。また、ここでも、菅原孝標女が「更級日記」に「横走関」の様子を次のように書いている。即ち、「横走の関の傍に、岩壺といふ所あり。えもいはず大きなる石の四方なる中に、穴のあきたる中より出づる水の、清く冷たきことかぎりなし。」。通説では、「岩壷」とは、現在の「駒門風穴」のことであるとして、その付近に「横走関」及び「横走」駅の所在地を想定している。「静岡県史」によれば、「駒門風穴」の約1km北に御殿場市駒門の小字「関家塚」があり、この付近に「横走関」があったとする。この周辺には「堰田」、「堰上」などという小字もあるらしい。では、「横走」駅家はどこにあったのか。「更級日記」は、寛元4年(1020年)に父の上総国司の任期が終わり帰京するところから始まるので、最初は紀行文のようになっているのだが、駅のことは全く記されていない。国司の旅行なのだから、当然、駅路を通ったはずなのだが、どうやら既に駅家の機能は廃れていたらしい。「横走」駅の所在地の手がかりはないのだが、「清見関」と「息津」駅が近くにあったように、「横走関」と「横走」駅家は近接して置かれていたとみるのが自然のようである。こうしたことから、「横走」駅は、「横走関」の少し北で、足柄峠方面(古代東海道の本路)と籠坂峠~甲斐国方面(同支路)の分岐点となる御殿場市柴怒田(しばんた)付近に想定するのが通説のようである。
さて、「更級日記」には、その頃の富士山の様子について、「山の頂のすこし平ぎたるより、煙は立ちのぼる。夕暮れは火の燃え立つも見ゆ。」とも書かれている。富士山がなお火山として盛んに活動していたことが窺われるが、この足柄峠越えのルートは、「日本紀略」によれば、延暦21年(802年)5月に富士山が噴火して噴石が足柄路を塞いだので、代替として筥荷(箱根)路が開かれたが、翌年5月には足柄路が復活している。度々の噴火によって、地形も変わってしまったところもあるはずで、こうしたことも古代道路や駅家の調査を難しくしているようだ。


「駒門風穴(こまかどかざあな、こまかどふうけつ)」
場所:静岡県御殿場市駒門69。国道246号線「駒門風穴」交差点の南東、約300m。駐車場有り。


伊豆・駿河観光ガイド『駿河湾★百景』HPから(駒門風穴)


写真1:「駒門風穴」観光案内所少し奥に鳥居がある。


写真2:左側・蚕養神社(こがいじんじゃ、祭神:大気都比売神)、中央・風神社(祭神:志那津比古神・志那津比売命)、右・子安神社(祭神:木花咲耶姫神)


写真3:「駒門風穴」入口


写真4:同。中から見上げる。
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駿河国の古代東海道(その11・長倉駅)

