神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

浅間塚古墳(茨城県潮来市)

2022-09-10 23:31:46 | 古墳
浅間塚古墳(せんげんづかこふん)。
場所:茨城県潮来市上戸1990ー2外。国道51号線「上戸」交差点から南東へ約500mのところに登り口がある。駐車場なし。交通量が非常に多い国道沿いで、自動車の場合は、どこか少し離れた安全なところに駐車して来る必要がある。
「浅間塚古墳」は全長約84m(茨城県内第11位)、後円部の径約48m・高さ約7.5m、前方部幅約25m・高さ4.5mという大型古墳である。古墳の形態等から築造時期は4世紀末~5世紀初め頃と推定され、霞ヶ浦・北浦周辺部で最古クラスの前方後円墳とみられている。なお、埴輪等は発見されておらず、墳丘の北東側に幅約10mの周溝が認められている。現在、後円部墳頂に「浅間神社」の石祠がある。
当古墳の南側には、現在は常陸利根川が流れているが、古代には「香取海」という広大な内海が広がっていたと思われ、当古墳の古さ・大きさも然ることながら、対岸(南)は千葉県香取市津宮で、その更に先(南)に下総国一宮「香取神宮」(2012年3月3日記事)が鎮座するという位置であることに何か意味があるのではないかとも思われる。
蛇足:明間正著「牛堀町の昔ばなし」には、次のような話が収録されている。「浅間塚」の山に昔、長者が住んでいて、長者と呼ばれるにふさわしい、情の深い人であった。人々の暮らしは一枚の着物に一個のお椀、という風で、寄り合いや冠婚葬祭の集まりに膳椀を揃えるのが難事であったが、長者が貸してくれるのだった。山裾の道祖神様のところに、必要な数を書いて置いてくると、翌朝にはその数の膳椀が棚の上に並べられていたという。こうして、山の上の長者は膳棚長者と呼ばれるようになった。ところが、慣れれば不心得者が出てくるもので、借りた膳椀のいくつかをくすねる者がいたり、しまいにはそっくり借り貰い申してしまうものが出てくるに至り、以降いくら頼んでも膳椀は現れなくなってしまったという。さて、これは、昔話によくある「貸椀伝説」で、古墳の開口した石室のところで頼むと必要なだけ椀を貸してくれるというものが多いが、当古墳にどう当てはまるのかはよくわからない。因みに、明間正氏は、当古墳の近くに段々になった大きな方墳があり、これを「膳棚山」といって、そちらの話だったのではないかとも書いている。なお、当古墳の南東、約200mのところに「大塚野古墳」という古墳があったとされている(現在は湮滅。町営水道給水塔が建っている場所のようである。)。


写真1:「浅間塚古墳」全景。南西から見る。古墳の下の擁壁・ガードレールは国道51号線。


写真2:後円部への登り口にある「浅間さま入口」石碑。


写真3:同上、説明板。


写真4:結構急坂だが、石段等はない。前方に鳥居が見える。


写真5:「浅間神社」の鳥居


写真6:後円部墳頂の「浅間神社」石祠。通称:浅間さま。


写真7:神社前から南西側を見下ろす。「常陸利根川」の向こう側は千葉県香取市になる。古代には「香取海」が広がっていただろう。


写真8:後円部から前方部を見る。


写真9:古墳の南側から見る。
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権現塚古墳(茨城県神栖市)