2011-10-21 22:14:23 | 古道
駿河国の古代東海道(駅路)は、「曲金北遺跡」(2011年6月17日記事)の発掘調査、条里制の研究、遺称地などによって、志太平野や静清平野については、殆ど異論のないルートが示されている。「蒲原」駅の場所については諸説あるものの、そこから東へは、①愛鷹山麓ルートか、②海岸沿いの砂州ルートかに絞られている。それも、当初は海岸沿いルートだったのが、山麓沿いに変更されたのではないかとも思われている。おそらく、海岸沿いに初期の古代東海道(駅路)が通っており、並行して愛鷹山麓に伝路があったが、後に(多分、平安後半の海進(海面上昇)によって)、従来の伝路が駅路に転用されたのではないかとみられている。
しかし、「蒲原」駅から先(東)の駅については、遺称地もなく、駅家の所在地は全くわかっていない。まず、「長倉」駅は、駿東郡(旧・駿河郡)長泉町、特に、その中の字名で長窪という地区が、古来から「長倉」駅の所在地として想定されてきた。ただし、「長」の字が共通するくらいで、根拠は薄弱のように思える。長泉町元長窪に鎮座する式内社「桃澤神社」(2010年9月3日記事)が駅家と関連するともいわれるが、それも特に根拠があってのことではない。
ところで、「長倉」駅は、時期による変遷があった。「続日本後紀」承和7年(840年)の条に、駿河国駿河郡の「永蔵」駅を伊豆国田方郡に移す、という記事がある。ところが、「日本三代実録」貞観6年(864年)の条(「柏原」駅廃止の記事である。)をみると、「永倉」駅は駿河郡に戻っている。駅名の表記がそれぞれ異なっているのが面白いが、元々の「長倉」駅と、いったん伊豆国に移転して再度駿河国に復した後の「長倉」駅が同じ場所なのかも、わかっていない。
さて、独断と偏見により、ルートと駅家所在地を想定してみる。まず、初期には、駿河湾沿いの砂丘上を進む。単純に進むと南に行き過ぎるので、現・沼津市片浜(因みに、JR東海道本線「片浜」駅の南側に古墳時代~近世の集落遺跡「東畑毛遺跡」がある。)付近を過ぎた辺りで、真東に向きを変える。そうすると、JR東海道本線「沼津」駅の約600m北を通る。「沼津」駅の北口周辺には「上ノ段遺跡」があり、発掘調査によれば、奈良~平安時代の住居跡141軒、掘立柱建物跡40軒以上の遺構が発見され、墨書土器、陶枕、帯金具なども出土したことから、駿河郡家址かとも思われる。そうすると、初期の「長倉」駅家もこの辺りか、もう少し東の現・沼津市大岡付近にあったのではないかと思われる。ここまで来ると、伊豆国の国府があったと思われる伊豆国一宮「三嶋大社」(静岡県三島市大宮町)付近まで、北東に4km程である。「長倉」駅がいったん伊豆国に移って、程なく駿河国に戻ったとすると、国境を僅かに越えた辺りに伊豆国の「長倉」駅があったと考えられる。ルート変更の時期は不明だが、古代東海道(駅路)が愛鷹山麓に移ったとすると、現・富士市中心部に想定される(移転後の)「蒲原」駅から、概ね現在の県道22号線(三島富士線)を東に進む。県道22号線は「江原公園」交差点で国道1号線と接した後、北東に進むが、同交差点からは真東に国道1号線が伸びている(因みに、同交差点のすぐ北に「辻畑古墳」(2010年9月17日記事)がある。)。国道1号線は、国道246号線との立体交差を過ぎると東南に向かうが、真東に直線的な道路があることがわかる。単純に東に進むと、伊豆国分寺付近を通って、「三嶋大社」に突き当たる。その道路の途中の「竹橋陸橋南」交差点を左折(北へ)すると、次の「横走」駅方面に行ける。ここまでピンポイントでなくても、その後の集落発展状況等も考慮して、黄瀬川岸の現・長泉町本宿、あるいは同下土狩付近に、後期「長倉」駅家所在地が想定されることになる。
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駿河国の古代東海道(その10・柏原駅)

2011-10-07 23:19:35 | 古道
古代東海道においても、長い間にはルートや駅家の変動があった。駅家の名がまとまって記載されている「延喜式」(927年成立)は、原則的・典型的な姿ではなく、むしろ律令制が崩壊しつつあった時期に当たる。「日本三代実録」(901年成立)の貞観6年(864年)の条によれば、「柏原」駅を廃止し、「蒲原」駅を富士川の東野に移したことがわかる。「蒲原」から東の古代東海道ルートは不明であるが、かつては現・富士市から現・沼津市に跨る広大な「浮島沼」(須戸湖)が広がっており、これを避けて①駿河湾沿いの砂丘上ルート、または②愛鷹山山麓ルート(現・東海道新幹線に沿って、約300m南)のいずれかだろうといわれている。そして、「柏原」駅は、①の砂丘上ルートの場合は現・柏原付近、②の山麓ルートの場合は船津付近と想定されている。「船津」という地名は、浮島沼を利用した水上交通の中心地だったことによるものだろう。
さて、砂丘上ルートには、現在も柏原及び西・中・東に分かれている柏原新田という遺称地がある(JR東海道本線「東田子の浦」駅を中心とした地域)。また、「柏原」というのは、近世東海道の五十三次には含まれない、いわゆる「間宿(あいのしゅく)」であった。「間宿」は、幕府公認の宿と宿の間に設けられた休憩のための宿場で、非公認であるために宿泊は禁じられていた。このため、近世「柏原宿」は飯屋が多く、鰻の蒲焼が名物だったという(十返舎一九の「東海道中膝栗毛」でも、金がない弥次さん喜多さんは、蒲焼の匂いだけで我慢した、という滑稽な情景が描かれている。)。「柏原宿」は、江戸時代には「間宿」とされたが、宿としての起源は平安時代後期にまで遡るともされている。
こうしたことを含め諸般の事情から、古代東海道における廃止前の「柏原」駅は現・富士市柏原付近にあり、駿河湾沿いの砂丘上に駅路のルートがあったと考えられる。ところが、貞観6年(864年)に「柏原」駅が廃止され、「蒲原」駅が移転した際、移転先は(諸説あるが)現・富士市本市場付近と想定されており、その周辺や浮島沼の北側にも重要な遺跡等も多いことから、このときに駅路も愛鷹山麓を通るルートに変更されたのではないかと考えられている。

なお、「間宿 柏原・本陣跡」の碑の近くに「正法山 立圓寺(しょうほうさん りゅうえんじ)」がある。「立圓寺」は日蓮宗の寺院で、万治3年(1660年)に京都・立本寺20世日審によって開創された。境内にある「望嶽碑」は、文化5年(1808年)に尾張藩医の柴田景浩が、当寺からみる富士山が余りに素晴らしいとして建てたもの。
場所:静岡県富士市柏原2-72。県道380号線(富士清水線)「東田子ノ浦駅前」交差点の西、約300m。駐車場有り。


富士市のHPから(柏原のうなぎの蒲焼)PDFファイル

同(浮島沼の沼のばんばあ)PDFファイル ※昭和15年頃の浮島沼の写真あり

日蓮宗静岡県中部宗務所さんのHP(立圓寺)


写真1:「間宿 柏原・本陣跡」の碑(場所:静岡県富士市西柏原新田。県道380号線(富士清水線)「東田子ノ浦駅前」交差点の西、約200m)


写真2:「立圓寺」仁王門


写真3:「立圓寺」境内。日蓮上人像の隣にある尖った三角形の石碑が「望嶽碑」。
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駿河国の古代東海道(その9・蒲原駅)