2022-08-20 23:34:38 | 古墳
権現塚古墳(ごんげんづかこふん)。
場所:茨城県神栖市日川4241-1。茨城県道260号線(谷原息栖東庄線)「日川一番」交差点から北西へ約300m。駐車場なし。
「権現塚古墳」は、全長約20m、標高約5.6mの前方後円墳(現地説明板による。)で、前方部は西向き。前方部より後円部が高いことから、古墳時代前期に築造されたものと考えられている。神栖市では殆どの古墳が湮滅してしまい、市内唯一の前方後円墳であるという。発掘調査等も行われていないようで、これ以上のことはわからない(茨城県内だけでも、もっと大きいとか、古いとかの古墳は幾らでもあるから、やむを得ないだろう。)。重要なことは、この古墳が自然地形を利用して築造されたものらしいこと、そして、その位置が現・常陸利根川に面していること。つまり、古代の巨大な内海「香取海」と太平洋とが繋がっていた場所だということである。また、この古墳の直ぐ近くに「息栖神社旧地」がある。「息栖神社」(2017年12月2日記事)は、常陸国一宮「鹿島神宮」と下総国一宮「香取神宮」と合わせて「東国三社」と称され、「日本三代実録」仁和元年(885年)の記事に見える「於岐都説神」、即ち式外社(国史見在社)とするのが通説。応神天皇の時代に当地(神栖市日川)で創建したが、大同2年(807年)に現在地(神栖市息栖)に遷座したとされる。遷座の理由だが、大津波の被害に遭ったから、という伝承がある。大同2年という年号は、古社寺の創建年代等としてよく出てくるものなので、どの程度信じてよいか分からないが、これを信じるとすれば、「日本後紀」延暦18年(799年)条に「鹿島・那珂・久慈・多珂の4郡に、これまで見たこともないような津波が押し寄せた」(現代語訳)という記事があり、このときの津波によるものかもしれない。いずれにせよ、当地周辺の集落に住む人々がこの古墳を造り、「息栖神社」や「鹿島神宮」の神を奉じたということなのだろうと思われる。


写真1:「権現塚古墳」。東側から見る。後円部の正面と思われる。


写真2:同上、北側から見る。後円部。


写真3:同上、北西側から見る。左手の赤い自動車が突っ込んでいるところが括れ部分、右手が前方部。


写真4:同上、南東部から見る。前方部の端だが、かなり低くなっている。


写真5:同上、前方部(西向き)。


写真6:同上、後円部を見る。後円部墳頂に祠がある。


写真7:同上、祠に上る石段(後円部の南側)。


写真8:墳頂の祠(南向き)。「権現様」と呼ばれているようだが、正式名称・祭神不明。


写真9:同上、南側に鳥居がある。古墳の南側は田圃になっていて、参道は畦道。鳥居の先、約200mに常陸利根川が流れている。神社が南向きというのは極めて一般的だが、この場合は、川(かつては海?)側に向けて水上交通の守り神としたという感じがある。なお、鳥居に扁額があるが、神社名はない。


写真10:「息栖神社跡地」(場所:茨城県神栖市日川4232−1。「権現塚古墳」から北西に約60m進んで右折(北東へ)、約130m進ん右折(南東へ)、直ぐ。「石塚運動公園」の西の角。駐車場なし。)。説明板があるだけ。隣接して立派な石碑があるが、これは「石塚開発の碑」で、「息栖神社」とは無関係。
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富士見塚古墳群(茨城県かすみがうら市)

2022-05-14 23:31:56 | 古墳
富士見塚古墳群(ふじみづかこふんぐん)。
場所:茨城県かすみがうら市柏崎1555-3(「富士見塚古墳公園」の住所)。茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)「馬場山」交差点から、東へ約5.9km。「富士見塚古墳展示館」、駐車場有り。
「富士見塚古墳群」は、霞ヶ浦(高浜入り)と菱木川の間の狭長な台地に築造された、前方後円墳1基と円墳4基からなる古墳群である。「富士見塚古墳」(1号墳)が前方後円墳で、周囲に幅約16~26mの盾形周溝を巡らせてあり、古墳全長80.2m、後円部径38.4m・高さ8.5m、前方部幅49.4m・高さ9mという大きさは、かすみがうら市では最大のもの。前方部は南西向きで、南側を走る県道側からは古墳が見えず、霞ヶ浦側からよく見えることを意識して造られたものと思われる。平成2年に行われた発掘調査の結果、既に盗掘に遭っていて埋葬施設周辺が荒らされていたが、後円部から木棺、前方部から箱式石棺が発見された。副葬品として直刀・鉄鏃・金銅製馬具・管玉・ガラス玉など、周溝・墳丘裾部・くびれ部の張出し部から円筒埴輪や形象埴輪(人型、動物型、家形等)が出土した。築造時期は、墳丘形態・埋葬施設・出土遺物等から5世紀末~6世紀初頭と推定されている。2号墳は直径約15mの円墳で、築造時期は1号墳と同じ5世紀末~6世紀初頭頃、3号墳は直径約18mの円墳で、6世紀末頃とされている。平成4年に史跡公園として復元・整備され、1号墳~3号墳が平成20年に茨城県指定史跡に、その出土遺物が茨城県指定有形文化財に指定された。


かすみがうら市のHPから(富士見塚古墳公園)

茨城県教育委員会のHPから(富士見塚 1号墳・2号墳・3号墳 3基)


写真1:「富士見塚1号墳」。南東側から見る。手前が前方部、奥が後円部。石段下の括れ部分に張出がある。


写真2:同上、南西側からみる。手前が後円部、奥が前方部。


写真3:同上、北西側から見る。手前が後円部、奥が前方部。


写真4:同上、北東部から見る。手前が前方部、奥が後円部。


写真5:同上、後円部墳頂から前方部を見る(南東方向)。


写真6:同上、後円部墳頂から前方部を見る。傾斜が結構きつい。


写真7:同上、前方部から霞ヶ浦を見る(北方向)。


写真8:同上、前方部墳頂から後円部を見る(北西方向)。


写真9:同上、前方部墳頂から南西側を見下ろすと、「富士見塚古墳群2号墳」が見える。


写真10:「富士見塚古墳群2号墳」


写真11:「富士見塚古墳群3号墳」。2号墳の南西側にある。
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王塚古墳・后塚古墳(茨城県土浦市)

2022-05-07 23:35:55 | 古墳
王塚古墳・后塚古墳(おうつかこふん・きさきつかこふん)。
場所:茨城県土浦市手野町2179-1(「薬王寺」の住所)。国道354号線「木田余跨線橋東」交差点から北東へ約600mの交差点を右折(南東へ)、茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)を約130mで「薬王寺」入口。駐車場なし。古墳は「薬王寺」本堂裏山の墓地を挟むような位置にある。
「王塚古墳」と「后塚古墳」は、霞ヶ浦の桜川河口に近い、標高約22~25mの舌状台地に、約100mの間隔で築かれた2つの古墳である。王・后の名がついているが、被葬者は不明で、王とその后の墳墓かどうかはわからない。「王塚古墳」は前方後円墳で、墳長約84m、後円部径約45m・高さ約8m、前方部幅約25m(復元)・長さ約39m・高さ約3mという大きさとされ、土浦市内では最大の古墳という。前方部の幅が狭い手鏡型という比較的古い形式を示し、4世紀終末~5世紀前半の築造とされる。一方、「后塚古墳」は前方後方墳(前方後円墳とする説有り。)で、墳長約54m、後方部幅約36m・高さ約5.5m、前方幅約18m・長さ約18m・高さ約2.5mで、周溝もあったとされる。築造時期は「王塚古墳」と同時期だが、こちらのほうがやや早く造られたとみられている。いずれも発掘調査等が行われていないため詳細は不明だが、葺石や埴輪、土器片等は見つかっておらず、もともと設置されなかった可能性が高い。自然地形を活かして築造されたようで、「王塚古墳」は前方部が南東向き、「后塚古墳」は南西向きになっているのは、それぞれ、台地の先端を利用した結果らしい。ともに土浦市指定史跡となっており、築造時期・大きさ・所在位置等からしても重要な古墳と思われるが、樹木や竹が生い茂り、土砂がかなり流出してしまっているようで、保存状態がやや悪いのが残念。


写真1:真言宗豊山派「涌出山 宝蔵院 薬王寺」入口。堂宇は石段の上、台地の端にあることがわかる。


写真2:同上、本堂と六地蔵


写真3:同上、大師堂。向かって左手の石段が墓地参道で、古墳へはここを上る。


写真4:「王塚古墳」後円部。墓地の南側にある。後円部の北側から見る。ぱっと見は、大きな円墳に見える。なお、南側は本堂敷地としてかなり削平されている模様。


写真5:同上、目印になる「馬頭観世音菩薩」板碑(草が茂っていると、隠れてしまうが。)