2011-08-30 23:19:43 | 古道
古代東海道は、安倍川を越えて興津までは静清平野を一直線に横切って進んでいたことが明らかになったが、その先のルートは、実は良く判っていない。ともあれ、薩埵峠(あるいは岫崎)を過ぎて、由比の先に、次の駅家「蒲原」駅があったと考えられる。
「日本三代実録」貞観6年(864年)の条に、「駿河郡には横走、永倉、柏原の3つの駅家があるが、地元民の負担が重いので、申請により柏原駅を廃止して、富士郡の蒲原駅を富士川の東岸に移した。これによって、永倉駅までの駅間の距離が平均化され、地元民の負担が軽くなった。」(意訳)とある。したがって、延喜式(延長5年:927年完成)の「蒲原」駅は、既に移転後のものを指す(延喜式に「柏原」駅の名がないのも同様の理由である。)。
では、移転前の「蒲原」駅家はどこにあったか。現在も静岡市清水区蒲原(旧・庵原郡蒲原町)という遺称地があり、鎌倉時代以降「蒲原宿」として栄えたところである。「蒲原宿」は、元は、現在のJR東海道本線「新蒲原」駅の南側にあったが、富士川の氾濫等により、同駅の北側に移転したとされる。なお、JR東海道本線には「蒲原」駅もあるが、駅設置時の諸事情によって、最初に宿場から離れたところに「蒲原」駅ができ、後から宿場中心部に近い場所に「新蒲原」駅が置かれたもので、少しややこしい。閑話休題、移転前の「蒲原」駅は、①上記の「三代実録」の記事によれば、移転前には富士川の西側にあったと思われること、②「蒲原」という遺称地が今もあること、③「息津」駅の想定地から(原則的な駅間の距離である)約16kmの場所にあることなどから、中世蒲原宿付近が最有力だが、遺跡等は発見されていない。このため、異説も多い。富士川の現在の河口は、江戸時代初期に築造された「雁堤」によって、かなり西側に移されたと考えられること、「和名類聚抄」(平安時代中期)によれば、廬原郡と富士郡の両方に「蒲原郷」があることなどから、中世蒲原宿よりも東に(ひょっとすると、現在の富士川の東岸に)あったと考える人もいるようだ。
一方、移転先の「蒲原」駅がどこにあったか、これも諸説あって一定しない。現在の富士市本市場付近というのが有力だが、これも特に根拠があってのことではないようだ。「吾妻鏡」治承4年(1180年)の条によると、源頼朝軍が「賀嶋」に到達したのに対し、平維盛軍は富士川西岸に陣取ったとされているので、平安時代末には「賀嶋」=旧・加島村、現・富士市本市場が富士川東岸にあり、かつ布陣に適した場所であったものと考えられる。こうしたことから、この辺りに、移転後の「蒲原」駅があったのではないか、と考えられているようである。
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駿河の古代東海道(その8・息津駅)

2011-07-29 23:57:55 | 古道
古代東海道は、駿河国府最寄の「横田駅」から東北に真っ直ぐ進み、次の駅家は「息津(おきつ)駅」となる。「清見寺」の西側辺りから山が海に迫っており、この付近からは古代も近世もほとんど変わらないルートだったとみられる。「清見寺」(あるいは「清見関」)の東側に近世の興津宿(現・静岡市清水区興津中町)があり、「おきつ」の遺称地となっている。
ただし、遺跡等は発見されていないので、当時の「息津駅」は横砂辺りにあったのではないか、という説もある。確かに、①近世興津宿付近は平地が少なく、駅家を維持するための物資・飼料等の調達が不便だったのではないか、②蝦夷の侵入を防ぐための「清見関」の東側に駅家を設置するのは防御上どうか、③中世の浄見長者の屋敷が横砂にあり、この付近に「息津駅」があったのではないか、などを考えると、それなりの説得力もあるように思われる。
通説としては、古代「息津駅」は近世興津宿付近にあり、より具体的には、東海道と身延道の分岐点付近とする(木下良氏ほか)。身延道は、日蓮宗総本山である「身延山 久遠寺」を結ぶ道としてその名があるが、「久遠寺」創建以前から既に、この道は駿河と甲斐・信濃を結ぶ重要な道であった。戦国時代、甲斐の武田信玄が駿河に侵攻してきたのも、この道によった。現在の通称「身延街道」(国道52号線)は旧道より東側にあるが、旧道の入口は「しずおか信用金庫興津支店」(静岡市清水区興津中町274)の角のところである。現在では、「身延山道」と刻された石碑や大きな題目石が纏めて置かれている(写真)が、かつてはここに小さな仏堂があったという。この付近を「息津駅」と推定するのは、①駅家は重要な道路の分岐点付近に設置されることが多いこと、②古代東海道は、この分岐点付近からいったん北上し、東名高速道路と交差する付近で右折(東へ)し、直進して興津川を渡河したのではないかとみられること、③「横田駅」推定地から約15.6kmで、30里(約16km)間隔の原則に合致すること、④貞応2年(1223年)成立とされる紀行文「海道記」は、西から「清見関」→「興津の浦」→「岫が崎(くきがさき)」(薩埵峠の下の海岸)の順に書かれており、やや時代は下るが、「興津」という地名が「清見関」の東にあるとしていること等による。


写真:身延道追分(分岐)付近。「息津」駅家があった?


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