写真6:同上、板碑の右手に墳頂へ上る道ができている。


写真7:同上、後円部墳頂の石祠(「天満宮」とのこと。)


写真8:同上、後円部墳頂。何となく円い感じがわかる。


写真9:同上、前方部を見下ろす。初めて巨大さがわかるが、前方部はかなり細長いようだ。


写真10:同上、後円部。北東側から見る。


写真11:「后塚古墳」。「市指定史跡 后塚古墳」石柱がある。墓地の北西側。


写真12:同上、後円部。北側から見る。


写真13:同上、前方部。南西部から見る。


写真14:同上、後円部墳頂。


写真15:同上、前方部を見下ろす。


写真16:同上、前方部はかなり低く、傾斜になっていて、土砂が流出してしまっているようだ。


写真17:同上、括れ部分付近。南東側から見る。木の根付近に供養塔らしき石材がある。


写真18:同上、後円部東側から前方部東側を見る。
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常名天神山古墳

2022-04-30 23:32:43 | 古墳
常名天神山古墳(ひたなてんじんやまこふん)。
場所:茨城県土浦市常名2445-1外。国道354号線の通称「真鍋四ツ角」交差点から西~北西へ約1.8km、電柱に「金山寺→」という案内看板が出ているところで右折(北へ)、次の交差点(約40m)を左折(西へ)、約100mで「常名神社」入口。駐車場は、その先をぐるりと回って(北側へ。神社の裏手)、古墳の横を通って神社境内に入れる道があるが、道幅が狭いので注意。
「常名天神山古墳」は全長約70mの前方後円墳で、後円部径約45m・高さ約7m、前方部先端幅約25m・高さ約4m。一部は削られていて、当初は全長約90mあったと推定されており、土浦市内では2番目の大きさという。桜川左岸(北岸)の標高約23mの台地上にあり、前方部は西向き。発掘調査等は行われていないが、低平な前方部の形態から古墳時代前期(5世紀初頭)頃の築造と推定されている。なお、埴輪、葺石等は見つかっていない。古墳は土浦市指定文化財(史跡)に指定されており、後円部墳頂に「常名神社」、前方部には小祠と石造の宝篋印塔がある。この宝篋印塔は、花崗岩製で、基礎の下段部分以下が失われているが、現高は約135cm。安土桃山時代の作とみられ、土浦市指定文化財(工芸品)となっている。
なお、「常名神社」の創建年代は不明だが、大正2年、当地にあった「天神社」に「八幡神社」を合祀し、大正14年に村社に列格したという。現在の祭神は、菅原道真公と誉田別命。
蛇足:常名(ひたな)というのは難読地名だろう。「土浦市史民俗編」によれば、次のような伝承があるらしい。「昔、桜川の奥まで海が入り込んでいた。日本武尊が当地を通りかかったとき、水が満々とたたえられていた。ところが、帰りにまた当地を通ると、干潟になっていた。この言葉が訛って「ひたな」となり、現在の文字が当てられるようになった...」。「ひがた」が「ひたな」に変化したこと、「ひたな」に「常名」という漢字が当てられたことについては、何となくしっくりしないのだけれど、日本武尊が当地を通った、という伝説があることは注目に値すると思う。


写真1:「常名神社」入口。鳥居と社号標(「村社 常名神社」)


写真2:狭くて急な長い石段を上って行く。


写真3:石段を上りきると、直ぐに拝殿。


写真4:拝殿・本殿


写真5:社殿は「常名天神山古墳」後円部墳頂にあり、そこから下に下りたところに説明板と市指定史跡の石柱がある。


写真6:後円部から前方部を見る(東側から西側を見る)。括れがはっきりせず、真っ直ぐ下がっているように見える。


写真7:前方部に小祠が並んでいる。


写真8:前方部。西側から見る。


写真9:前方部。南西側から見る。


写真10:前方部にある石造宝篋印塔


写真11:前方部から後円部を見る(西側から東側を見る。)。
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